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「美菜先生って…健斗の奥さんのこと?」
「えぇ」
「もしかして、美菜様とも交流があるの?」
美菜…様?
何で様付けなのだろうかと思いながら、私は頷く。
「美菜先生繋がりで、院長と知り合ったようなものですから」
「仲…良いの?」
美菜先生の信奉者か、苦手なのか、榊紫苑はどちらだろう。
前者だと返答の仕方を間違えると、捻じれた嫉妬を浴びることになるから、注意して答えないと。
「時々、職場での院長の様子を報告はしています。榊さんは、美菜先生と仲がよろしいんですか?」
さし障りのなさそうな事実を伝えて尋ねれば、年下の美青年は力ない笑みを浮かべる。
「健斗と仲が良いから、色々、気にはかけてくれるけど…あの人の愛情表現って、何というか独特だから…」
言葉を濁したけれど、表情から察するに、彼にとって美菜先生は苦手な人のようだった。
美菜先生はものすごく美人で、男性に良くもてるけど男性嫌いで、愛情表現が下手。女性にはそんなこと全然ないのだけど。
外見が華やかで歯に衣着せぬ率直な言葉もあって、特に男性には『女王様』みたいだって誤解されがちなのだけど、細やかな配慮が出来る素敵な人。
…ツンデレって、院長が言っていた気がする。
ツンデレがなにか、知らないけれど。
「でも、エステを受けに行くんじゃなくて、マッサージの勉強ってどういうこと?」
「院長命令なんです。アロマテラピーとマッサージを使った不眠治療法の勉強をかねて…」
反射的に答えて、しまったと思う。
まだ、正式にクリニックで取り入れるとも決まっていない話なのに。
「アロマ?あぁ、だから、吉良さんラベンダーの匂いがするんだ」
言われて、思わず自分の腕を寄せて匂いを嗅ぐ。自分では良く分からない。
「…匂います?」
「近付くと、少しだけ」
私の姿を見て、榊紫苑は穏やかに笑う。
「ラベンダーと何か別の匂いもしたけど、その時で香が違うし、何か分からなくて。ずっと気になっていたんだ」
「それならたぶん、クラリセージかマンダリンです。寝室用で調香したルームフレグランスの配合で良く使うのが、その二種類なので」
「調香?」
「香りを掛け合わせるんです」
「そんなことできるの?」
「エッセンシャルオイルがあれば…簡単ですよ?」
「ちなみに、何の効果があるの?」
「どの香にも一応、リラックス効果がありますね。気分が落ち着くと睡眠導入が行いやすくなるので、寝つきを良くしたい時に、体調に合わせてラベンダーベースで香を変えます」
流石に、クラリセージに通経作用があって月経不順に効くとは言えないんだけど、ちゃんとリラックス効果もあるし、嘘は言っていない。
「…それ、効く?」
珍しく興味津々な相手に、私はすこし言葉を考える。
アロマオイルの原料にもなる薬草は、今の様な化学薬品が発達していない時代は、医薬品として様々な形で用いられてきた。
だからこそ、効果が気休め程度のものではないことは確かだけれど、過度の期待を持たせるのも危険。
「精神的な昂りやストレスで眠れないのなら、効果があるかも知れませんね」
「曖昧に言うんだね?」
「匂いの好みや体質もありますし、神経が異常に昂っていても効果は薄れます。万人に等しく効果を発揮するという訳でもないんですよ」
「ふーん」
榊紫苑は、納得したような、しないような表情で私をじっと見下ろしてくる。
「興味があるようでしたら、此処にも一応いくつかエッセンシャルオイルがありますから、試しに好みの香りを合わせてみますか?」
「…せっかくだけど、止めておくよ。俺の不眠の原因には効きそうにないから」
そう答えて、榊紫苑は苦笑する。
彼の不眠の原因は、いったい何なのだろう。
尋ねようかとも思ったけれど、笑みの中に触れてほしくないという明らかな拒絶もあって、私は言葉を飲み込んだ。
「でも…」
不意に榊紫苑が近付き、思わず私は後退るけれど、シンク台に背後を阻まれる。
相手の指先が私の左頬を、撫でるように触れる。
私を見下ろす男の表情に笑みはなく、驚くほど真摯な顔をしていた。
榊一族の美形に見慣れた私でさえ、榊紫苑の卓越した美貌に息をのんだ。
相手の手を、振り払うことを失念するほどに。
「貴女にはとても興味があるから、色々、俺だけに貴女のこと教えてほしいな」
低く囁かれた声はひどく淫靡で、乙女の心蕩かす様なその文句の後、新たな衝撃が私を襲った。
重ねられた唇に、私の理性が粉々に砕け散った。
※アロマなマメ知識メモ
クラリセージには女性ホルモン(エストロゲン)に似た成分が含まれているので、月経周期の乱れや更年期の様々な症状を和らげる効果がある、女性向きな精油とされています。
ただ、月経を促す作用があるので、妊娠中の方はご使用にならないでくださいね。