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愛とか、意味が分かりませんけど、院長…。
絶対に確信犯の嫌がらせだと分かり、私はちらりと榊紫苑を見る。
ものすごく怪訝そうな顔をして、私を見つめている。
この表情は、一〇〇%誤解している顔だわ。
「なに、やっぱり付き合ってるの?」
「違いま…」
言いかけた時、立ち上がった院長に突然、左側に顔を向けられる。
何事かと思えば、口の中にだし巻き卵が入った。
「!!!」
私の顎を捉えていた院長がニヤリとした瞬間、そのまま院長の顔が近付いてくる。
かわす間も無いまま、院長は私が咥えていた卵焼きに齧りつく。
唇に触れるか触れないかの、際どい所まで近付いていた院長は、すぐに離れる。
だし巻き卵の大半を奪い去って。
あり得ない事態に、体と思考が凍りつく。
院長は何事もないかのように、奪い取った戦利品を食べ、淫靡に笑う。
あんぐりと開いた私の口から、ポロっと残された卵焼きが落ちる。
「勿体ないことするな」
なんなの、今日の院長は!
いくらなんでも、嫌がらせの度が過ぎている。
“こ、こんな恥ずかしい真似、よくも!”
その場から立ち上がった私は、力の限り叫んだ。
「セクハラっ!変態っ!エロ親父っ!何考えてるんですかーーっ!」
「つれない事を言うな、honey」
「誰がhoneyですかっ!人で遊ぶの止めてくださいって、前から言ってるじゃないですかぁっ!」
「真っ赤な顔して、初だな」
私の怒りなんてまるで歯牙にもかけず、鬼院長は不敵に笑い、榊紫苑は何を思ったか大爆笑していた。
§
「はぁ…」
何度目のため息だろう。
給湯室で紅茶を入れていた私の口から出るのは、もうため息しかなかった。
あんな嫌がらせをするなんて、水を買いに行った帰りが遅かったことを、院長は相当根に持っているに違いない。
だからと言って、あれはあり得ない。
「…はぁ」
「吉良さん、そんなに溜息つくと、幸せが逃げるよ?」
鼻梁に香水の香りが届いたと同時に、不意に右の耳元で声がして、慌てて目の前のティーカップから声のする方に顔を上げる。
吐息がかかるほど近くに、榊紫苑の綺麗な顔がある。
「なっ!」
思わず仰け反れば、手に持っていたチャイナ・ボーンの紅茶ティーポットを危うく落としそうになる。
ナルミ製の、ミラノのティーポット。
“一つ二万円弱!”
危ない以前に、物の値段が脳裏をよぎり、一瞬にして血の気が引く。
私の掌からティーポットが零れ落ちるより早く、私の両脇から腕が伸びて、ティーポットは私の手ごと大きな男の掌で支えられる。
中身は既にティーカップの中に注がれていて、零れることも、火傷することも無かった。
「危ないよ?」
「良かったぁ…ありがとうございます。二万円が昇天する所でした」
とりあえずティーポットが死守され、ほっと安堵した。
ティーポットをチェックして、破損もなかったので弁償と言う大事には至らない。
良かった。
それにしても、今日は何なの?厄日なの?
イケメンに絡まれても、正直、あまり嬉しくはない。好みじゃないから。
彼氏がいた頃は、同僚や院長夫妻からは、もう少し顔で男を選べとよく言われたっけ。
私はどちらかと言うと、ほっこりとする親しみやすい愛嬌溢れる容姿の方が好きなのに、どうして駄目なのかしら。
男は顔じゃないと思うんだけどなぁ…。
「吉良さん?」
「え?あ、はい、何ですか?」
考え事をして少し意識を飛ばしていた私を、榊紫苑は不思議そうな顔をして見ている。
「…吉良さん、やっぱり面白い発想するよね?」
「どうしてですか?」
「どうして…って…俺、自信なくなるよ」
苦笑した榊紫苑の言葉の意味が分からず、私は首をひねる。
「こんなに傍にいて、何にも感じない?俺、そんなに魅力ないかな?」