15
「いい加減に、離してくれませんか?」
「嫌だって言ったら?」
刹那、クリニックのある方に顔を向けていた吉良の表情が歪む。
口角を緩やかに釣り上げたそれは、いつも仕事で見せる人好きのする微笑み。
「…院長の点滴、痛いでしょうねぇ…」
ぼそりと呟かれた言葉に、思わず俺は吉良から手を離した。
吉良はそのまま一人で歩きだす。
“なんだ?まさか、俺が注射苦手だって、気付いているのか?”
単に、注射の下手な健斗に点滴をさせようと目論んでいるだけだろうか。
いずれにしても、ただの牽制にしては悪意を感じる。
心臓が早鐘を打って、嫌な汗が止まらない。
これまでの優しく人当たりの良い印象など、一瞬にして消し飛んだ。
考えてみれば、わがままな健斗の下で屈せずに働けるくらいだから、単に優しいだけの弱い人間ではないはずだ。
“これだから女は恐い”
色々な意味で、吉良は俺の予想を裏切ってくれる。
「榊さん。水を早く持って帰らないと、院長に叱られてしまうんですけど」
少し先で足をとめた吉良が、俺を振り返る。
普段と変わらぬ表情で。
彼女の手は、俺に差し伸べられる。
それは、レジ袋を渡せと言っているのだろう。
吉良も意外と、頑固な性格をしているが、俺も俺の信念を曲げるつもりはない。
俺はそのまま歩き出し、立ち止っている吉良を追い越していく。
「あ、ちょっと、榊さん!」
少し大股で歩けば、歩幅の少ない吉良が少し早歩きで付いてくる。
「袋、持ちます。貴方に荷物を持たせたら、院長に叱られます」
「そう言うなら、賭けてみる?」
歩きながら吉良を見れば、彼女は不思議そうな顔をしている。
「賭ける?」
「俺は、俺が荷物を持っていても、健斗が文句を言わない事に賭ける。吉良さんの予想が当たっていたら、俺は吉良さんの言うことを一つだけ、聞くよ」
「そんな一方的…」
「勿論、俺の予想が正しければ、吉良さんは俺の言うこと、一つ聞いてよ?」
「…それって結局、榊さんが荷物を持つ事になりませんか?」
健斗も女に荷物を持たせるような真似はしない。この賭けは必然的に俺の勝ちだけど、吉良は単純に まだ俺が荷物を持つことにこだわっている。
自然に、自分の顔に苦笑いが浮かぶのがわかる。
俺の周りにいる女は、大抵、男に持ち上げられることに慣れていて、男を道具程度にしか考えていない。
荷物を持たせることになど、一抹の疑問も浮かべない。
吉良はなんというか、男への甘え方を知らない。
男慣れしていないのか、可愛げのない性格なのか…それとも。
「健斗に怒られるのが嫌?」
「そうではなくて…顔色の悪い人に荷物を持たせるのは、看護師としてはちょっと…それに、院長は貴方に荷物を持たせた事を叱ると思いますから、たぶん、私の方が賭けに勝つと思います」
言い辛そうに、吉良は答えた。
言われて俺は自分の顔に触れる。
「俺、顔色悪い?」
「…もしかして、自覚ないんですか?」
つまり顔色が悪いから、持たせるのは嫌。そして、自分が賭けに勝つから嫌。という構図なのか。
“なんかムカつくな”
何故ムカついたのか、自分でも分からず首をひねる。
「あ!」
吉良が思わず声を上げ、俺は吉良の視線の先を見る。
いつの間にか、俺たちは吉良の勤め先のあるビル近くにいた。
ビルの入り口で、俺たちを見ている男の姿がある。
紳士的な服装をしているのに、煙草を咥えながら不機嫌丸出しの従兄弟は、さながら暴力企業の若頭の居住まいだ。
「遅い!俺のコーヒーを早く淹れろ」
吉良を見るなり、コーヒー中毒の健斗がそう言い放てば、吉良は苦笑する。
「コーヒーがないと、院長、いつもこんな感じなんですよ」
そう言えば、昔健斗が一人暮らしをしていたマンションに居候した時も、コーヒー切れを起こすと良くキレていた。
健斗は、キレると口より手が出る。そのせいで、それで何度か俺も健斗と殴り合いの喧嘩になった覚えがある。
今は文句を言う程度なのだから、健斗にしたら随分良心的なキレ方だ。
男と女でキレ方が違うのは、流石、フェミニストと言った所だ。
「あれならまだマシなレベルだよ。酷くならないうちに、コーヒー飲ませてやって」
「荷物、運んで下さってありがとうございました」
吉良はそう言って、俺が差し出した手からコンビニの袋を受け取って、ビルの中へと小走りで入っていく。
健斗は携帯灰皿に煙草を押しつけて火を消し、近付いた俺を見る。
「そんな顔色をしてる時くらい、吉良に荷物を持たせとけ」
「は?健斗、熱でもあるのか?」
「莫迦か、お前は。少しは自分の体調くらい自覚しろ」
従兄弟にそう言われて、睨みつけられた。
まさかの俺叱られで、俺は自分が提案した賭けに負けた。