1 ~紫苑side~
二人の付き合う前のお話を、改稿掲載開始しました。
ゆっくりペースでの更新になりますが、Sweet hugとは違った二人を楽しんで居たければ幸いです。
第一章 華麗なる榊一族
はじめに気になったのは、彼女の香り。
近付いて微かに分かる程度の、淡いハーブの芳香。
その香りに触れる時だけ、俺は不思議な安息感に包まれる。
恐らくラベンダーと、何かが混ざっているはずなのだけれど、俺にはそれが何の香りかは分からなかった。
ずっと気になっていたけれど、一度も相手に確かめたことはない。
彼女に出会って二年になるが、挨拶程度の会話か、必要最低限の会話以外はした事がない。相手も俺も、私情で話しかけるようなことのない仲だ。
相手は、俺が通う睡眠治療専門のクリニックの看護師。
苗字は吉良、名前は知らない。
ケーシーとかいうツーピースのパンツタイプの機能的な白衣の胸元に、そう苗字が書いてあった。
身長は一七〇㎝前後で、細身だがメリハリのある女性らしい体型をしている。
顔は卵型で、ダークブラウンの目は大きめでくりっとし、睫毛も長い。鼻梁はすっきりしていて、唇は少し厚め。
俺より年齢は四、五歳年上だと聞いているけど、肌理細かく張りのある色白な肌や、幼く見える顔は、どう見ても俺と同じくらいにしか見えない。
容姿を評価するなら、中の上。
顔自体は特に目立った美人ではないし、色気は皆無。
身だしなみには気を配っているようで、化粧に手抜きはなく、いつみてもナチュラルメイクで清楚な印象を受ける。
まあ、仕事中の看護師に女の色気をふりまかれても困るけど、接客と言うか俺への応対は丁寧で女性特有の媚を売る様な裏が見えない。
徹底して看護師としての立場を崩さず、俺が挨拶程度に口説いた言葉もあっさりかわして、業務をしっかりとこなす。
かといって、つんけんしてもいないし、どちらかと言えば笑顔を良く見せて人を和ませる雰囲気がある。気配り上手で俺は彼女が付いた診療中に不快感を覚えたことはない。
俺が口にするよりも早く、空調一つ、照明一つにしても調節してくれる。かゆい所に手が届く、というのは彼女の様な配慮の事を言うのだろう。
彼女は一個人としても有能だ。
自分で言うのも何だけれど、俺は女に不自由したことはない。常に言い寄って来る女がいる事に同性から羨望を抱かれる事が多いが、結構、鬱陶しい。
馴れ馴れしく自分を売り込むのはまだいい。
許せないのは、交際していようとしていなかろうと、節度もなく我が物顔で図々しく俺の仕事や私生活を根掘り葉掘り聞いてくる女。
仕事だろうと私生活だろうと、土足で踏み込んでくるような女には嫌悪感しかない。
その点、彼女は何も言わなくても、俺が侵してほしくない絶対領域に踏み込んでこない。
他愛ない会話だけで、俺の事には一切触れて来ない。だから、診療中の居心地は良い。
最近、このクリニックに来ると、いつも彼女の姿を眼で追ってしまう。
理由は良く解らない。何となく、目が離せない。
「…榊さん、やめてもらえませんか」
呼ばれて、ふと我に返る。
ティーブラウンの短い髪の彼女は、困ったように俺を見下ろしていた。
「あ…俺、何かしていましたか?」
「そんなにガン見なさると、わざと針を刺し間違えますよ?」
治療室の寝台で横になっていた俺は、俺の腕に点滴を刺そうとしていた彼女を凝視していたらしい。
「…わざと?え?わざとって、何?」
なんでもないフリをしているけど、本当は俺、注射の類が大嫌いなんだ。
なのに、わざと打ち損じるつもりなのかと、内心で冷や汗をかいた。
が、彼女は既に点滴の針を刺し終えていて、テープで管の固定も終えて、道具を片付けていた。
痛みすら感じさせない彼女の注射の腕前は、俺が知る医者や看護師の中で一番だ。
いつもながら、手際が良く鮮やかすぎて感服する。
「貴方が少し院長に似ているので、ちょっと苦手というか…日頃の恨みが…」
彼女が勤務するクリニックの院長は、俺の十二歳年上の従兄弟、榊健斗。
兄弟と疎遠な俺には兄貴みたいな存在で、向こうも何かとかまってくれる。
が、天上天下唯我独尊な性格で、女癖が異常に悪い。
彼女は健斗好みのフェロモン系ではないが、プロポーションは完璧に好みの部類だ。
「もしかして貴女、健斗の愛人?」
吉良の形の良い柳眉が片方、ピクリと動く。
表情が心なしか険しくなる。
“もしかして、地雷を踏んだか?”
俺の想像とは裏腹に、ぷっと、彼女は吹き出し、横を向いて必死に笑いをこらえる。
「ないない」
しばらくして笑いを収めた彼女は、手をひらひらとさせて軽く答える。
いつもは理知的な彼女の顔が、少し幼く見えた。