お目覚めの時間
昇りなれた階段を軋ませて昇り、二つある扉のうち一方――一つには「きりこちゃんのへや」、もう一つには「はるこちゃんのへや」と、間違いなく雪美さんが書いたであろう丸っぽい字で書かれているネームプレートが吊るされている――の前に立って軽く深呼吸をする。
「すぅ……、はぁ……、すぅ……、はぁ……」
とにもかくにも、晴子さんの部屋に足を踏み入れるのは緊張するのである。そもそも晴子さんは、俺にとっては神に等しい存在なのであり、ようするにこの部屋は神のおわす神域なのであり、本来ならば脚を踏み入れるべからざる聖域なのだ。そこに、主である晴子さんの許可を得ているとはいえ、侵入するのだから緊張してやむなしといった具合なのだ。
晴子さんにとってみれば、所詮俺なんてただの弟子でしかなく、俺に起こされることなんて別に気にするようなことではないのかもしれないが、俺にとってみれば晴子さんを起こすのはかなりの精神的労力を必要としているのだ。寝起きの晴子さんというのは、正直に言って寝起きの霧子とは比べ物にならないほどのダメージがあるというか、世界に誇るべき宝というか、俺なんかが直視するには畏れ多いというか、生きているのが辛くなるというか、俺が死ぬべきというか、うん、辛い。
しかしまぁ、晴子さんと霧子の何をもって比較するかといえば、そのかわいさとか可憐さとか乙女感とか、まぁ、いろいろもろもろを数値化して闘わせるわけなのだが。そうやって考えると霧子はかわいい属性で晴子さんは神属性なのだから、ある意味で勝負にならないのかもしれない。いや、霧子はかわいいんだぞ! でもそれ以上に晴子さんが神なのだ! 神には、いかなる存在も、勝てないだろう?
「落ち着け…、俺……。晴子さんに起こしてくれって言われたんだから、動揺するんじゃない……」
しかし今、そんなことをぐちぐち言っている場合ではない。晴子さんがいかに神であっても、俺は言われたとおりにきっちり晴子さんにお目覚めいただくことが求められているのだ。落ち着け、俺……。
もう一度だけ吸って、吐いて、それから俺は目の前の扉に手をかける。軽く力を入れてノブを捻ると、勇気を出して扉を開いた。
「晴子さ~ん……? 起きてますか~……?」
おそらく起きていないであろう晴子さんに向かって、俺は勇気を出して声をかける。晴子さんの眠りを妨げるということはかなりの覚悟を必要とするわけで、気恥ずかしさも相まって精神がヤバい。
「うぉ…、いつもどおりだけど、やっぱすげぇぜ……」
そして晴子さんの部屋は、比較的キレイに片付けられている霧子の部屋とは違って、モノが多すぎる感が凄まじい。晴子さんの部屋には、大量のぬいぐるみがところ狭しとひしめいているのだ。
「しかし…、これは喘息の人には地獄だろうな…、いつも思うけど……。晴子さんが喘息じゃなくてよかったよ、ほんと」
部屋の中の空間のおおよそ三割ほどが、毛の固まりであるぬいぐるみに支配されているこの部屋は、きっと喘息の人が生きていくには辛すぎる空間に違いない。まぁ、俺は喘息じゃないからそのあたりのことについてはよく分からないけど、大変なんだろうな、たぶん。っていうか、俺の周りに喘息の人っていないなぁ、そういえば。俺の周りの人たちはみんな元気だからな。病気知らずというか、学校を休むことも滅多にないように思うし。…、霧子もあぁ見えてけっこう風邪ひいたりはしないし、志穂なんて風邪の菌を倒して回りそうな感じもする。姐さんも自己管理とか怠りない感じだし、メイも、…、メイは、まだよく分からないか。
でも俺はたまに風邪ひくんだよな。去年も冬に一回寝込んだし、インフルエンザにもかかったし、弱いんだよなぁ、なんか。広太がいるからなんとかなってるけど、一人暮らしでこんなことになったら、きっと死ぬぞ、俺。いかんなぁ、病気に負けるなんてなぁ。
「晴子さんも病気になったりしないんだよな、元気でなによりだぜ」
とりあえず、晴子さんの眠っているベッドへの進路を確保するために床に並んでいるたくさんのぬいぐるみたちを踏んだりしないように横に避けて道を切り拓いていく。ちなみに、この大量のぬいぐるみたちには晴子さんによって一体一体しっかりと名前が付けられているわけで、その名前を完全に暗記するまで仕込まれた俺は、なんとなくそいつらをぞんざいに扱うことができないのである。
っていうか、こいつらは一体一体が晴子さんの友だちなわけで、つまり、もしかしたら立場的には弟子の俺よりも上にいるのではないか、と邪推してしまう今日この頃である。ほら、やっぱり友だちって弟子よりも上だと思うんだよ、いや、ぬいぐるみよりも立場が下なんて人としてどうかと思うけどさ。
…、そういえば、晴子さんが俺の調味料たちに名前をつけろって言ったのも、けっきょくはこれと同じことなのかもしれない。あぁ~、俺も晴子さんから名前をもらいたいな~。晴子さんから名前もらえたら、きっと弟子でありながら友だちであるということになるんじゃないか……? 俺でも、晴子さんの友だちにしてもらえるんじゃ……!
やっぱり名前を与えるっていうのは、その人に所属するというか、その人を所有するというか、晴子さんに所属したいというか、所有されたいというか。いや、もはや俺は晴子さんの弟子であり、弟子であるということは奴隷であるということであり、所属も所有も超えた、隷属の関係にある、ということでは……?
「いや、落ち着け、俺。そこまで行くと、さすがに気持ち悪いんじゃないか…、俺……?」
危ない危ない、危うく危険な領域に脚を踏み込んでしまうところだった。俺は変態じゃないんだ、そんなところに行っちゃダメじゃないか。気をつけろよ、俺。
「しかし、ぬいぐるみを退けようにもどこに退ければいいんだよ、これ。退ける先にもぬいぐるみがあるじゃないか。こんなところじゃ日常生活を営むのに支障が出るじゃないか」
お行儀よく座って俺の行く手を遮っているクマやらウサギやらの種々多様な動物たちを、丁寧に退かしてはまた座らせてやる。しかし、晴子さんはよくもこれだけたくさんいるぬいぐるみに名前をつけるなぁ、と思うが、だが俺もよくその名前を律儀にみんな覚えているよな。こいつら、もう30とか40とか数いるはずだし、ほんとに冗談にならない人数だ。
そして何体ものぬいぐるみを退かして道を拓き、ようやく俺は晴子さんのもとへとたどり着く。ベッドに横になり安らかな寝息を立てる晴子さんの表情からは何の憂いも感じられず、いかに穏やかな眠りについているか、ということがよく分かる。
「晴子さん、起きてください。朝ですよ」
ゆさゆさと、床や棚、机の上とは違ってほんの二体しかいないベッドの上で横になっている晴子さんの肩に手をかけると、俺はゆっくりとその体を前後に揺する。しかし、さすがにこれだけで起きてくれるとは思っていなかったが、案の定無理だったらしく軽く俺の手を払うように、晴子さんはコロッと寝返りを打った。そして、その寝返りによって晴子さんの右側を陣取っていた古参の白クマのぬいぐるみ(丸っとしたボディはクリーム色の短い毛に覆われ、首元には真っ赤なリボンが巻かれている。目には黒々と光を返すボタンがつけられている)がコロッとベッドの上から転がり落ちる。
「っと…、危なかったな、ロイド。気をつけろよ」
しかし床に落下してしまう前に、その軽く柔らかな身体を俺の手が受け止めた。こいつは晴子さんのぬいぐるみ軍団の中でも随一のお気にいりなのだ、下手にぞんざいな扱いをすれば晴子さんからの鉄拳制裁もありうるという非常に難しい奴である。お気に入りの証拠に、晴子さんはベッドにぬいぐるみを二体しか連れていかないという自分ルールを敷いていて、そのうちの一体はいつもこいつで、つまり選抜選手ということだろう。
そもそもこいつは、あくまでも俺の知る限りだが、晴子さんがぬいぐるみを収集するようになるよりも前から晴子さんといっしょにいるわけで、もしかしたら俺よりも晴子さんとの付き合いが長いかもしれないのだ。晴子さんがこいつを気に入っているということは、軽く薄汚れながらもキレイに手入れされているその様子から見てもよく分かることで、間違いなく俺よりも大事にされているに違いない。
「ほれ、ロイド、晴子さんのところに戻れ」
それから俺は、とりあえず手の中の白クマを晴子さんの枕元に戻してやって、もう一度晴子さんを起こすための努力を再開することにした。
「ん? なんかでっけぇカピバラさんがいる……?」
再び晴子さんの肩に手をかけようと身を乗り出した俺の目に、ロイドがいるのとは逆のサイドを固めているぬいぐるみが映り、そして俺はそいつの名前も知らなければ見覚えもないことに気がついた。どうやら、俺が来なかった二週間の間にまた新入りが入ったようだ。
しかし、こいつはデカイな。ダルッと横たわるその茶色の毛並みの齧歯目はまるで抱き枕のような大きさであり、現に晴子さんは抱き枕の代わりにそれに両手両足を絡めているようだった。まったく、こんな巨大なものをいったいどこで買ってきたのだろうか。それとも、ゲームセンターのクレーンゲームか何かで取ってきたのだろうか。いや、でも、晴子さんはそういうことがあまり好きじゃないし、やっぱりどこかの店で買ってきたのだろう。
「ん……」
巨大なカピバラさんを抱きかかえたまま、晴子さんは再びコロッと寝返りをうち、一度は背を向けた俺の方にもう一度顔を向けてくれたのだった。しかしその顔のところにちょうど俺がさっき戻したロイドがいて、まさに晴子さんの顔はその腹によって完全に覆われる形になる。これは、はたして苦しいものなのだろうか。もちろん息が苦しいのならばお助けしなくてはならぬわけなのだが、実はお腹がもふもふで気持ち良かったりするとそれを邪魔することになってしまうし、うぅむ、どうしたものだろうか。
というか、あまりに巨大すぎるカピバラさんを抱えたまま寝返りなど打つものだから掛け布団がすっかり巻き込まれてしまって、すっかり跳ねのけられてしまったではないか。なるほど、今日の晴子さんのパジャマはテディベアの図柄がたくさん散らされたやつか。
外では基本的にクールなかっこいい系の人間として生活している晴子さんだが、この部屋を見れば分かるように、家の中では霧子よりも乙女チックであり、雪美さんよりも少女チックなのである。そういう、身内しか知らないようなギャップっていうのか? が、俺はすごいかわいいと思うんだよな。晴子さんに直接は言わないけど。っていうか、言ったらなめんじゃねぇぞって殺されるかもしれないし、言えるはずないんだけどさ。
しかしそんなことよりも、カピバラさんをギュッと抱きしめているせいで晴子さんの魅惑のバストが軽く押しつぶされて形を変え、非常に目に毒というか役得というか、俺を意味もなくドキドキさせるような事態が発生しているのだが、だからといって俺が何かをするでもないしそもそもそんなことを意識することは許されていないから考えることすらも罪である。とても難しいことではあるが、見なかったことにしよう。
「晴子さん晴子さん、起きてください」
そういうわけで、俺はなにも気にせず晴子さんを起こすことだけに集中することにして、とにかく肩に手を当てて揺すって声をかけ続けるという、霧子が相手だったら絶対に効果を為さないような行動を繰り返しているのだった。しかしそこは晴子さん、霧子とは違ってそれだけでも目を覚ましてくれるから大助かりだ。
「ん……、ゆき、ひさ……?」
もふもふの白クマの腹に顔を埋めたまま目を覚ましたことなど意にも介さず、晴子さんは寝起きにしては冷静に目の前をふさいでいる白クマを退けると、俺のことを視界に収め、それから少し考えて俺を俺と認識してくれたようだった。
「はい、俺です。朝ですから起きてください」
「きょう…、やすみ……?」
「ゴールデンウィークの、初日ですよ。やっぱり寝てますか?」
「…、おきる。おきなきゃ……」
「晴子さん、その巨大なカピバラさんは、置いてきてくださいね。下まで持ってきたら、邪魔ですから」
「わかってるわよ……」
「それじゃあ俺、霧子のこと起こしに行きますけど、晴子さんは一人で下までいけますよね?」
「…、おんぶ」
「ダメです、おんぶはダメです。そういうことは、出来ません」
「きりこには、やってるでしょ……。なら、あたしにしたって、もんだいない……」
「問題はあります」
「るさい…、しないと、もういっかい、ねる……」
「ね、寝ないでください! この時間に起こせってことは、何か用事があるんですよね! 寝ちゃダメです!」
「じゃあ、おんぶ……」
「だからそれは……」
どうしてか、今日の晴子さんはおんぶを所望のようで、しかしそんなこと、弟子と師匠の間柄で出来るはずがないではないか。そもそも霧子相手でも最近は少し恥ずかしいかなぁ、とか思い始めてるのに、晴子さんが相手なんて恥ずかしすぎて死ぬわ! 誰も見てなくても、恥ずかしすぎて死ぬわ!
それに、恥ずかしいっていうのもあるけど、霧子と晴子さんだと体格が違うからな。背は晴子さんの方が少しだけ低いし、体重はそんなに変わらないはずだけど、でも決定的に一ヵ所、特におんぶなんてことをするにあたって着目しなくてはならないところが大きく異なっているからな。密着体勢なんて、無理無理。無理に決まってるじゃん。
…、無理だからね?