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Prism Hearts  作者: 霧原真
第八章
93/222

旅行の前に、一仕事

「おかしいな……」

さて霧子を起こすかな、と勇んで天方家の前まで来てチャイムを鳴らした俺だったが、かすかな違和感に首を傾げていた。チャイムを鳴らして数分が経ったのだが、しかしいまだなんの反応を得ることもできていないのだ。

「もしかして、誰も起きてない?」

基本的に、天方家の一日のスタートは晴子さんの起床によって切られる。とりあえず晴子さんが起きて、コーヒーを淹れて、顔を洗って、というところまでいって初めて活動開始ということができるのだ。逆に言うならば、晴子さんが目を覚まさない限りなにも始まらないと言っても過言ではない。雪美さんは自力で目覚める気がないし、霧子は俺が起こさない限りいつまでも寝続けているし。そう、全ての鍵は晴子さんなのである。

しかしその晴子さんであっても、必ずしも勤勉で熱心というわけではないのだ。晴子さんは世話焼きでやさしい天使のような人だが、しかしどちらかというと面倒くさがりである。晴子さんが勤勉に見えるのは、その比較対象として、対極に自由人の雪美さんが置かれるからなのだ。

つまりどういうことかというと、おそらく今日はゴールデンウィークの初日ということもあって、目覚ましを切って寝入っているに違いないのだ。ふむ、仕方ない、そういうことならば俺も勝手に家に入らせてもらうとするか。あんまりチャイムを連打して、晴子さんの機嫌を損ねてしまうのもなんだしな。

「おじゃましま~す」

諦めて鉄扉をくぐると、俺は室外機の裏側にセロハンテープで貼りつけられているカギをはがして扉の錠を開く。コロコロと転がしていたキャリーケースを、霧子のものであろうかわいらしいスカイブルーのキャリーケースに並べて置いてから、俺はくつを脱いでリビングに向かう。もし晴子さんから何らかの伝言のようなものがあれば、いつでもだいたいリビングのテーブルの上に置かれているわけで、きっと今日も何か一言くらいは残されていることだろう。

「やっぱあったし。俺の行動なんて、読まれてるんだよなぁ……」

伝言を残すということは、つまり俺が晴子さんが起きてくるよりも早い時間に家に上がり込んでいくと読まれているわけであり、所詮俺の行動なんて晴子さんの掌の上でしかないということかもしれない。…、さすがにそれは言いすぎかもしれない。

「で、なになに?」

『来たら、八時にあたしを起こすこと』

単純明快である。

「八時っていうと、あと30分もあるじゃん。ん~、まぁ、待ち合わせは九時だし、八時まで待機して晴子さんを起こしても問題はないってことか……。うん、待機だな、待機」

晴子さんが待機と言ったら待機なのだ。俺ごときではそれに逆らうことなどできようはずもないのである。それにたったの30分ではないか、コーヒーの用意やら朝飯の用意やらなんやらしている間に、それくらいの時間は経ってしまうことだろう、問題はない。

そういうわけで、とりあえず日ごろいろいろとお疲れの晴子さんの手間を少しでも減らすために、出来ることをしようではないか。俺に出来ることなんてわずかでしかないが、しかし少なからずあるのだからそこへの尽力を惜しんではならない。だって、俺は弟子で晴子さんは師匠なのだから、それくらい当然だろう?

よしやるぞ、と軽く腕まくりをしてキッチンに入ると、俺はその動きを停止させざるを得なかった。キッチンのシンクの中には昨日の夕食で使われたであろうたくさんの食器たちが、鎮座ましましていたのである。積み重ねられた食器、調理器具その他もろもろが、俺を待ちうけていたのだった。

「なんで晴子さん…、晩飯の時点で洗ってないのん……? どうしてこんなに…、はっ!?」

俺が次の日の朝に来ると知っていて(次の日は休み)、となればそりゃ当然洗わないわ。晴子さんなんだもの、洗わないで俺に押し付けるさ。

「まずは、ここを洗うところからか……」

とりあえず袖をさっきよりも強くまくって、俺はシンクにたまったたくさんの洗い物と相対することにした。と、その前にコーヒーを抽出しておかなくては。とりあえずフィルターをセットしてから、冷蔵庫の中から豆を保存している真空瓶を取りだして、そして手挽きのミルも戸棚の中から取り出してくる。

適当に三杯分くらいの豆を手近なカップの中に取ると、とりあえず保存瓶はさっさと蓋を閉じて冷蔵庫に戻す。そして、さて、ここからこの豆をひたすらこの手挽きミルで挽いていくわけなのだが、しかしこれが非常に時間を食うのである。美味しいものに対してこだわる晴子さんですら、いつもはコーヒーメーカーにくっついている電動ミルでガーーーーーっとやるにとどまっているのだから、その面倒くささは折り紙つきだ。

しかし今日は、まぁ、暇なのだからやってみようと思う。たしかこれ、いっぺんにたくさんの豆を挽くことはできなかったはずだから少しずつ、具合を確かめながらやっていこう。とりあえず、晴子さんは朝は濃いめがいいそうなので中くらいの挽き具合でいいだろう。

からからとコーヒー豆をミルの中に少し入れてみて、それからゆっくりとハンドルを回していく。晴子さんによると、あんまり早く回し過ぎるのはよくないそうなので、ゆっくりと回していく。少しずつ、最初は重かったハンドルがスムーズに回るようになっていき、なるほど、少しずつ豆が細断されていっているということだろう。これなら、次はもう少し豆を入れてみてもいいかもしれない。

さっきよりも少しだけ多く、豆をミルに入れる。がりがりと豆がカッティングされていっているようで、これは案外楽しいかもしれない。もし美味しかったら、これから時間があるときはこのやり方で淹れてみることにしよう。俺は、こういう手間をかけている感じが、案外好きだったりするのだ。

「しかしこれ、先に霧子を起こしてくるとかはどうなんだろう……。別に晴子さんを一番最初に起こさないといけないっていう法律はないんだし……」

しかし、そんなことをしていると晴子さんを起こす時間まで(あと20分くらい)かかってしまう可能性もあるわけだし、そうなると晴子さんが起きてきたときに何の準備も片付けも出来ていないという状況が待っているわけで、それこそ許されざる、というものだ。となると、やっぱり諸々の準備やら仕度やらをこなしつつ指定の時間まで待って、それから晴子さんを起こして雪美さんを起こして霧子を起こしてとしていった方がいいだろうな。というか、少なくともシンクの中の洗い物だけでも片付けておかないと寝起きの晴子さんが何をするか分からないからな。

「でも、今はとりあえずこの豆たちをやっつけないとな。楽しいけど、あんまり悠長にもしてられないし、少しスピード上げるか」

まぁ、コーヒー豆を挽くのは、言ってしまえば機械任せにもできるわけで、いざとなったらいつも晴子さんがやっているように機械でガーーーーーーっとやってしまうのも手かもしれないが。しかし、これはこれで楽しいから出来るだけやってみようと思う。

「…………」

それから5分ほど、豆を入れ、ハンドルを回し、ハンドルを回し、下にたまった粉をコーヒーメーカーにセットしたフィルターに入れて、という行程を繰り返していたのだが、しかし如何せん、この作業の終わりが見えないことに気づいてしまった。もしかしてこれ、本当に、めちゃくちゃ、冗談にならないほど時間がかかるのではないだろうか。もうこれは、ハンドル回すの楽しいからって執着している場合ではないのかもしれない。

というわけで、いまやっている分だけは最後まで回し切ってからそれをフィルターの中に収めてしまうと、俺は残りの豆をコーヒーメーカーに付随している電動ミルの中に全部ざらざらと流し込んだ。ふたをして、スイッチオン。容器の中で、段違いに設置されている二枚のブレードが高速回転し、中でたくさんの豆がいいように弄ばれ、舞い踊っている。こうしてみると、やはり機械に比べてしまうと人間のなんと無力なこと。俺がちんたらやっていた細断をまたたく間にこなしてしまうのだから、もう目を見張るというものだ。

まぁ、機械っていうのはけっきょく人間のつくりだしたものであり、人間の様々な器官の持っている能力を拡大・拡張するのがその存在目的なのである。だからそこになんらかコンプレックスのようなものを抱くのは根本的に何かをはき違えているわけで、間違っているのかもしれないな。つまり、便利なんだからなんでもいいじゃん、ってことだ。別に、数年中に意思を持ったAIが人間に対して宣戦布告をするとかいうわけでもあるまいし、今は黙ってこの便利さを教授していればいいではないか。現に今、こうして俺の為さなくてはならない作業の一つが飛躍的な速度で完了しつつあるのだから。

「おぉ…、もうできた……」

手で挽いたものと同じくらいの荒さになるまで挽いてから、ずいぶんとサラサラになってしまった中身の粉末をフィルターの中の粉に混ぜ込んでいき、なんとなく均一な感じになったらすぐに抽出を開始する。これで、おおよそ10分もしないうちにコーヒーができ上げることだろう。

そして俺は、次の作業であるシンクの中の洗い物のお片付けに取りかかるのだった。だいぶたくさんあるけど、気合を入れてさっさと終わらせないと朝飯をつくる時間がなくなってしまうからな、がんばらないと。これを終わらせたら次は朝飯の仕度だ、ちんたらやってる時間はないぞ、しっかりしろ、俺。

「しかし、この洗い物から見ると、昨日はなにか丼ものだな。何食ったんだろ、気になる」

それを裏付けるのは、シンクの中に積まれている大きめの丼と、それからかすかに卵と玉ねぎの付着したフライパン、そして生ごみ袋の中に入っている三つ葉の根とか玉ねぎの芽と根とかだ。むっ!? 鶏皮っぽいのも生ごみ袋の中に捨てられているぞ!? ということはあれだ、昨日は親子丼だったってことだな!!

親子丼か…、ってことは、今日の朝飯は卵系は避けた方がいいかな。晴子さんのためにつくる朝飯は、けっこうフレンチトーストが多いからそれでもいいかと思ったけど、そういうことなら別のものを考えないといかん。あ~、ありもので間に合わせるときは、フレンチトーストが一番楽で美味いし、晴子さんが満足してくれるっていうのに。卵溶いて軽く味付けして、適当にあるパンをスライスして、浸して焼くだけっていうシンプルさでありながら、不思議と美味いからな、あれは。それに、そのパンがドライフルーツの入ってるようなやつだったら、その味まで加わってまた深い味わいになるから楽しいし、あぁ~、フレンチトーストで済ませたい……。

しかし、まぁ、仕方ないか、晴子さんが昨日の夜に親子丼を食べたんだから。女の子として人並みにはカロリーとかを気にする晴子さんのことだ、卵系が続くのは、やっぱり気になるだろう。そういうところまで気を使わなくてはならないのは、やはり少なからず面倒だが、だが、晴子さんの朝飯をつくることができるというのはそれを補って余りある栄誉なのだ。享受することのできる喜びを、強く強く噛みしめなくてはな。

「…、我がことながら、立派な奴隷根性だな」

かちゃかちゃと手早く食器を洗い、フライパンを洗い、箸を洗って最後に一晩洗い物が放置されていたシンクをキレイに洗って、ようやく洗い物たちを始末することに成功した。そして時間は晴子さんの指定した時間まで残りおおよそ三分弱、朝食をつくる時間は、まったく残されていない。

くっ…、仕方ない、こうなったら朝起きたばかりの晴子さんがぼんやりと過ごすわずかな時間を使って用意するしかないようだな。本当は起こしに行く前にばっちり用意しておいて晴子さんをびっくりさせちゃうぞ! と思ったのだが、なかなか人生はままならないものである。

「さて、まずは晴子さんからだ。すっきりばっちり起こしちゃうぞ!」

というわけで、晴子さんを起こすため、俺は洗い物を終えて濡れてしまった手を拭ってからキッチンを後にしたのだった。目指すは二階、いつもの霧子の部屋の向こう正面、晴子さんの部屋である。入るのは久しぶりのことだが、まぁ、霧子の部屋への訪問機会に対しての「久しぶり」だから実際前回入ったのは二週間くらい前のことでしかないのだがな。

何にしても、とにかく今は晴子さんに無事お目覚めいただくことこそが至上命題なわけで、それ以外のことに現をぬかしているわけにはいかないのだ。しかし晴子さんは霧子ほど寝起きが悪くない――普通に比べたら悪いかもしれないが――ので、それは俺の日常的なお仕事に比べたら比較的楽な仕事ということができるかもしれないが、しかし霧子を起こすときと違って奇想天外な方法を用いてスパッと起こす、という技を使うことができないので、難易度自体は、むしろこちらの方が高いかもしれない。

まぁ、なんというか、どちらにしても、天方家の人間を起こすのは大変ということなのかもしれないが。

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