実技試験なう
卵焼きというものは、決して簡単な料理というわけではないように思われる。もちろん、適当に味や形にこだわらずつくるのであれば、それはただ溶いた卵をフライパンで焼けばいいだけの簡単な料理かもしれない。
実際のところ、卵焼きを造るために必要な動作は卵を割ること、卵を溶くこと、味をつけること、焼くことといったほんの四動作しかない、比較的単純な調理活動だと言えるだろう。しかしこの中であえて難しいと言うならば最後の焼成作業だろう。
卵焼きの切り口は、木の切り株に見られる年輪のような様子をしているのだが、これは当然、卵焼きの焼成の特徴である、くるくると丸める作業によるのである。
まずフライパン、四角い卵焼き用のものもあるが、に薄く油を塗り広げ、溶いて味付けをした卵液をお玉に一杯ほど流し入れる。これを薄焼きにするようにフライパン全体に回して広げてやる。そして火が通り全体的に固まってきたところで、端から手元に向かって緩やかに巻きあげていく。手元の端まで巻き切ったら、空いた部分に油をもう一度薄く塗り、巻いたものをフライパンの先まで送ってやってから、卵液をまたお玉に一杯流し込む。
それからは、用意した卵液がなくなるまで同じ作業を延々繰り返し、幾度となくくるくると巻いていくのだ。ちなみに、巻いていく途中でフライパンの中の卵の塊に箸を何度か刺して空気を入れてやる工夫をすることで、仕上がりよくつくりあげることができる。
しかし、こうして巻きながら焼いていく作業は、実際に巻けていなくても、一塊の卵焼きとしてまとまってさえいればなんとなく見れるものが出来てしまうのだ。少しくらい歪んでしまっても、なんとか最後の帳尻を合わせてしまいさえすれば、卵焼きとして完成するのだ。
だから、卵焼きをつくってもらえば、基礎的に身につけている技量的な面だけでなく、どれだけ調理に対して真剣に取り組んでいるかという意欲の面までもなんとなく見えてくるのである。
まぁ、そこでいう意欲というのは、けっきょく基礎的なものを身についていることを前提として考えなくてはいけないわけで、あまり確かなものではないともいえるのだが。だってそうだろう。あまりきれいに出来ていなかったからといって必ずしもやる気がないわけではない。昔は俺もそうだったが、やる気満々に調理をしたというのにまったくそれがうまくいかないということも、料理に慣れていない人にとっては往々にしてあり得ることなのだ。
だから、出来上がりの作品だけを見てすべてを判断することはできないのだ。本当にその人の力量を見ようと思ったら、その調理過程をしっかり見ておかないといけないわけである。
つまり、俺はこれから四人がどのようにして卵焼きをつくっているのか、という様子を見に行かなくてはならないわけであり、自分のものをいつまでもつくっているわけにはいかないということだ。
俺は自分の分の卵焼きを速攻で仕上げることにした。卵を二つ手早く割ってぱぱっと溶いていく。いつもなら気になるから殻座を全部とるのだが、今回はそんなことはしないで、手早く混ぜてしまう。そしていつもなら顆粒出汁を使って味を調えていったりするのだが、それもしない。味は砂糖と醤油を入れてつくっていく。焼きもスピード重視で行なっていく。巻いている過程で少し歪んだ気もするけど、まぁ、そこまでのものではない。これならば、急いでつくったんですと言い訳すれば、晴子さんに見せたとしても軽くはっ倒されるくらいで済むだろう。
最後に心が許せなかったところだけを軽く修正すると、もう少しだけまともな見た目になったような気がする。フライパンからあらかじめ出しておいた皿に開けてやると、黄金色の表面からはふわり、と湯気が立ち上がり、なんとなく美味しそうに見えるから不思議だ。
軽くフライパンを流してやってから周りを見渡してみると、意外なことに志穂の作業が早いようだった。もしかしたら握力の加減が難しい、とか言って卵を割る段階から引っかかっているのではないかとも思ったが、そんなことはなかったようで、すでにコンロに火を入れて焼く作業に入っている。くるくると巻いていく手際もそんなに悪くないようで、リズムよくフライパンと箸を動かしていた。
「ふ~んふ~ん、ふふ~ん♪」
あまつさえ、楽しそうに余裕綽々で鼻歌まで歌っている始末だ。
驚いたな。勝手なイメージで志穂はダメなんじゃないかなぁ、と思っていたわけだが、いい意味で期待を裏切ってくれたようだ。それっぽい動きがこれだけできるのならば、出来上がる卵焼きの外見はそこまでひどいものにはならないだろう。まぁ、味がどうかといえば、それは霧子の例もあるわけだし、動き良く調理出来ているとしてもそれが保障になることはないのだが。
しかしこれで、志穂が少なくとも、それなりのスキルだけはもっているということが分かった。これで味付けに問題がないのならば、本格的に調理する担当、つまりは実習の主戦力として存分に働いてもらうことになるだろう。やれやれこれで、「志穂はヤバいんじゃないか」という最大の不安材料がなくなったわけだ。しかしまぁ、「霧子はヤバい」という最大の懸念材料はいまだ残っているのだが。
しかし、志穂の面倒を見なくてもいいことが分かったのは、それだけでも俺にとってはかなり有力な情報である。何故ならば、それは俺が他のやつの面倒をみるのに時間を割くことができる、ということを意味するのだから。というか、志穂一人の面倒を見るよりも、霧子とメイの二人の面倒を見ていた方が楽だからな。
よしよし、これならばなんとかなりそうだな。五人の班で志穂と霧子がいるとなったときはどうしたものかと頭を抱えたものだが、なに、ふたを開いてみればそう厳しいものでもなかったようだ。
五人中三人ができて、一人は少し不安で、最後の一人が大問題という程度なら、何ということはない。この程度の逆境、逆境と呼ぶことすらおこがましい。
さて、他のやつらはどんな案配でやってるんだろうか。とりあえず、まずは目下最大の懸念材料からチェックしに行くとしようかね。なに、霧子がちょっとくらいヤバくたって、大丈夫大丈夫。
えっと、霧子は…、そこか。
「おい、霧子。どんな感じ、んっ……!?」
霧子のいる調理台に気楽な感じで歩み寄ると、少し浮かれたような俺の気持ちを地に落とすような異臭が、鼻孔に突き刺さってきた。俺の足が、料理をつくるものとしての本能が、そのテーブルに近寄ることを一瞬だけ拒んだ。
とても悲惨なことがそこで起こっている。直接その場に行かなくても、近づくだけで分かってしまう。というか、近づきたくない。でも、近づかなくてはならない、霧子がどれだけヤバいかを再認識しなくてはならないから。
この臭いは…、バルサミコ酢?
高校の調理室っていうのはそんなものまであるのか。そもそものところ、どんなもの使うことを想定しているんだろうか。そういう危ないものは、子どもの手が届くところに置いてはいけないだろうに、危機管理意識が欠如しているといわざるを得ないだろう。
「霧子、どうなってる?」
「あれ、幸久君はもう終わったの?」
「まぁな」
俺は意を決して、鼻を抓みながら霧子の手元にあるボールを覗き込む。食材に、その存在意義を全うさせることが料理だと思っている俺にとって、かちゃかちゃとかき混ぜられているそれは、俺の思いを真っ向から否定するものである。自然、自分の腰が引けているのが分かる。
それは、普通に卵焼きをつくるための溶き卵とは圧倒的に違っていた。まずは色が超越的におかしい。どうやってその色を作ったのかまったくわからないのだが、どことなく赤黒い。次に臭いが不思議とおかしい。最初に感じたバルサミコ酢だけではなく、きっとそれ以外にもなにか強烈な臭いのものが入っているに違いない。バルサミコ酢が普通に置いてある調理室だ、魚醤くらいあってもおかしくはないだろう。最後に量がどうしてかおかしい。普通に卵を割って調味料を入れて、と準備を進めたとして、ここまで容積が増えるようなことはないだろう。どれだけ調味料を入れればこんなことになってしまうんだい、と優しくも厳しく問い詰めたくなる。
なんだろうなぁ、前よりも悪くなってるような気がするぞ。さっきは「晴子さんのことを見て勉強している」なんて言ってたけど、成長というよりも退化しているようにしか思えない。晴子さんは、いったい霧子になにを見せたというんだろうか。
正直に今までの経験から言って、きちんと食えるものができてくる確率は、よくても五割を切るだろう。どうしてただ卵焼きをつくるだけだというのに成功率が五割しかないんだよ。
霧子、残念だよ。
「霧子…、がんばれよ」
「にゅ、がんばるよ」
「ほんとに、がんばれよ」
「? がんばるよ?」
「ほんとにほんとだからな!」
「にゅ…、にゅん……」
一口なら、さすがに一口だけなら、腹を壊すようなことはないだろう。ないと信じたい。
ここで俺が腹を壊して保健室送りなんてことになったら、この班の調理実習はきっとマズいことになる。そしてこの班に所属する俺の成績も、きっと芳しくないものになるだろうことは、明らかだ。
俺の胃腸にはがんばってもらうしかない、ということだ。せめて、壊れるならば実習が終わってから、ということにしてもらわなければ。
さて、気を取り直して、メイはどうなっているだろう。あんまりやったことないって言ってたけど、もしかして本当に全然やったことないのかなぁ……。
…………
メイのところでは、いい意味でも悪い意味でも、何も起こっていなかった。というか、そもそも何も始まっていなかった。
「…、そうか、こういうのもあるのか……」
俺はメイの様子を見て、新しいな、と思った。どうやらメイはさっきから卵を割ろうとしているようなのだが、今のところ、その試みが功を奏している気配はまったくない。
再び失敗したメイは、どうして割れないのか、と不思議そうな表情で卵を眺めている。しかしややあって、卵を持った手が肩の高さから振り下ろされ、重力加速に従ってスピードを上げる。
それで卵は割れるはずだった。しかし割れない。
それは至極単純な理由で、メイは卵がテーブルにぶつかる直前に腕に力を込めて、重力に抗がってみせたのだ。そして結果的に卵にはひびが入らず、かすかにこつんと音をたてるだけだった。
「メイ、だいじょぶか?」
作業台に置いたケータイを、卵を持っていない左手でカチカチと打つ。利き手じゃないのにそれだけの早さとはな、器用だ。
『われないよ?』
「まぁ、そりゃ、逆方向に全力疾走したら成功するものも成功しないよな……」
俺は、自分が経験したこともないような、別次元の疑問に捕らわれているメイにかける言葉を探すのに、少しだけ考える時間を必要とした。
卵を割ることすらもできない時点で、メイの実力はほとんど分かった。あんまりやったことがないっていうのは誇張でもなんでもない、ということだ。これならば、足手まといとかいう次元すら超えているから、逆に役に立ってくれるだろう。
しかし、そうだな…、それだったら、少しくらい手伝ってもいいかもしれない。きっとこのまま放っておいたら、永遠にこの卵焼きは完成しないだろうから。
「いいか、メイ。卵なんてちょっと力入れれば割れるんだ。こうやってだな……」
俺はメイの後ろにまわって、自分の右手をメイの右手の上から被せた。卵の割り方を教えるときは、こうやってやるのが一番わかりやすい。俺も晴子さんにこうやって教えてもらったものだ。
すると不意に、緊張したようにメイの体に力が入る。メイの握力がもう少し強ければ、あるいは卵は手の中で割れていたかもしれない。
「メイ?」
『なんでもない』
「そうか? ならいいんだけど。それでな、軽く力を入れるだけでいいんだ。こうやって腕を持ち上げて、下ろすだろ? で」
テーブルの天板に卵を軽く打ちつけ、その殻にほんの軽くひびを入れる。卵の殻というものは二層構造になっているわけで、外殻にひびが入ったからといってすぐに中身がこぼれてくるというわけではない。
「な?」
『ひびができた』
「で、ここからは指でなんとかして割るんだ。あとはもうできるか?」
『がんばってみる。一人だけズルしちゃダメ』
「卵焼きにするのは、分かるか?」
『がんばる』
「よし、その意気だ。がんばれよ、俺は何が出てきても食うから、な?」
『うん』
よし、これでメイは、大丈夫かどうかはわからないが、とりあえず土俵に乗ることはできたわけだ。この後どうなるかは分からないが、少なくとも調理することはできるわけだし、何ものかは出来上がることだろう。
調味料入りの生卵でないかぎり、とにかく俺はなんとかして食うことができるはずだ。晴子さんによって料理の腕を鍛えられるのと同じくらい、俺は霧子によって胃腸が鍛えられている。ちょっとやそっとの変な料理ではやられることはあるまい。
それこそ超弩級の、霧子の失敗作級のものが来ない限り、俺が負けることなどありえないのだ。
さてこれまで志穂、霧子、メイと見てきたわけなんだが、あと残っているのは姐さんか。しかし、姐さんか…、俺にしてみたら、姐さんのことを心配するということ自体がかなり不遜なことだ。
ここは、姐さんについては完全に任せて、俺はただ受け入れるという体勢を取った方がいいような気がする。そもそも俺は姐さんのことは信頼しているし、姐さんに限って料理が壊滅的にできないなんてこと考えられないじゃないか。
確かに姐さんだって人間だから、普通に考えればできないことくらいあるかもしれないけど、しかし俺はそうだとは思えない。姐さんにできないことなんて、ないだろ。
そう、問題はない。俺はただ姐さんを信頼して、目の前に出てくるものを美味しくいただけばいいんだ。もし、俺のよりも立派なのが出てきちゃったらどうしよう、偉そうなこと言ったのが恥ずかしいぜ。
姐さんなら、大丈夫だ、問題ない。