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Prism Hearts  作者: 霧原真
第七章
82/222

呼び出し状、在中

「お待たせいたしました、ご主人さま、お嬢さま。シフォンケーキと紅茶をお持ちしました。カップを変えさせていただきます」

魂が半分以上抜けてしまったかのような霧子がいつこちらの世界に戻ってくるのかは分からないが、しかしとりあえず、カートを押しつつ再びキッチンから戻ってきたハルさんがテーブルの上を整理しつつ新しい紅茶とケーキを並べてくれるのだった。

「ぁ…、ありがとう…、ございます……」

「にゅ、ハルさん、ありがとうございます」

「どうぞごゆっくりなさってください」

霧子は、魂が抜けかかっているからか、なんとなくふわふわした気分のようで、ふにゅっと笑いながらそう言ったのだった。もうハルさんが晴子さんである、ということについては考えないことにしたのか、普通に抵抗なくハルさんと呼んでしまっている。

くっ…、俺は屈しないぞ…、あの人は晴子さんなんだ。そこらへんの意識をきっちり持ってないと、あとあとで巡り巡っていろいろとダメージが降りかかってくるんだろうからな。それくらいのこと、今まで生きてきた経験からなんとなく推測することができるのだ。まぁ、俺の身に悪いことが降りかかることについてはなんとなく察知することができるのだが、それを防ぐことは全くと言っていいほど出来ないのだがな。

しかし、それならばどうして今こうして無駄に抗っているかといえば、俺だって出来れば辛い目に会いたくはないわけだし、もしかしたら今回は防げるのではないか、という希望的観測もある。それが見事に達成されることはめったにない、というか、ほぼないのだが、そういう夢を見るくらいは許されてしかるべきだろう。

「しかし三木、このような時間に二つもケーキを食べてしまって平気なのか? 夕食も食べるだろうに、そんなにたくさん食べてしまって」

「ゆっきぃ、ケーキ二こめいいなぁ~」

「いや、別に食べること自体は平気なんだけどさ、そんなに量が多いっていうわけでもないから」

「確かにそうかもしれないが、しかし二つはやはり多いのではないか? 三木は男だから、そういうことはないのかもしれないが」

「まぁ、晩飯つくるのは俺だし、盛り付けるのも俺だし、量を調整するのは簡単なんだけどな。残すようなこともないし、だいじょぶだって。まぁ、あんまり甘いもの食べすぎると、頭痛くなってくるんだけどさ」

「ゆっきぃ、ひとくちほしぃ~」

「ヤだよ、お前に一口やるって、つまり半分以上食われるってことじゃん。どうして俺が金払うのに、お前に半分以上食わせてやらなきゃならないんだよ、絶対ヤだよ」

ここで頷いてしまうと、俺はすぐさま、皿の脇に添えられているフォークを奪われ、見る間に手元のシフォンケーキが食い荒らされる様を目の当たりにする羽目になってしまうので、気をつけなくてはならない。俺は俺のケーキを守らなくてはならないわけであり、まさに、自分の身は自分で守るというやつである。

俺は、とりあえずケーキとフォークを志穂の手の届かないところまで遠ざけてやると、軽く身体でブロックしながらさっさと自分でフォークを握ってしまうのだった。ここまですれば、さすがの志穂も俺からフォークを奪い取ることは諦めてくれるだろう。まぁ、ケーキを奪い取ることは、諦めてくれはしないだろうが。志穂の食い維持が張っていること自体はいつものことなわけであり、そこまで着目すべきところではないのだがな。

「でもまぁ、一口くらいだったらやらなくもないか」

「ほんと!?」

「俺が食わせてやるから、そこから動くんじゃねぇぞ。席から立とうとしたら、一口もやらないからな」

「は~い。ゆっきぃ、ありがとうございます」

志穂からケーキを、十分に距離をとって置くことに成功した俺は、志穂のケーキ食べたい欲求を少しだけでも緩和させるためにそう言った。志穂の一口は、確かに非人道的なほどに大きいのだが、しかし実際にそれだけのケーキが食べたいというわけではなく、一口取ろうとして結果的にそれだけ食べてしまうだけなのである。つまりほんの少しだけ、それこそ一般的に一口といわれるくらいの量であっても、それは志穂にとっては一口であることに違いはなく、それだけのことで案外あっさり引き下がってくれるのだ。

つまり、志穂にとって重要なのはケーキを一口食べるという事実なわけであり、その量自体は、実のところ、そこまで執着がないのである。そのあまりの一口の大きさに、勘違いされることが多いが、しかしそれは間違いのないことなのだ。

そして、机にベタっと突っ伏す、今できる最大の平伏低頭をやってみせたあと、まるで『待て』をしている犬のように、志穂は椅子に座ったままピタッとその動きを止めていた。いつもこれくらいお行儀よくしてくれれば文句は何一つないのだが、しかしこれをさせるためにはやはりケーキに匹敵するランクのご褒美を用意しないといけないわけであり、オレンジキャンディでそれをすることはできないのだ。百円均一のオレンジキャンディは、志穂にとって最高のご褒美ではあるのだが、さすがに、授業中ずっとこの状態を維持するように、という指令の代償にはなりえないだろう。

もしそれをさせようと思ったら、俺もそれなりの覚悟――たとえば毎日クッキーを焼いてくるとか毎日ケーキを焼いてくるとか――をしなくてはならず、さすがの俺も、そこまではがんばれない。というわけで、今のところ残念ながらその計画を実行に移すことはできておらず、また出来る目処も立っていない。

「はい、あ~ん」

「はむっ!! んまぃ~」

フォークできれいに一口大に切ったシフォンに添えられたクリームをたっぷり乗せて、俺はそれを潰してしまわないように気をつけながら志穂の口元まで運んでやった。そして志穂は、まるで目の前にエサが降ってきた魚のように、驚くほどの速度でそれを口の中へと収めたのだった。

傍から見て、おそらくこれは「あ~ん」というやつではなく、餌付けかなにかのように見えたことだろう。

「そうか、美味かったか。それじゃ、あとは自分の分を食べるんだぞ」

「は~い」

「俺も、せっかくだし、食うか」

ここでこのケーキを食べることは、実際のところそこまでの痛手というわけではない。そもそもの目的であるところの、ハルさんと顔を合わさずにこの場から去る、ということができなかった以上、すでに俺は一つ失敗しているのだ。この失敗の故にここでこうしてもうしばらくの間滞在していなくてはならなくなり、また少なからぬ出費を求められたのだが、しかしこの出費、実はそこまで痛くないのである。

それは値段にしてしまえばさらに1000円を支払うことに他ならず、俺の小遣い的にはかなり厳しいのだが、しかしそれが晴子さんのケーキを食べるために使われるのならば話は別である。晴子さんの普通の料理は比較的簡単に食べることができるのだが、お菓子となると話は別なのだ。お菓子はほんの少しだけつくるということができない性質があり、それがあるからこそ晴子さんは家でお菓子をあまりつくろうとしない。

それは、つくればつくっただけ食べてしまう雪美さんがいることが最大の理由である。たとえばケーキを一ホール焼いたとすると、雪美さんはそれをぺろりと平らげてしまう、のだそうだ。普通だったら三人で楽しむことができるはずのホールケーキを一人で食べてしまう雪美さんの存在が、晴子さんのお菓子製作意欲をひどく減衰させているらしいのである。

まぁ、お菓子って、分量を精密に量らなくちゃいけなかったりしてけっこう神経すり減るし、仕方ないのかもしれないな。でもだからこそ、晴子さんのつくったお菓子を食べることができるこの瞬間は、非常に貴重なのである。それは、1000円でも2000円でも、それこそ3000円払ってでも安い、と思えるほどなのである。

「あぁ、やっぱりうまいな、これ…、うん、幸せ」

ケーキをフォークで小さめに切って、ゆっくりと、その味を確かめるように、あるいは脳へと直接刻み込むように、丁寧にケーキを食していく。

美味い。どういう配分で、どういう生地のつくり方をして、どういう焼き方で、いかにタイミングを見計らっているのか、すぐに完全に理解することは出来そうもなかった。やはり、金はかかってしまうが、これからしばらく、それこそ味を覚えることができるようになるまでここに通った方がいいのだろうか。

「どうやったらこんな味が出るんだ…、不思議だ……」

「幸久君、味、覚えるの?」

「あぁ…、覚えられるもんなら覚えたいんだけど、でも今の俺の腕じゃ再現できる気がしない。お菓子づくりについては、まだまだ俺もヌルいところが多いからな」

『幸久くん、お菓子もつくるの?』

「まぁ、たまにな。あんまり頻繁にはつくらないし、手の込んだものもあんまりやらないから、そんなに上手くないけど」

『すごい』

「そんなことないって。お菓子って、けっこうレシピの通りにつくればうまくいくもんなんだぜ。まぁ、最初はなかなかそうはいかないんだけどな」

「幸久君も、最初はあんまり上手にできなかったもんね、お菓子」

「今でもそんなに上手くないけどな。もっと勉強しないとダメだ」

「そういえば、三木のつくったお菓子というものは、あまり見たことがないな。弁当はつくってくるのに、お菓子をつくってくることはないようだが、そういうことはしないのか?」

「なんていうか、人前に出せるレベルじゃないっていうかさ…、あんまり出来のよくないものは人前にさらしたくないっていうか……。まぁ、別に持ってきてもいいんだけど、ちょっと、な?」

「私は、お菓子をつくるなどという発想自体が浮かばなかったのだが」

「姐さんは、そのままの姐さんでいてくれて、いいと思うぜ?」

「がさつなままでいろ、ということか? お菓子づくりなど、少女らしくていいと思うのだが、私にはそのようなものは似合わない、ということか?」

「いや、そういうわけじゃないけどさ。でも、姐さんがチマチマお菓子なんかつくってる姿って、なんか想像つかないっていうか、ピンとこないんだよな。もっと豪快にかっこよくつくってるところの方が想像できる」

「それは、褒めているのか……?」

「褒めてる褒めてる。なんか、フランべとかして、火がバッ、とあがってる感じっていうかさ、そういうアレ」

「よく分からんが……」

「まぁ、でも、姐さんがお菓子つくってるっていうのも、かわいくていいとは思うけどな」

「くっ…、また、かわいいなどと、そのようなことを易々と……」

「? 姐さん、なんかいった?」

「…、何でもない」

「そう? ならいいんだけど……」

そして俺は、クリームの風味で軽くべたついた口内をすっきりさせるために紅茶の揺らめくカップを手に取った。口元に寄せると、ふわりと紅茶の香りが立ち上ってくる。なんとも幸せな気分だ。

しかしその次の瞬間、ふとソーサーに落とした視線が、四角く二つに折られた小さな紙(ソーサーとカップの間に挟まれていたと思われる)を捉えた。イヤな予感が、背筋を一息で駆け上った。

とりあえず俺は、なににも気付かなかった風を装いながら紅茶を一口含み、ソーサーにカップを戻しつつその紙を手の中に握り込んだ。そして急がず、しかし迅速にそれをテーブルの下に引き込み、気づかれないようにそっとその内容に目を落とす。

『トイレまで来い 一人で ハル』

戦慄した。

そこには、ほっそりとした丁寧そのものの筆致で、まるで不良同士の抗争への呼び出し状のようなものが書かれていたのだ。なんで俺がハルさんに呼び出されなくてはならないか、などということは、もはや考えるまでもないことだった。

晴子さんなのだ。それはもう、疑う余地もなく。いや、そもそも俺は、もはや確信すら持っていたのだが。

「…、あそこか……」

再び楽しげに談笑している四人に感づかれないように、俺はこのフロアの隅に配されているトイレへと視線を走らせた。フロア全体の死角になるように配されたそれは、おそらく隠れて話をするにはうってつけの場所だった。あそこに呼び出すということは、何かしら話がある、ということなのだろう。俺は、どうやら、覚悟を決めなくてはならないらしい。

口の中が一気に乾いていくような、そんな気がした。ごくりと、唾を飲み込んだ。

あそこに行けば、メイドと化した晴子さんと、真正面から話をすることが求められるだろう。そんなことができるのだろうか…、いや、しなくてはならないのだろう。

「ぉ…、俺、ちょっと、トイレ、行ってくる……」

「そうか、行ってくるがいい」

「あぁ……」

「ゆっきぃ、いってらっしゃ~い」

「あぁ……」

『場所、分かる?』

「平気……」

「幸久君…、どうかしたの……?」

「いや……」

そして俺は、手に晴子さんからの呼び出し状を握りしめながらとぼとぼとトイレに向かって歩を進めるのだった。さすがに命を取られることはないだろうが、何をされるのか、分かったものではない。足は、自然重くなった。

どうしてこんなことに、なってしまったのだろうか。

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