目を逸らして、見る世界
帰りたくない。でも、帰らなくていけない。
つまるところ俺は、今現在そういう板挟み的な状況に置かれているのである。
「ごちそうさまでした。さて、霧子、帰るか」
「う、うん、そうだね。そろそろ帰ろうかなぁ……」
それでも俺たちは、なんとか帰らなくてはならない、という現実の状況に即して考えたとき、当然選択しなくてはならない方を選択することができたのだった。そう、俺と霧子は、自分たちの注文したものを――堪能したとはお世辞にも言い難いが――やっつけた今、この場から可及的速やかに退避しなくてはならないのだ。
それもこれも、俺がこの場で晴子さんと顔を合わせないようにするためなのだ。もしかしたらこの喫茶店で晴子さんが働いているのではないか、という予感から始まって、ケーキの味で確信に変わった、この店の奥の厨房には、ほぼ間違いなく晴子さんがいる、という事実が俺たちの行動の根本にあるわけで、またこの後、おおよそ間違いなく晴子さんはここにやってくるわけであり、だからこそ、顔を合わせないためには今すぐ俺たちがこの場から逃亡することが必要になっているのだ。
そして、きっと俺がここで晴子さんと顔を合わせたとしたら、なにが起こるかは分からないが、非常に大変なことが起こってしまうに違いないのである。それくらいのことならば、経験から十分に予測可能である、いや、理解できてしまうのだ。
「じゃあ、俺は帰るから。また明日な。1000円置いてくから、足りてなかったら明日返すから言ってくれな。だれか少しの間だけ立て替えておいてくれ」
「あたしも、1000円おいてくね。えと、ばいばい、また明日ね?」
「ほぇ? ゆっきぃときりりん、かえっちゃうの?」
「そういう話だっただろ」
「ばんごはん、つくるの?」
「あぁ、そうだ。そんな感じだ」
「きりりんも、ばんごはんつくるの?」
「あたしは、晩ごはんはつくらないけど…、あの、えと、ちょっとやることあって……」
「そうなんだ~、きりりんたいへんだね~」
「そ、そうなの、うん。やることあるんだよ、うん」
「というわけだから、また明日な」
『幸久くん、ハルさん見ないで帰っちゃうの?』
「残念だけど、また今度にするわ、うん。楽しみは取っておいた方がいいだろ、やっぱり」
『そうなんだ…、ハルさんにあたしの友だち紹介できると思ったのに、残念』
「ほ、ほんとにごめんな、メイ。この埋め合わせは、また今度きっとするから、許してくれな」
『じゃあ、また今度いっしょにきて、ハルさんに会ってくれる?』
「…、心の準備ができたら、いいぜ。でも今日はちょっと、急だったからさ、こう、心が折れると思うんだ、その、ハルさんに会っちゃったら」
『どういうこと?』
「気にしないでくれ、俺の個人的な葛藤だ」
「じゃあメイちゃん、また明日ね、ばいばい」
『きりちゃん、ばいばい』
「姐さんも、また明日な。あとよろしくな」
「あぁ、持田と皆藤の二人は、私が責任もって駅まで送り届けよう。三木は心配しないで帰ってくれていい。それより、天方のことをしっかり送っていくのだぞ」
「あぁ、それは任せてくれ。霧子を送り届けることに関しては、もはやプロの領域だ。万難を排して家まで連れて行くことにするぜ」
「ふむ、頼もしい限りだな。まぁ、私もそのことについては心配していないのだがな。家も近いし、それこそ本当にきっちりと家の前まで送ってやることもできるのだから、それ以上安心なこともない」
「ゆ、幸久君、そろそろ行かないと……」
「そ、そうだな、あんまり長居してると……」
「もうお出かけですか……? ご主人さま……?」
「ひっ……!?」
不意に、ポンっと肩に手が置かれ、まるでうなじに息を吹きかけるようにそんな風に声をかけられてしまい、背筋を一直線に寒気が駆け昇ってきて、下から無理やり押し出されたような情けない声が、思わず出てしまった。
誰が俺の肩に手を置いたのか、それは振り向いて誰がそこにいるのかを確かめてしまえばあっという間に判明することである。しかしただそれだけのことが、なかなかすることができない。いや、そんなことをしなくても分かってしまうのだから、そんなことをする必要性自体がないのだ。
「せっかくお帰りになられたというのに、もうお出かけになるなんて忙しのないことはおっしゃらず、さぁさ、お席におかけになってくださいませ? さぁ、お嬢さまもどうぞおかけください?」
肩に置かれた手は、まるで万力のように遠慮呵責のない強さで一切の躊躇なく俺の肉に食い込んできて、たぶんもう肩のあたりは血が通っていなくて真っ白になってしまっていることだろう。しかし、絶妙なパワーコントロールによって痛みのようなものは与えられていない。
だが、痛みはないが、しかしそれは晴子さんの精神攻撃の一環であり、特にやさしさや慈悲のようなものではなく、むしろこの状況は痛みが与えられる物理攻撃を晴子さんが選択するよりもマズいのである。怒っている。いや、いら立っている。いやあるいは、やる方ない憤りを感じていらっしゃる。晴らすことのできないいらだちが心を満たしたとき、晴子さんの攻撃の矛先は俺に向くのであり、そのとき俺への制裁手段として痛いことは選択されず、精神的に追い詰めるような方法が選ばれることが大半を占める。
そして霧子にも同様のことがされている――当然、俺に対するものと違い、かけられているその精神的圧迫感は百分の一にも満たないだろうが――今、霧子一人だけでも逃がす、ということすらもできなくなってしまった。せめて霧子だけでも、と思ったのだが、くっ…、無力なり、俺……。
『ハルさん、来てくれたの?』
「はい、メイお嬢さま。せっかくお嬢さまがお帰りになられたというのに、お出迎えをしないメイドなどいてよろしいでしょうか、いえ、いいはずがありません」
『今日はお友だちといっしょに来た』
「あら、そうでしたか。とても賑やかで、その周りだけ華やいで見えましたわ」
穏やかな、聞くものの心を安らがせるような声音の女性が、俺の後ろに今、立っている。しかしその顔を、俺は確かめることができない。振り向いてはならぬと、本能が告げているのだ。
後ろにいるのは、晴子さんなのだ。それは気配やオーラ、軽くつけられた香水の下から漂う香りなどからも明らかであり、少し声色を使っている声からも分かってしまうことだった。いや、普通の人だったら晴子さんだと判断することはできないかもしれない。出来ないかもしれないが、しかし俺は、晴子さんと深くかかわりすぎてしまっていて、晴子さんについてのあらゆることを頭に叩き込まれてしまっているが故に、それが分かってしまうのである。
「さぁ、ご主人さま? お席にどうぞ?」
「…、あ、あの…、は、ハルさん…、ですか……?」
「はい、えぇ、ハルでございます、ご主人さま」
「は…、ははっ、は、ハルさんは…、メイドさん…、なんですか……?」
「えぇ、はい、メイドでございます。ご主人さま」
「き…、霧子…、座ろうか……」
「にゅ…、にゅん……」
「あれ~? ゆっきぃ、かえらなくていいの~?」
「じ、事情が、変わってな…、帰らなくてよくなった」
「きりりんも?」
「ぅ、うん…、明日でも、出来ることだったから……」
「あら、ご主人さま、ケーキ、召し上がってくださったのですか? お紅茶も」
「え、えぇ……、まぁ、はい……」
「いかがでしたか? お口に合いましたか? 私がつくらせていただいた、拙いものではありましたが」
「い、いぇ、まさか、口に合わないなんて、そんなそんな…、美味しすぎて気絶するかと思いました」
「まぁ、ご主人さま…、褒めすぎですわ、ふふ。そんなに気に入っていただけるなんて、光栄ですわ。もう一つ、召し上がりますか? 今度は、シフォンケーキでも」
「…、は…、はい、いただきます……」
「はい、かしこまりました。あっ、そうなりますと、お紅茶もほしくなりますよね。なりますよね?」
「…、な、なってきました! がぜん、紅茶がほしくなってきました!!」
「はい、それではすぐにお持ちしますね。お嬢さまは、どうなさいますか?」
「み、みみ…、ミルクティー、くだ、さい、です……」
「はい、かしこまりました、お嬢さま。あぁ…、自己紹介が遅れてしまい、申し訳ございません。わたくし、当館、サザンクロスのメイドとキッチンリーダーを兼任させていただいております、ハルと申します。メイお嬢さまには、とてもご贔屓にしていただきまして、畏ろしくも専属担当の任に着かせてさせていただいております」
そう言って、スッ、とロングスカートの裾を指でつまむと、ハルさんは深々と腰を折り、恭しく頭を下げたのだった。まぁ、俺はまだハルさんの方に目線を向けるのが怖すぎてその顔を直視することは全くできていないので、声の発生位置の変化からその姿勢の変化を予想するしかないのだが。
しかしあからさまに目を伏せている俺とは違い、どうしてか強気な霧子はハルさんの方を直視しているわけであり、どこからそんな豪胆な部分が顔を見せたのか聞きたくなってしまうほどだ。そんなことしてないで、仲良くいっしょに現実から目をそらそうぜ、霧子。強いふりなんて、べつにしなくていいんだからさ。
「それでは、失礼いたします」
「…、霧子…、そっち向いてたら殺られるぞ……」
「ゆ、幸久君…、あれ…、ほんとにおねえちゃんかな……?」
「はっ? 俺が晴子さんの声を聞き間違えるわけないだろ。ちょっと声色使ってるかもしれないけど、でも確かに晴子さんだよ」
「で、でも…、あんまりそんな感じ、しないんだけど……。メイクとか、全然違うし…、髪型もぜんぜん……」
「霧子のバカ……!! 髪型なんて、セミロングくらいあればウィッグとかエクステンションでなんとでもなっちゃうんだから、信用ならないだろ……!! メイクだって、変えようと思えばいくらでもやり方変えることできるだろうが……!! それに晴子さんは器用なんだから、意識すれば声色だってばっちり使い分けられるし、立ち居振る舞いとかもどうとでもできるって、霧子もよく知ってるでしょ……!!」
「そ…、そうかもしれないけど……。でも幸久君も、見たら見方変わるかもしれないし…、おねえちゃんじゃないって気もするかも……」
「しないって。もう、声の抑揚の感じが完全に晴子さんだもんな。っていうか、そもそも普通の人間だったら初対面の人間、しかも店に来た客に対してあんな態度取るわけないだろうが」
「あんな態度……?」
「…、あれ…、こっちだけだったの……?」
もしかして…、晴子さんは、俺は押さえつけて黙らせるつもりであることは間違いないとして、でも霧子のことは黙らせるつもりはないのか? まさか本気で、霧子の言っている通り、自分は晴子さんじゃないって騙しにいくつもりなのだろうか。
「あたし…、よく考えたらあの人、おねえちゃんじゃないような気がするんだけど……」
「なんでそう思うんだよ。なんかあるんだろ、理由みたいなのが」
「にゅ…、にゅん。あのね、おねえちゃんは、バイトしてるのはレストランのキッチンって言ってたような気がしてきたの。接客とかはやらないって言ってた気もするし、メイドさんなんてやってるわけないよ」
「バイト先、聞いてないんじゃなかったのか?」
「聞いてないような気がしてたんだけど…、でも、なんだか急に思い出したような気がして……」
「…そうか、そういうことなら、違うのかもしれないな、うん」
思い出したなんて、ウソだな。あれは思いだしたんじゃない、思いだしたと思い込むことにしただけだ。自分の姉ちゃんがまさかメイドをしているなんて、信じたくなかったんだろう、かわいそうに、霧子…、一番現実逃避していたのは俺じゃない、霧子だったんだ……。そう考えると、さっきぼんやりとハルさんの方を向いていたのも理由がなんとなくうかがえる。霧子はハルさんが晴子さんだと確認するためにそちらを向いていたのではなく、ハルさんが晴子さんではないと、自らの意識の中で確定させるためにあちらを向いていただけなのだ。
しかしだからといって、俺までハルさんが晴子さんじゃないなんて認めるわけにはいかないのだ。それがいかに自らを死地に置く行為か、ということは重々承知しているつもりだ。だが、だからといってそちらに傾いてしまうわけにはいかないのである。
もちろん表面上は、ハルさんが晴子さんである、ということを殊更に主張するつもりなんてないが、しかし心では、心だけは負けないようにするんだ。いくら屈しているように見えても心は折れない負けない挫けない!! 俺は負けてはならないのだ。どうしてかは分からないけど、負けてはいけないのだ。
いや、どうしてかは分かる。それに負けてしまった瞬間、俺が晴子さんからひどい目にあわされるだろうことは目に見えているのだ。それを防ぐためにも、俺は、負けてはならないのだ。
いや、仮に負けなかったとしても、ひどい目にあわされることは間違いないのだろうがな。