Maid in Heaven
カランカランカラン~!
どうしてか先頭に立ってしまった俺が、意を決して(俺と霧子以外はそんなに気負っていないのだが)喫茶店の扉を開くと、こういう店にはありがちなのかもしれないが、その動きに合わせて軽快なカウベルが鳴り響いた。
しかしそこには、そんなカウベルの音とそぐわないような、思ったよりも素敵な空間が広がっていた。素人がパッと見ただけで分かる、長い年月を経ているだろう立派なアンティーク調の家具たちは、しかしその経年を感じさせないほど丁寧に手入れが施されている。客に振る舞われている茶器や食器類もこだわって選ばれているらしく、おばさんに軽く仕込まれている程度の俺の知識であっても把握されるような有名メーカーのものばかりのように見えた。
なんだこの喫茶店、ヤバいぞ…、ほんとにこんな店、入ってもよかったのだろうか……?
「…、逃げていいか……?」
「ゆ、幸久君…、行くって言ったばっかりなのに……」
「三木、早く入ってくれ、後がつかえているんだ」
「ゆっきぃ、はやく~」
「わ、分かったよ! い…、行けばいいんでしょ!」
とにかく、開けてしまった以上、俺はその先に一歩を踏み出すしかなかった。今さらこの場から逃げることは、精神的にも物理的にも出来なかった。なぜなら、俺の後ろには四人も連れが控えているのであり、それをかき分けて逃げるなんて、できっこないだろう。
しかし、まぁ、俺が逃げようと思ったのは、なにもアンティークの家具や食器に気圧されたから、というわけではないのだ。そんな程度で圧倒されていたら、そもそも庄司の家に住むことができないのである。あの家は過去の三木家の栄光だか何だか知らないが、そういうアンティークみたいなのがいっぱいあって、外見からはそこまで連想できないだろうが、けっこう豪奢な感じに仕上がっているのである。
それならば何に怯んでいるかって? それはあれだ、あの…、……、冥土だ。あっ、いや、メイドだ。
「どうしよう…、メイドだ…、メイドがいる……。しかも、いっぱい……」
「にゅ? あっ、ほんとだ、メイドさんがいっぱいいる」
「メイド? …、本当だな、いる。しかしメイドというのは、大きな屋敷に仕える女給のことだろう。なぜそんなものが、こんなところにいるのだ?」
「それは、あれなんじゃないか……? これが一昔前に世間で話題になった、あの、メイド喫茶ってやつだから、じゃないのか……?」
「メ、メイド喫茶……! そうか、これがあの、メイド喫茶というものか!」
「おかえりなさいませ、ご主人さま♪」
とかなんとかやっていると、扉を開けて身体半分を店内に入れている割にいつまでも一歩踏み出してこない俺たちにしびれを切らしたのか、カウベルの音を聞いて入口まで出迎えにやってきたメイドさん(エプロンの腰のあたりについている名札には『ミキ』と書かれている)が俺に向かってそう声をかけた。
様付で呼ばれることは庄司家の面々との長年の付き合いによって慣れたものだが、しかしここまであからさまに「ご主人さま」などと呼ばれたのは初めての経験だった。しかしそれは、思ったよりも心地よいもので、なんだろう、いつか美佳ちゃんが帰ってきたらそう呼んでもらおうかな、などと思ってしまう程度には、うれしい感じを覚えたのだった。まぁ、美佳ちゃんは俺のことを様付で呼ばない唯一の、俺からしてみれば庄司家の良心なので、そのようなことを実際にはしないのだが。
「ご主人さま、本日お連れのお嬢さまは何名ですか?」
「よ、四人、です」
「はい、かしこまりました♪ それではこちらにどうぞ♪」
そういって、半身になって俺たちを先導するメイドさんが着ているのは、非常にクラシカルなタイプのメイド服である。ひざ下まである丈の長い紺地の、あまりサイドに膨らまないようにデザインされたロングドレスにまぶしいほどに真っ白なエプロンを合わせ、頭にはふわっとしたヘッドドレスが乗せられ、足元は編上げのブーツを身につけている、ヴィクトリアンメイドファッションの亜種みたいな恰好をしている。あまりテレビで取り上げられるようなメイド服(スカートの丈がやけに短かったり、いろいろな色をしていたりした、伝統からかけ離れたようなアレ)とは違って、清楚な感じが漂っていて非常に感じがいい。
メイド喫茶といっても、あまりオタクっぽい人たちをターゲットにしていないというか、普通の人でも入りやすい感じというか、全体的に狙っている年齢層は高めのように感じる。実際、入っている客も女性が中心であり、比較的年配の人もいるように見える。
「あら、おかえりなさいませ、メイお嬢さま♪ 本日はご主人さまとご一緒にお帰りなのですね♪」
『ただいまです』
「後ほど、ハルちゃんをお呼びしましょうか?」
『うん』
「は~い♪ 承りました♪」
そして、こちらにどうぞ♪ と通された六人がけの大きな席に、俺たちは奥から順番に腰かけていったのだった。というかなんだこの椅子、すげぇ座り心地いいんだけど、アンティークってみんなこんななのか? …、いや、庄司の家にあった椅子も、確かにこんな感じだったのかもしれない。そういえば引っ越したばかりのことは椅子の座り心地が思ったよりも悪くて戸惑ったっけ……。
しかし、椅子に座って視点を下げてみて改めて気付いたが、この喫茶店は、本当にスペースをぜいたくに取っているように思う。ゆったりと過ごせるというか、すごい優雅な気分になれるというか、確かにこれは、入り浸りたくなるのも分かるというものだ。いや、決して、メイドさんが目当てというわけではないのだが。
「しかし、メイ、メイドさんに名前覚えられるくらい通ってるのか?」
『けっこう名前覚えてくれる。たぶん、幸久くんも次きたら名前覚えられてると思う』
「マジか…、すげぇな、この店……」
しかし、いったい何人のメイドさんを雇っているのかは知らないが、こういう店だとけっこう自給とか高いんじゃないだろうか。つまり、けっこうな値段を取らないと人件費をカバーしきれないのではないか、ということである。
だって、メイド服着てへりくだった態度で客に御奉仕しないといけないわけだし、あまりやりたがる人もいなさそうだし、時給を上げでもしない限りスタッフが集まらない気もするのだが。
「ね~ね~、ゆっきぃ」
「ん? どうした?」
「ゆっきぃのおうちには、こうたんがいるけど、こうたんもメイドさん?」
「広太はメイドじゃない、執事だ。メイドさんは、みんな女の子だと思うぞ。いや、女の人、か、別に女の子だけがメイドってわけじゃないし」
「ゆっきぃはメイドさん、みたことある?」
「メイドさんを見たことあるか? あるよ、っていうか、庄司の家にいるよ」
「メイドさんいるの!? すご~い!!」
「まぁ、今はメイド長しかいないけどな……」
庄司家のメイド隊は、おばさんと美佳ちゃんの二人きりである。俺が家にいるときは、二人ともメイド服着用が義務付けられていたので、ある意味で、メイド服自体は見慣れている、と言うこともできるかもしれない。メイド服自体も、この店のものと同じようなロングドレスタイプのものだったので、おばさんが着てもキツい感じは全くせず、むしろ似合っているくらいだった。逆にふわふわひらひらのお洋服を着たい年頃だった美佳ちゃんは、かわいくないそれがあまり気にいっていなかったらしく、おばさんがいないときはこっそりとミニスカートタイプのものを着ていたり、ひそかに製作した改造メイド服を俺に披露していたりと、意外とはっちゃけていたように思う。
そういえば、美佳ちゃんは今どこかの家でメイド修行しているんだよな。そこではちゃんと、もしかわいくないとしても、支給されたメイド服を身につけているだろうか。気に入らないからと勝手に改造して、先輩メイドたちにいじめられてはいないだろうか。それとも、三木のメイドであることを態度に見せるよりも誇りに思っている子だから、どんな場所でも変わらずおばさんとおそろいのメイド服を身につけているのだろうか。あぁ、美佳ちゃん、心配だなぁ……。電話の一本でも、よこしてくれればいいのに……。
話が逸れたな。さて、それならば、見慣れているというのに、どうして俺がさっきメイド服に怯んでいたかというと、それはメイド服がおばさんを想起させるからである。おばさんは非常に厳しい人で、俺の日々の日常生活から学校生活、勉強の成績から人としての在り方まで、あらゆる面において三木の当主としてふさわしい男に仕立てあげようと、厳しいしつけを課してきたのだ。それには、当然、勉強をいっぱいがんばることも含まれていたし、当主として身につけるべき教養だか何だか知らないが、いろいろよく分からない勉強をさせられそうになったり(当主権限命令を用いておおかた拒絶した)、いろいろ大変だったのだ。
ちなみにさっきの、アンティークの家具とか食器についての知識も、おばさんのしつけの一環として仕込まれたもので、軽く――さっきもそう言ったが、これはおばさん基準である――いろいろとねじ込まれたのだ。
「志穂は、メイドさん、見たことあるか?」
「ない~」
「ですよね~」
「お待たせしてしまってすみません、ご主人さま、お嬢さま♪ お冷とお手拭き、お持ちしました♪」
カラカラと、なんかお洒落っぽいカートに乗せられて、これまたお洒落っぽいグラスに注がれ氷を二つほど浮かべたお冷と、それからふわりと湯気を立てる熱おしぼりが人数分俺たちの座ったテーブルに届けられた。カートを押してきたのは、またさっきとは違うメイドさんで(さっきの人よりも少しだけ年上のようで、名札には『ユリカ』と書かれている。果たして何人のメイドさんが控えているのだろうか)、しかしそれでもサービスの基本的なところは変わらないらしく、キラキラの声でそう言ったのだった。
「あっ、あり…、ありがとうございます」
「はい、どうぞ、ご主人さま♪」
基本的に、広太以外からこういうことをされるのに慣れていない俺としては、そう声をかけられるたびにオタオタしてしまって、非常に情けない塩梅である。くっ…、これだから外食は苦手なんだ、店員さんはみんなサービス精神に充ち溢れてるし、そうやってやさしくされるのは苦手なのに……。
しかし他のみんなは慣れたもので、特に動揺することもなくお冷とお手拭きを受け取っている。なんだろう、俺だけ外食弱者なのだろうか。
「それでは、本日は何をお持ちすればよろしいでしょうか? 本日、このお時間のおすすめは、ご用意したてのふわふわ紅茶シフォンになります♪」
『あたしは、それと紅茶。アッサムで』
「はい♪ メイお嬢さまは、『いつもの』ですね♪ お伺いしました♪ 他のお嬢さま方は、なにになさいましょうか?」
「えと……」
「横から失礼します。メイお嬢さま、申し訳ございません……。本日、ハルちゃんは厨房でお料理をご用意する役についておりまして、お連れするのに少々お時間がかかってしまうのですが、よろしいですか……?」
メイは常連らしくさっさと注文を決めてしまったのだが、しかし俺たちはなかなかそういうわけにもいかず、これから少し時間をもらって考えなくてはならないのだが、とか思っていたら、他のメイドさんに比べてやけに落ち着いた雰囲気のメイドさん(名札には『キョウコ』と書かれている)が、横から音もなく現れてメイにそう告げたのだった。
しかしこの人なんだか他のメイドさんよりも装備が豪華、というか、いろいろオプションがついているようである。耳から伸びた小さなマイク付きのヘッドセット(ヘッドドレスと同化している、おそらく特注か手作りの品)が特に特徴的であり、それ以外にも他のメイドさんが持っていないような小さな電子機器がそこかしこに装備されている。
この人は、きっと今日フロアにいる中で一番偉い人に違いない。つまり、メイド長、ってやつだ。メイド長だから、いろいろつけてるんだろう。たしかに庄司の家でも、美佳ちゃんが持たないいろいろなものをおばさんは持っていたし、おそらくそれがメイドの常識であることに疑いはない。
『平気、待ってるから』
「申し訳ございません。メイお嬢さまへの給仕は、いつもハルちゃんに任せておりましたのに……」
『気にしないで、キョウコさんも好き』
「もったいないお言葉です、メイお嬢さま。それでは、ユリカちゃん、しっかりご主人さまとお嬢さまにご奉仕してさしあげてね」
「はい、メイド長、お任せください♪」
そしてメイド長は深々と腰を折ると、スッと、再び音もなく下がっていくのだった。
「それでは、お決まりになりましたら、こちらのベルを鳴らしてくださいませ♪ メイお嬢さま、御所望の品は、皆様とごいっしょにお持ちしますか? それとも、お先にお持ちしてしまった方が、よろしいですか?」
『いっしょにお願い』
「はい♪ かしこまりました♪」
そして注文を取りに来ていたメイドさんは、メイド長と同様に深々と腰を折ると、押してきたカートとともに裏へと下がっていくのだった。
「さて、注文決めるか」
「あたし、決まったよ」
「私ももう決まっているぞ」
「あたしも~」
「あれ!? 俺だけ!? ちょ、ちょっと待ってな、すぐ決めちゃうから!!」
『急がなくていいよ、幸久くん』
一杯だけ飲んでいち早く退散すると決めていたはずなのに、しかしどうやら俺の方が置いてけぼりにされてしまっていたようである。マズいマズい、急いで決めてしまわなければ…、そして、イヤな予感の元凶であるハルさんと顔を合わせる前にさっさと帰ってしまわなければ……。