お買いもの、しましょ ‐ 霧子篇
息苦しい。数分して、俺はそう感じた。きっと酸素が足りないのだ、ここには女子素が充満しすぎている。
ここは俺の生息域ではない。そんな確固とした確信が俺に、この女性用水着大型展示販売場からの脱出を促してくるが、しかしそれをすることはできない。俺は買い物に付き合うとついさっき公言したばかりであり、それをそう易々と反転させることはできないのである。たとえメイの小悪魔的な策にはめられ、姐さんにすっかり論破され、志穂に力で引きずり込まれたからといって、そういうことを理由にして己を裏切ることは、俺には出来なかった。
男子たるもの、一度交わした約束は決して破らない心意気でいなくてはならないのだ。もちろん、いままで一度たりともそのようなことをしていません! と胸を張って言うことはできないが、しかしそれでも、男子として恥ずかしくない生き方を心がけたいものである。
「幸久君、平気?」
「ぁ、あぁ…、なんとか、生きてる……」
しかし、その息苦しさは意外とマジだったらしく、うっかり霧子に心配をかけてしまったようだった。女子素充満による酸素不足に加えて、辺りが無駄にカラフルなのことによって眼精疲労が引き起こされ、それに加えてあまりに自分が場違いすぎることが自覚されているので軽い頭痛まで起こっているようである。
もしかしたら、ここに入ったことによって生じたダメージは、俺が思っているよりもずっと深刻なのかもしれない。でも大丈夫、俺はまだ戦える、買い物の付き合いを続けることは、まだ出来る。
「でも、まだいける、と思う」
「そ、そんなに? やっぱり今からでも外出る?」
「ダメだ、男に二言はない。俺は買い物に付き合うって決めたんだ、これくらいで簡単にリタイアするわけにはいかないんだ。そんなことより、霧子はどういうの買うつもりなんだ? 俺は乙女のお洒落マスターじゃないからよく分からないけど、似合ってるかどうかくらいはたぶん分かると思うぞ」
実際、何かしらしていないと頭が痛くて仕方がなかった。そして、ここで俺に出来ることといったら、それはもう買い物の手伝いくらいしかないのである。そして、この売り場の問題として、自分のものを買うために頭を悩ませることができないならば、手近にいる霧子の買い物のために頭を悩ませる以外に道はない。
ちなみに、メイと志穂と姐さんはもはや勝手気ままに散り散りばらばらとなり、自分の買い物に行ってしまったのだった。俺をここに引きこんだ張本人であるメイが俺を放っておいて自分の買い物に行ってしまうとは、流石に思っていなかったのだが、しかしこうして霧子と二人残ったのだからいっしょに頭を悩ませてやろうではないか。
「にゅぅ、幸久君は、全然当てにならないから、聞いても参考にならないもん」
「え~? そんなことないだろ。少しくらいは役に立つぞ、きっと。俺にだってかわいいものとかわいくないものの区別くらいはつくし、自分以外の視点っていうのも大事なものなんじゃないのか?」
「それはそうだけど…、でも、幸久君、あたしがなに選んでもだいたい『かわいい』とか『似合ってる』っていうんだもん。買ってきたのをかわいいよ、ってほめてくれるのはうれしいんだけど、でも買うときにそれ言われちゃうと、どれを選んだらいいかわかんなくなっちゃうよ」
「それはしょうがないだろ。霧子はもともとかわいいんだから、なに着たって基本的にはかわいいんだ。よっぽどおかしなものを選びでもしない限りそのかわいさを妨げることはできないんだよ。大丈夫だ、俺は霧子のかわいさが損なわれていないかを確認することしかできないかもしれないけど、でもそれだけはちゃんとできる、安心してくれ」
「…、だから参考にならないんだよ」
「? よし、分かった、がんばる、俺、がんばるぞ。ちゃんと霧子に似合ってるかどうか判定するよ。ちゃんと判定出来たら、俺の言うことも参考になるってことが分かるだろ?」
「…、じゃあ、これはどうかな? あたしに似合うかな? 似合わないかな?」
釈然としないような表情をしている霧子が、近くのラックから無造作に水着を一着取り、そしてそれを俺の前に差し出した。俺はそれを受け取ると、前から見たとき、後ろから見たとき、横から見たとき、それぞれがどのようであるかを検証し、それが霧子に似合っているかどうかを判断することにするのだった。
それはどちらかというとスクール水着に似ているものだったが、しかしそれとは異なり、よりシャープな印象を与えるものだった。全体的な色合いは地味なつや消しの黒だが、胸元にスポーツ会社のロゴが入れられサイドには左右対称にブルーのラインが三本ずつ入れられており、なんとなく着ているだけで泳ぐのが速そうに見えそうだった。しかし、後ろ側はバッサリと開かれ、細い布地がクロスして支えているだけあり、ワンピースタイプの水着にしては少し肌の露出が多めのように感じる。本当に競泳の選手が着ているような水着、といえばそのイメージが伝わりやすいだろうか。
しかし遊びに行くのにその水着がいいかといえば、それは少し微妙な感じだった。そもそも霧子は背が高くてモデル体型なのだから、ワンピースタイプの水着よりもセパレートタイプの水着の方があっているような気はする。というか、今までもセパレートが大人っぽくていい、と選ぶことが多かったように思うのだが、しかしここにきて「大人っぽいワンピースタイプ」という地点に回帰してくるとは思っていなかった。
しかし、だからといって霧子に似合っていないかといえばそれはまた違っている。生地の色を見てみれば、その良さが分かる。霧子は特に色が白いので、黒っぽい水着の方がそれをよりよく引き立ててくれそうである。さらにそのデザインは全体的にほっそりしているので、スラッとしている霧子の印象に合致している。それが霧子の魅力をさらに引き立ててくれることが期待できるだろう。
俺は、その水着ならば霧子のかわいさを妨げる心配がないのでなかなかいいように思うわけで、霧子がそれを気に入っているのならばそれを止める理由はない。
「う~ん、そうだなぁ…、かわいいと思うぞ?」
「…、じゃあ、こっちはどうかな? 似合うかな?」
「ん? こんどはそっちか?」
そして俺の手からその水着を回収すると、霧子はまたラックから水着を取り、俺に手渡した。今度は明るい色のセパレートタイプの水着である。
さっきのものをスポーツ用というならば、今度のものはバカンス用といった方がしっくりくるだろう。全体のカラーリングは暖色系のグラデーションで、プリントの真っ赤なハイビスカスはラインストーンでキラキラに縁どられている。それは言うなら南国調で、まさに夏といった感じであり、寒色系が基本的に好みの霧子がいつも選ぶものとはだいぶ印象が違うように思うが、しかしそれでもかわいらしくていいと思う。さらに、下にはパレオよりも短いカバースカートがついていて、少女らしさを高めているように思う。カバーなしのビキニタイプの水着もいいとは思うが、しかしスカートがついているのも同様にかわいくてよい。そのスカートがフリルではなくチューブ型なのも、霧子のスラッと感を強調していてよい。
つまりこの水着、総じて見るならば、非常によい。ビキニもかわいいのだが、しかし霧子のきれいな肌をあまり周囲の男に見せつけてしまうのも目に毒だろうし、このセレクトは少なからぬ少女としての恥じらいも感じられ非常によい、グッドである。
しかし…、いつもなら避けてしまう、元気で明るい感じの、霧子にとっては新しいものへと挑戦してみる心意気はとても素晴らしいものであり、それも一つの成長なのではないかと俺は思う。どうしても同系色ばかりになってしまう霧子のたんすも、これを機にいろいろな色合いの服に挑戦する気持ちが芽生えれば、少しは色のバリエーションが生まれるのではないだろうか。そうして、いろいろ買ってきた服をいろいろ組み合わせて着て、休みの日に一人ファッションショーでもやってくれれば、俺も楽しくてなおよいのだが。そういえば、最近はそういうこともしたがらなくなってしまって、おにいちゃん、少しさみしいなぁ。おしゃれに目覚めた頃は、俺を観客にして頻繁にやってたのにな、一人ファッションショー。
あっ、いや、それはいいとして、この水着がどうか、という話だ。そうだな、うん、やっぱりこれはよいものだ。ぜひとも霧子に購入を勧めることにしよう。
「うん、そうだな、すごくかわいいと思うぞ」
「…、これの方が、いいってこと、かな……? にゅ、やっぱりあんまり参考にならないかも……」
「えっ!? なんで!?」
「だって、やっぱりかわいいしか言ってくれないんだもん。どれ買えばいいかわかんないよ。っていうか、今、ちゃんと考えてから言った?」
「考えたよ! すっげぇ考えたよ、頭の中で! それぞれ三段落くらい使って考えたよ!」
「? 三段落?」
「あっ、いや、こっちの話。ちゃんと考えてるから、その点については心配しないでくれ」
「でも、じゃあ、どうして考えてくれたのに『かわいい』としか言ってくれないの?」
「『かわいい』しか言ってないなんてウソばっかりだ。さっきのは、かわいかったぞ。今のは、すごいかわいかったぞ。俺としては後の方がいいとは思うけど、でも霧子がいいと思う方を買ってくれ。俺は俺の感想に順位をつけることしかできない、やっぱり一番大事なのは霧子の気持ちだからな」
「にゅ~、けっきょく自分で選ぶんだもん。幸久君が決めてくれた方がいいのに」
「…、あぁ、そういうことか。自分で決めるのは、なかなか決められなくてイヤってことだな。ダメダメ、ちゃんと自分で選ばなきゃ。俺は、俺の主観でいいと思うものを選ぶことはできるけど、霧子にとってそれが最善かどうかは分からない。やっぱり、どれだけ悩んでもいいから、っていうか今日決まらなくたっていいから、ちゃんと自分で決めなさい。おしゃれは自分でするものなんだからな」
「にゅ、でも水着はいつものおしゃれとはちがうもん。ちゃんと幸久君がうれしいのにしたいんだもん」
「はっ? なんで俺がうれしいのにするんだよ。そんなことより自分が着ててうれしいのにしなさいよ。俺のことなんてどうでもいいから、自分のために選びなさい」
「にゅ~…、幸久君の、バカッ!」
「なんでバカ!? あっ、霧子!? 痛っ!?」
霧子はプイッ、と踵を返すとツーンとそっぽを向いてあっちの方に行ってしまい、そしてそのついでに振り向きざまのポニテが俺の頬を直撃した。去っていく霧子の背中に垂れ下がっているポニテがふりふりと振られており、その振れ幅が霧子の怒りバロメーターのゲージになっているような気もしたが、しかし今までの経験上これくらいのことで怒ったことは一度もないし、そもそも霧子が怒るということ自体がひどくレアケースなわけで、今回も怒ったわけではないと思われる。
それならば、いったい霧子ちゃんはどうしちゃったというのだろうか。機嫌が悪くなったとしても、そのポイントがどこにあったのかを解析しなくてはそれを解決に導くことができない。というか、髪を撫でてしまってうやむやにしていい問題なのかどうかが分からないと、それを行使することができないのだ。
うやむやにしていい問題ではないところで髪を撫でてしまうと、あとからその問題を振り返ることができなくなってしまい、霧子の不機嫌のツボを一つ見逃してしまうことになるのだ。
いや、あるいは、不機嫌というわけでもない、という可能性も捨てきれない。ぬぁあああああ! いったい何が悪かったんだ! っていうか、どういう心境の変化があったんだ! 霧子、戻ってきて解説してくれっ!!
でもまぁ、俺がいいって言った方の水着はキープして持っていったみたいだし、別に俺のアドバイスがマズかったというわけではないらしい。となると、どこだ? どこが霧子ちゃんのお気に召さなかった? いや、それ以前に、何かがお気に召さなかったからあっちに行っちゃったのか? ヤバい、なにもわからなくなってきた。
「っていうか、もう見えねぇ……。霧子ぉ…、俺の何がいけなかったんだよぉ……」
「にゃ~、ゆっきぃ~、なにしてるの~?」
「ん…? 志穂か?」
「うん、そうだよ~」
「ってぅおっ!? なんでショートカットしてくるんだよ! 道を通れよ、道を!!」
「え~、でもとおれるし」
「そういう話してるんじゃねぇんだよ!!」
そして、へそを曲げてしまったかもしれない霧子に置いてけぼりを食ってしまった俺が軽くへこんでいると、志穂がわき合いから、ラックに吊られている水着をかき分けて姿を現したのだった。