論理と論理、力と力
「なぁ、やっぱり、無理じゃね?」
「にゅ? なにが?」
意を決してエスカレーター脇のスペースから一歩を踏み出した俺だったが、しかし売り場の入口までやってきて、そこから発せられるよく分からないオーラのようなものに気圧され、その直前で足を止めていた。それはまるで、その場における男の場違い感を増幅しているような、あるいはその場への男の侵入を拒むような。
そしてそれを敏感に感じ取った俺の本能が、この場からの脱出を図ろうとし始めるのだが、しかしそのためには、今もばっちりメイに握られている右手が邪魔をする。逃げたくても逃げられない。この状況を打開するにはメイを論理的にやっつけるしか方法がないのだろうが、お嬢様モードになっているメイは議論をまともに受け付けてくれないだろうから、つまりは現状を打開する方法は俺の手にはないのである。
『幸久くん、いこ?』
「メイ、あのな」
しかし、かなり無理そうな感じがしているとしても、だからといって「はい、そうですか」と引き下がってしまうわけにはいかないのである。だって、女性用水着売り場なんて入れないもの。朝の女性専用車両、女性用下着売り場に次いで男が入りにくい場所が、そこじゃないか。無理だよ無理無理、入れないって。
『どしたの?』
「あのな、ここは女性用水着の展示販売場なんだよ、メイ。ここには女の子が買うものしかおいてないわけで、つまり男が買うべきものは一つも置いていないんだよ。要するに、男がこの場所に入って行っても、できることはなにもないんだ。ということは俺がここに入っていくことは、俺にとって何ももたらさない。故に俺にとって、ここに買い物に入ることは意味がない。逆にメイたちにとってはどうか、考えてみよう。俺はここに入っていくことについてあまり乗り気じゃないから動きが悪いぞ。そういうやる気のない人間をいっしょに連れていくと集団全体の動きが悪くなる。集団全体の動きが悪くなると、もちろん買い物というミッション全体に対する遂行率が著しく低下するよな。もしかしたら買い物を満足にすることができなくなるかもしれない。そうしたらほしいものが見つからないうちに買い物を終わらせないといけない時間になっちゃうかもしれないぞ。よし、これで分かってくれたな、俺はここに置いていく方がいいぜ」
『うん、分かった』
「おぉ、そうか、功利主義的な観点から見て、俺を置いていく方が集団全体の幸福が高まるってことを、ようやく分かってくれたんだな。よかった、ほんとによかったよ、メイ」
最大多数の最大幸福を実現するためには、つまり各個がもっとも幸福になる選択をする必要があるのである。今のこの瞬間の場合、みんなは水着を選ぶために売り場に入ることがもっとも幸福な状態だろうが、しかし俺はここに入らずさっきの休憩所でコーヒーでも飲みながらみんなが戻ってくるのを待っているのが一番幸福な状態なのである。つまりここは別行動を取ることが、全体を見たときにもっとも幸福の度合いが高まるということがよくわかるだろう。
メイもそれを分かってくれたようなので、どうやら俺はここでようやく解放されるのだろう。別にメイに手を握られていることがイヤだったというわけではない、というかむしろちょっとうれしかったのだが、しかしだからといっていっしょに水着売り場に入っていくのはちょっとやっぱりなんというか、アレなのである。
「ゆっきぃ、はやくいこうよ」
「行かないって言ってるじゃ、ぬぁっ!? ちょっ!? ぅえっ!?」
売り場の前に立ち止まってメイを説得することに意識を費やしていた俺だったのだが、それに成功したことへの歓喜に浸っていると、不意に左手が思い切り引かれた。それはメイが手を握っていたことなどとは比べ物にならない力強さであり、意識をメイにだけ向けていた俺は、その姿勢を保つことができなくなってしまう。
それでも転ばないように、何とかたたらを踏んで姿勢を戻し、視線を前に向けると俺の左手を握っているのは志穂だった。志穂は、俺がついてくることに対してそんなに強い関心を持っている様子はなかったというのに、いったいどうしたというのだろうか。
志穂に手をひかれてしまっては、メイに対するときとは異なり、説得するための時間すら与えられず、また論理的なお話が通じることもないのである。せっかくメイを説得することに成功したというのに、どうして志穂がここにきて心変わりしたというのだ。
「ゆっきぃもいっしょにくるんだから、はやくいこうよ。ね?」
「お、俺は行かないって、言ってるじゃない! 人の話はちゃんと聞きなさいって、いつも言ってるでしょ!」
「え~、でも、いくんでしょ~?」
ダメだこいつ、話が通じない。志穂の頭の中には、どうしてか俺が売り場の中までいっしょに行くとしっかりインプットされてしまっているようであり、それを覆すことは、時間をかければ出来るかもしれないが、即座にひっくり返すことはできないのである。つまりこの状況を打開するためには、さっきまでは論理的解決が望めていたのだが、そのパワーに対してパワーで抗うしかなくなっているわけで、しかし俺のパワーでは志穂に抗うことはできないのである。
「志穂、放せ」
「でも、いくんでしょ?」
「行かないもん! そんなとこ、行かないもん! 姐さん、助けてよ!」
「別に、それほど問題があるわけではないだろう、ただの付き添いなのだから。私だって、父の買い物に同行することくらいあるぞ」
「それとこれとは話が違うんじゃね? だって俺、お父さんじゃないじゃん? っていうか、これってむしろお父さんが娘の買い物に同行してるっていう方が状況として近いっていうか、志穂! 俺が姐さんとおしゃべりしてるときくらいは引っ張るの止めて! 話に集中できないじゃない!」
「ほぇ? ごめんなさい?」
「とりあえず、俺が姐さんと話し終わるまでは引っ張らないでくれ。話し終わったら引っ張っていいから、今は少しだけ待ってくれな」
「うん、わかった~」
「で、姐さん、この状況を『お父さんの買い物についていく娘』っていうのと構図的に同一視するのは違うんじゃないかって話なんだけど、やっぱり男としては、いや、男の子としては、こういうところに入るのには抵抗があるんですよ。なんていうかね、ほら、分からないかなぁ、こういう男の子的に恥ずかしいものがいっぱいあるところには入りにくいとは思いません? ほら、女の子もさ、あるでしょ、入りにくいところ。具体的にどういうとこかは分からないけどさ、あるでしょ?」
「水着が恥ずかしいのか? 確かに余り布面積の少ないものは恥ずかしいと思うかもしれないが、しかし誰が着ているわけでもあるまい。今はただの布ではないか。それに三木も、夏になれば海に行くだろう。海に行ったら、それこそ水着を着ている女性がたくさんいるではないか。それも恥ずかしいのか?」
「そう言われちゃうと、そうなんだけどさ。でもあの、着られていたらそれは一つの光景になるんだけど、でもこう、誰も着てないのだと、何ていうか、どういう人が着るか分からないから逆にエロいっていうかさ。なんか、変に想像力掻きたてられて恥ずかしいっていうか、そういう風に想像しちゃう自分が恥ずかしいっていうか、あぁ…、なに言ってるか分からなくなってきた……」
「男子にとって、女子が水着を着ているのは、光景として無条件にうれしいものではないのか? 風紀の後輩がそう言っていたのだが」
「そいついろいろ素直すぎない!?」
「三木も、少なからずうれしいのではないのか?」
「う、うれしいかうれしくないかで言ったら、うれしいですけど……」
「それならば、うれしいことだというのに、どうしてここに入ることをそこまで拒むんだ。男子が水着を着ている女子の存在がうれしいということを真とすると、論理的におかしいだろう」
「全ての事象を三段論法的に解決できると思わないで! 仮定1が真で仮定2が真だからって、仮定3も真になるとは限らないのが人間ってものでしょ! [男は女子の水着が好き]、[男は水着のあるところなら行きたい]、[俺は男]がみんな真でも、[俺は女性用水着売り場に行きたい]にはつながらないの! 理論計算的にはつながるけど…、でも行きたいわけじゃないの!」
「しかし、恥ずかしいから遠慮したいという気持ちはあるだろうが、しかし絶対に行きたくない、というわけでもないのだろう?」
「…、まぁ、興味は…、なくはない、みたいな……? あ、あくまでも、学術的な好奇心、だけどね?」
「それならば入ればいいではないか、せっかくここまで来たのだから。私たちの付き添いという形で入れば、そこまで恥ずかしくはないだろう」
「確かに一人で突貫するのに比べたらマシかもしれないけど、でもやっぱりちょっと……」
「うじうじと男らしくないぞ、三木。来るなら来る、来ないなら来ない。男らしくスパッとはっきり決めないか」
「うぅ…、でも……」
「ゆっきぃ、おはなしおわった~?」
「うぉ!? 応える前に引っ張るなよ!!」
「でもおわったっぽかったし」
「それは俺が決めることで、お前が決めることじゃないでしょ! っていうか、確認終わるまで引っ張らないの!」
「え~、でも~」
「え~、でも~、じゃねぇよ! っつぅか、なんで誰も止めてくれないの! 誰か一人くらい、そこで待っててね、とか言うポジションの人間はいないの!? そこのポジションは姐さんの係じゃなかったの!?」
「いや、私は、それくらいのことならば、別に問題行動というわけでもないだろうし、構わないのだが。いっしょに売り場に入ったからといって着替えをのぞかれるわけでもあるまい」
「あれ~? 最近、少し恥ずかしがり屋方面でキャラ立ててくみたいなそぶり見せてなかったっけ……? 俺の勘違いだったの?」
「水着を買っているところを見られるのが恥ずかしいのか? 私はまったく気にしないのだが……。どうせ旅行に行ったら見られるものではないか。しかし、布面積の異常に少ない、破廉恥な水着を買わせようとしていたりするのならば…、私も動かざるを得ないだろうな」
「そんなことしないよ! …、しないからね?」
「なぜ少し迷った。まさかそう言っておいて私を油断させ、私に破廉恥な水着を買わせるつもりなのか? そういうことならば、三木にはそこで待っていてもらうことになるが……」
「やらないって、やらない、やりません。俺が行っても危険なことも破廉恥なことも、何にも起こらんわ」
「それならば何の問題もあるまい。来ればいい」
「…、行くよ! 行きますよ! 行けばいいんでしょ! もう…、みんな嫌い!!」
そして俺は、観念して突っ張っていた足の力を抜いた。志穂の引っ張る力に身を任せて、俺はついにその売り場へと足を踏み入れたのだった。いや、踏み入れてしまったのだった。
「ゆ、幸久君……?」
「あぁ、霧子…、さっき、みんなと俺の間に割って入って、止めてくれてもよかったんだぜ?」
「ご、ごめんね…、でも、あたし、あれはちょっと、ムリかも……。割って入るのは、ムリ……」
「だよな、分かってた、分かってたよ、霧子。姐さんには口では勝てないし、志穂にはパワーでは勝てないし、無理だって、はは、無理無理」
「にゅぅ…、ごめんね、幸久君……」
困っている俺の手助けを出来なかったことがそんなに申し訳ないのか、霧子はしょんぼりとうなだれてしまった。髪を撫でて慰めてやりたいのは山々だが、しかし俺の両手は右をメイに、左を志穂に取られてしまっているので、今それをすることは出来ない。
くっ…、俺にもう一本手があったらよかったのに……。なんで俺の手は二本しかないんだ……。
「ゆっきぃ、やっぱりいくんだね~、メイメイのいったとおり!」
「もう行くしかないじゃん、って話だよ……。…、っていうか、メイの、言った通りって……?」
『これ、見せただけ』
メイはにっこりとほほ笑んで、今まですっかり背けていた携帯の画面をくるりと俺に向けた。その文字列の下には、一行開けてこう書かれていた。
『>幸久くん、素直じゃないね』
「…………。男に、二言はない……」
つまり、メイはそれを志穂に見せたのだ。俺には素直に「うん、分かった」と言っておきながら、そのあとすぐに、俺がメイを説得することに成功した喜びに浸っている隙を突いて打ち込んだそれを、志穂にこっそりと見せたのだ。それこそ、まるでないしょ話でもするかのように。
とんだ小悪魔がいたものだ。俺は天を仰ぎ、それから息を細く長く吐きだした。一本取られたわい! とカラカラ笑うことができるほど、俺の男っぷりは凄まじくない。