静かな放課後
「ねぇ、幸久君、どうしてまだ帰らないの?」
「ん~?」
「さっき帰りのホームルーム終わったんだし、帰ってもいいんじゃないの?」
「そうだな~」
「なにか用事があるの?」
「まぁ、ちょっとな~」
一日をのんびりと過ごし、いつの間にやら時は夕方、ホームルームも終わった教室に残っている人の数はそれほど多くなく、そしてその中の二人が、俺と霧子だった。
いつもだったら、ホームルームが終わったらすぐに帰路に着くわけであり、こうしていつまでものんびりとしているのはそこまで多いことではない。出来ることならばさっさと帰って、晩飯の仕込みとかいろいろ、やりたいこととかやらなくてはならないこととか、それなりの数のタスクが俺の手元にはあるのだ。
しかしそれでも、今日の俺はこうして教室でゆっくりと時を過ごすことを選択しているのである。実は今日は、一つ教室に残ってやらなくてはならないことがあるのだが、それはまだ時ではないので、今は何もしないをしているしかない。
というか、俺はすることがあるから残っているのだが、しかし霧子は決してそうではないわけで、帰りたいのならば先に帰ってもいいんだけどなぁ、と思うばかりである。
「幸久君、帰らないの?」
「霧子、帰りたいなら、帰ってもいいんだぞ? 俺はやることあるから残ってるけど、霧子は別に用事ないんだからさ、無駄に残ってることないんだからな」
俺がただ机に突っ伏してぐてっ、としている横で、霧子は既にその主が帰宅してしまったメイ(なにかしら用事があるようで、ホームルームの終了と同時に帰った)の席に座り、頬杖を突いてにゅ~にゅ~と言っている。俺は目的を持って残っているのだが、しかし今現在はやることがなく意味なく突っ伏しているだけで、霧子に至ってはなぜこうしていつまでも教室に残っているのかも知らず、本当に無為ににゅ~にゅ~言っているのだ。
こんなところでにゅっ、とさせているくらいなら、家に帰らせて勉強をさせるか、ゆっくり休むかさせておいた方がまだマシというものだ。ちなみに霧子をゆっくり休ませてやると、翌日の朝に俺がそれを起こすときの手間が少なからず軽減されるのだ。
「にゅ…、幸久君、あたしがいたら、じゃま……?」
「いや、邪魔とかじゃなくてさ、霧子は帰って自分の好きなように時間を使っていいんだぞ、ってこと。無理して俺の用事に付き合わなくたっていいんだからさ」
「幸久君の用事って、今日じゃないとダメなの?」
「いや、そんなことないけど。今日なんじゃないかな、とは思うけど、確かに今日だっていう確信はないし。もしかしたら明日かもしれないし、明後日かもしれない。でも、たぶん今日だと思うんだ」
「んと…、どういうこと……?」
「まぁ、とりあえず待ってみて、今日じゃなかったら帰るってことだよ。だから今日待ってるのは無駄になるかもしれないし、もしかしたら無駄にならないかもしれない」
「じゃあ、その用事って、幸久君一人じゃないとダメなの?」
「いや、別に。霧子がいたって問題ないし、逆に霧子がいなくても出来ないことじゃない。だから霧子は残っててもいいし、帰ってもいいんだぞ」
現に、俺がここに残っている理由は、言ってしまえば用事があるような気がするから、という非常に曖昧な理由でしかないわけで、そんなもので霧子の時間を拘束してしまうのはあまりよくないと思うのだ。霧子が自分からそうしたいというのであれば話は別かもしれないが、結局はだらだらと家に帰らずに教室に居座り続けているだけなのだから。
「にゅ…、幸久君は…、あたしがいっしょに残ってたらうれしい?」
「まぁ、そうだな、うん。もうじきにみんな帰っちゃうだろうし、一人で残ってるよりも誰か一緒にいてくれるやつがいた方がうれしいよ。霧子がいっしょに残っててくれるって言うなら、うれしいぜ」
「にゅぅ、そっかぁ。じゃあ、あたしも幸久君といっしょに残ってるよ。それで用事を済ませて、いっしょに帰ろ?」
「いいのか? 残ってて。なにかやることあったりしないのか?」
「うん、平気だよ。やることは帰ってからでも出来るし、宿題は今やっちゃえばいいんだもん」
「あぁ…、そうだな、宿題でもやるか。…、宿題って、なにかあったっけか?」
「えと、今日は、なかったかも?」
「はい、やることなくなった~」
「にゅ~、なくなっちゃった~」
そして霧子は俺にならって机にぐてぇ、っと突っ伏したのだった。二人揃って、というか並んで突っ伏している姿は、教室内にわずかに残っている人の目にはさぞかしシュールに映るのではないだろうか。あるいは、みんな各々に目的を持って教室に残っているのだろうし、俺たちのことを注視しているやつなんていうのは、一人もいないかもしれないが。
「やることないから、帰ってもいいんだぞ?」
「いい、幸久君といっしょに帰るから」
「そうかい、物好きな娘ね、この娘ってば」
「いいんだもん、暇だから」
「おにいちゃん離れしような、霧子」
「にゅ…、幸久君、あたしのこと、イヤになっちゃったの……?」
「ウソだよ~、霧子大好きだよ~」
机に突っ伏したまま、お互いにくぐもった声でバカみたいな会話を展開していく。この光景、シュールを通り越して哀れを誘うのではないだろうか。
「それじゃあ、霧子がどうしたらおにいちゃん離れすることができるか、話し合おうか、霧子」
そしていつまでも突っ伏しているわけにはいかん! と心を意味もなく奮い立たせた俺は、机から身体を起こしキッ、と前を見据えた。時計は終業から一時間ほど経った時間を指している。
「あ、あたしのこと……?」
俺が身体を起こした気配を察してか、あるいはいつまでもメイの机に伏せているわけにはいかない、と思ったのか、霧子は俺に続いて机から身体を起こす。変な風に突っ伏してしまったのだろうか、その前髪が少しだけめくれ上がってしまっているようだった。
「そうだ、俺は霧子のことは大好きだが、しかし霧子には立派に独り立ちできる女の子になってもらいたい。そのためにどうしたらいいか、といえば、まずは俺の庇護の下から離れて、一人で自分の世話ができるようになることが必要なんだ、分かるな」
「わ、分かるよ!」
「決して霧子のことが嫌いになったとか、イヤになったとかじゃないから、俺の思いを勘違いしないようにな。まかり間違っても、自分は見捨てられたとか思って悲しい気持ちになったり、俺が霧子を捨てたんだとか言って俺のことを嫌いになったりしないように」
「にゅ、分かったよ!」
「いい子だなぁ、霧子、よしよしよしよし~!」
ポニテがブンッ、と振りまわされるくらい勢いよく頷いた霧子のいい返事に俺は感銘を受け、顔を軽く横に動かしてそのしなる鞭のような攻撃を回避してから、ポンッ、と頭に手を置いて思い切り撫でくり回してやるのだった。わしわしと撫でる俺の手の動きに合わせて、霧子の頭が前後にかるく揺すられている。
「んぁ~、にゅ~、幸久君~、頭が~」
「おっと…、すまんすまん、可愛がり過ぎたみたいだな。気をつけないと……」
気を取り直して、
「霧子がどうしたら独り立ちできるか、ってことだ」
話を再開しようではないか。
「俺が思うに、やっぱり、自分で自分を管理するのが必要だと思うから、朝は自分で起きる、っていうのが、まず有効だと思うんだよな。霧子はどう思う?」
「朝は、えと、自分で起きるのは大変だから…、幸久君に起こしてほしい、かも……。幸久君、やさしく起こしてくれるから、いつも気持ちよく起きられるんだよ?」
「そう言ってくれるのはうれしいんだけど、今はどうしたら霧子を一人立ちさせられるかって話だ。朝起きるのは大変とか、そういう話をしてるんじゃないんだぞ。霧子も、独り立ちしなきゃ! って気持ちで話に参加してくれないとダメじゃないか」
「にゅ…、ごめんなさい」
「やっぱり一人で起きるのは重要だよな。朝はしゃきっとしないと、ダメだろ」
「でも、どうやったら一人でも起きられるのかな……。目覚まし時計とかじゃ、寝ながら止めちゃうから、起きられないし」
「もっと気持ちが切迫するような目覚まし時計なら目が覚めるんじゃないか?」
「気持ちが、切迫? にゅ?」
「たとえばさぁ、そうだな…、時間に連動してベッドが起きていって目覚ましの時間になったら床に落とされるとか、目覚ましボイスに自分の誰にも知られたくない秘密を録音しといて時間になったら大音量で流れるようにしとくとか、時間がきたらアームが一枚ずつ服が脱がしていくとか、そういうアレだよ」
「それは、にゅぅ…、ちょっとヤかも」
「え~? じゃあ他にどうすれば一人で起きられるんだよ。俺は、もう思いつかないぞ」
「あたしも、思いつかないよぉ」
霧子がどうやったら一人で起きられるようになるか、という問題。それは過去に何度も立ち向かい、そして敗北してきた戦いである。並大抵のことだったら、大方試しているだろう、と自信を持って言うことができるくらいには、俺はその問題に対して長いこと向き合ってきた。
しかし、今のところそれに明確な解法が与えられたことはなく、「どうしようもない」という諦めのスタンスがその常である。今回出したアイデアも、実のところ過去に試そうとして、しかし仕掛けの複雑さの問題とか、大規模すぎるギミックだったとか、そもそも霧子が秘密を吹き込むことを拒んだとか、諸々の理由で挫折したものなのである。
今は単なる思考実験でしかないのだから、普通に考えて実現することができないような非現実的な案を提出してもいいのかもしれないが、しかしもともと無理だろうなぁ、と思っている手前、そんな斬新なアイデアがポンポンと湯水のように湧き出てくることはないのだ。
「っていうか、一つ聞きたいんだけど、俺に起こされるのって恥ずかしくないのか?」
「恥ずかしく、なくはないけど、どうして?」
「そうだよな、寝起きの一番無防備なとこを見られるわけだし、恥ずかしくないはずないよな。その恥ずかしさは、起きる原動力にならないのか?」
「にゅ…、でも、幸久君になら、見られてもいいし」
「そうやって俺のことを大好きでいてくれるのは、おにいちゃんとしてうれしいけどさ…、そうだ、俺以外の男に、そういうの見られるのは、イヤだよな?」
「うん、ヤダよ」
「それならさ、彼氏をつくってさ、そいつに起こしに来てもらえば、恥ずかしくて起きるようになるんじゃないか? 見られたくないだろ、そういう姿は、やっぱり」
「彼氏って、恋人ってこと?」
「そうそう、霧子に言いよってくるゴミは、相変わらずいるんだろ? そういうやつで、俺が認めるくらいいい感じの、霧子にふさわしいのと付き合うことにして、朝は起こしに来てもらうんだ。そうすれば……」
そうすれば…、と、その光景を想像し、想像し…、想像、し……。
「幸久君?」
「…、駄目だ! 霧子に彼氏なんて早すぎる!! っていうか、ゴミはどこまでいってもゴミで、ゴミに霧子をやることはできない!!」
「ゆ、幸久君!?」
その光景を頭の中に描こうとして、俺は手に持った絵筆を折り砕いた。その光景を頭の中に映し出そうとして、俺はそこに置かれたプロジェクターを破壊した。
霧子に彼氏を、なんてことを思いついた俺自身を抹殺するように、俺は机の天板にゴッ! ゴッ! と額を何度も、力の限り思い切り打ち付けた。静かな教室が、止むことなく何度も繰り返される俺の頭突き音によって一気に騒然としたものに変わる。各々がそれぞれに行なっていた何らかの作業も完全に止まり、教室に残っている全員があたふたと俺たちの下に集まってくるのが分かった。
五回から数えるのを止めたが、しばらくそれを続けていたら、ふと自分がずいぶんと落ち着いたことに気が付いた。きっと天板にかすかににじむ血液と引き換えにして、気の迷いが消え去ったのだろう。ついでに意識まで飛びそうだったが、そこはなんとか守りきることができたようだった。
「霧子は、一人立ちなんて、しなくていいから」
「だ、だい、じょぶ……?」
「ぜんぜん問題ない。それより、霧子は、一人立ちなんてしなくていいからな」
「で、でも…、幸久君にいっぱい迷惑かけて」
「迷惑じゃないから。気にしなくていいから、一人立ちはしなくていい。朝は毎日俺が起こしに行ってやるし、学校にも毎日連れてってやるし、帰りもいっしょに帰ってやる。だから、一人立ちは、しなくていい」
「にゅ…、にゅん……」
俺の言葉に鬼気迫るものを感じたのか、霧子はなにかに圧倒されるような感じで、コクコクと頷いた。霧子に彼氏なんて必要ないんだ。霧子のことは、おにいちゃんが一生守ってやるんだ。それでいいんだ。
やはり霧子に言いよってくるゴミは、きっちり始末した方がいいのかもしれないな、うん。もちろん、霧子には知られないように秘密裏に、だが。