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Prism Hearts  作者: 霧原真
第三章
48/222

Interlude01 思えど遠く、あの日はすぎ去りぬ

てくてくと、天方家からの帰り道。

「なぁ、広太」

俺は頭の後ろで手を組みながら、空にきらきらと瞬く星を眺めつつ徒歩一分強の我が家への道のりを進んでいた。晴子さんのおいしい料理をお腹いっぱい食べさせてもらって、霧子と思う存分戯れて、心も体も満足しきった俺だったが、一つ、やるべきことが残っていた。

それは、俺にしてみたら少し憂鬱なことで、できることならばしないでおきたいことだった。やらなくてはいけないこと、それは広太へお願いをすること、もとい、命令を言いつけることだった。

「一つ頼みがあるんだけどさ」

だらだらと歩いている俺の後ろには、三歩離れて控えるようについてくる広太がいる。それは確かめるまでもないことで、その距離感は物ごころついたときから変わらないものだ。

それ自体に俺が少なからず違和感を覚えるようになったのは、中学に入学したころだろうか。ずっと兄弟のようにいっしょに、それこそ何もかもいっしょの環境で育ってきた広太が、俺たち二人が違う世界を生きるなんて考えることすらしなかった広太が、入学してすぐの実力試験で学年トップの点数、というか取れる限り最大限、つまりは全教科満点の点数を叩きだし、一位と横に冠されて順位表の一番上に名前を書き出された。

今まで、テストと名のつくものは百点を取れて当たり前とすら思っていた。広太と俺はいつもいつでも共に百点で、それ以外の点数を取ったことはなかった。だから俺と広太は同じなんだと思っていた。いつでもいっしょでいいんだと、当然のようにそう思っていた。

また、小学校のころはテストの点数によってここまで明確に格差が示されたことはなかった。それも俺の認識を閉じたものにしていたのかもしれない。

「聞いてもらっても、いいか?」

俺は、決して悪い点数ではなかったが、それでも広太よりは明らかに低い点数で、順位表の下の方におまけ程度に名前が書かれた程度だった。しかしその差は明らかだった。俺と広太は確かに小学校のころはいっしょに百点だったが、しかしそこに秘められているポテンシャルは、点数の通りに同一というわけではなかったのだ。

それを見た瞬間に俺は、今ここにある状況が当然ではないということに、直感的に感づいたのかもしれない。

俺は、明確に広太よりも劣っている。それは、テストの点数だけの話ではない。種々鑑みるに、客観的な結果として、それは俺の目の前に降ってわいたのだ。いや、あるいは、ずっと前から違和感には気づいていて、それでもそれに気付きたくなくて、目を反らし続けていたのかもしれない。

言っておくが、広太にテストの点数で負けたのが悔しかったとか、そういうことを言っているわけではない。もちろん、まったく悔しくなかったというわけではない。普通の兄弟の間でもあるような、対抗心みたいな一般的な感情がなかったと否定することはしたくないのだ。

しかしそれよりも強く思ったのは、広太はすごい、という、ただそれだけの純粋な思いだった。そう、広太はすごいのだ。俺などとは比べ物にならないほどのあらゆる可能性がその中には秘められている、宝石箱のような、そんなやつなのだ。

それまでの俺は、その表面に施された細工の巧妙さに心を奪われて、鍵を開くことをしようとしていなかったのだ。箱と鍵を、ともにその手に収めておきながら、戸棚の奥深くに鍵を押し込んで、今の今まで存在を忘却し続けていたのである。

広太の才能を、発揮させてやらなくてはならない。専属執事という名の、ただの俺の弟分で終わらせてはならない。俺はそのとき、気づいたときには自分に与えられていて、今の今まで疑うことを知らなかった、自分の世界というものに疑問を抱いたのだった。

「なんでしょう、幸久様」

それから俺は考えた。たかが中学生の浅知恵ではあるが、しかしそれでも精いっぱい考えた。

広太には、俺と同じ環境が与えられるだけではダメだ。それではその無限の可能性の一端をも開くことができないかもしれない。それを開花させるためには、やはり環境そのものを変えなくてはならないのだ。

いろいろ調べて回って、私立の中学校というものがあることを知った。そこでは今いる公立の中学校とは比べ物にならないほどの高度な教育が、より高密度に行なわれているらしい。小学校のころから塾などというものに通って鍛え抜かれ、テストによって選抜された頭のいいやつらばかりが集まった、高い水準の学習環境がそこにはあるというではないか。

俺は、そこに広太を転校させようと思った。広太には内緒で、おばさんとおじさんにもその話をして聞かせた。広太はすごいんだ、俺よりもずっとすごいんだ、そんな広太がこんなところでぐだぐだしていていいはずがない、もっといい環境で勉強させてやればあいつは何にでもなれるんだ、と、それまでにないほど熱弁をふるって俺はその案をおじさんたちに献上した。

しかし、それが聞き入れられることはなかった。命令だ、と言っても、聞き入れてはもらえなかった。お願いだ、と言っても、聞き入れてはもらえなかった。

「なんでもおっしゃってください、必ずやそのご期待に応えてみせましょう」

俺では、おじさんもおばさんも説得することはできなかった。あれだけ有能な広太を従えておきながら、その程度のことすらできなかった。大事な友に、大好きな弟に、最高の配下に、自分の思いを伝えてやることすらできなかった。そのとき俺は、己の無力というものを、初めて明確に意識した。

それから三年間、俺はいろいろと考えたり、いろいろと画策したり、いろいろとたくらんだりしたが、けっきょくおじさんたちの首を縦に振らせることはできず、何も成し遂げずに中学時代を過ごしただけだった。楽しいだけの、何も前に進まない、考えようによっては無為な三年だったかもしれない。

「それが私がここに、幸久様のお傍に置いていただける意味、というものですから」

そして再び、俺たちの人生に大きな岐路が訪れた。三年前にはあることすら知らずに選びそびれた「受験」という選択肢が、ほぼ一択といった体で俺たちの前に現れたのだ。

普通なら、受験に対することを憂鬱に思ったりするかもしれないが、しかし俺は違っていた。俺は分かっていたのだ。これでおじさんたちも広太が俺とは違う、もっとレベルの高くて全国的に有名で立派な高校を受験することに同意せざるを得ない、ということを。だから俺は、受験シーズンの到来を今か今かと待ち続けた。

しかし、訪れたのは俺の合格という事実だけだった。

広太はしっかりと受験をしたはずだった。俺が用意した志願表は全てきっちり申し込み、受験の当日には俺が現地までいっしょに行って、きっちり送り出してやった。当然、受ける高校受ける高校、万歳三唱で広太を迎え入れ、庄司の家には毎日毎日どこかしらの高校から合格通知が舞い込んでいた。

広太は、全国各地の有名な高校を、上からなぞるように片っ端から申し込んだのに、こうして俺の期待通りの完璧な結果を出した。もちろんこのまま、俺の期待の通り、日本一の高校に送り出す、はずだった。少なくとも俺は、そうなるだろうと思っていた。

「そのためにこそ、私はここにこうして存在しているのです」

しかし、広太は最後の最後で俺の期待を裏切った。

小さな山のように積み上げられた十数通の合格通知を前において、その日広太は俺をリビングに呼んだ。どこに行くか決めたんだろうと高をくくって、俺はそこへと足を運んだ。

俺たちは、向かい合って座った。どこの高校も最高の奨学金を提示し、授業料から寮費から何から何まで学校が持つと言ってきた高校も片手では足りないほどだった。広太はどこの高校に進むのだろうか、そこではどんな勉強をするのだろうか、広太の将来はどれほど輝かしいものになるだろうか。俺はそんな、心躍る気分でその場へと赴いたのだった。

『高校、決めたか?』

俺は、座布団二枚ほどの距離を置いて座る広太に、世間話のような気軽さでそう言った。

『選び放題だからな、ちゃんとよさそうなところを選ぶんだぞ』

広太の表情の意味に、その瞬間はまだ気づいていなかったのだ。

不意に、広太はぺたっ、と両手を床に突いた。そして、それから、深々と頭を下げ、額を床に擦りつけて、きっぱりと言った。

『幸久様、御無礼、ご容赦ください』、と。

俺たちの間に積みあげられた合格通知たちが、広太の手元に引き寄せられた。広太が背中の後ろから何か大きな透明な箱を取り出して、その横に置いた。

それが何なのか、そしてこれから何が行なわれるのか、俺はとっさに把握することができなかった。把握することができなかったから、なにもせずにただ唖然と、茫然とその様を見ていることしかできなかったのだ。

そして広太は一通、一番上の合格通知を手に取って、それからそれを箱の中に差し入れた。何かが高速回転するような音に続いて、紙が斬り刻まれる音がリビングに鳴り響き、透明な箱の中に、白い吹雪が舞った。

俺は、声を出すことができなかった。

それが何なのか、理解することすらできなかった。

広太は機械的な動作で、二通目、三通目と、続けざまに箱に合格通知を差し入れ、絶えることなく真っ白な雪を積もらせていった。

四通目の途中までが細切れになったとき、俺はようやく状況を理解した。とっさに、広太を殴り飛ばした。俺が広太に手をあげたのは、それが初めてのことだった。

合格通知の山が崩れ、広太が床に仰向けに倒れ、そして合格通知はシュレッダーに飲み込まれていき、ただの紙くずへとその姿を変えたのだった。

そのとき俺が広太に何を言ったのか、明確には覚えていない。ただもう、思いつくまま悪しざまに、罵倒の言葉を投げつけただろうことしか、思いだせない。

そして、それに応えるように発せられた広太の言葉を、俺は一生忘れることができないだろう。

広太は、当然のように言った。

『こんなものは紙くずに過ぎません。私は、紙くずを紙くずに還しているだけであり、そこに悔恨はありません。ただあるのは、幸久様への裏切りを働くことへの悔やみのみであり、それ以外には何もありません。これが許されることではないと知ってはおりますが、こうすることでしか、幸久様へ私の覚悟と思いをお伝えすることはできないと考え、蛮行と知りながら、こうさせていただくことをお許しください。幸久様への裏切りを、どれほどの報いを持ってすれば雪ぐことができるのか、私は知りません。あるいは、死を持ってしかそれを雪ぐことが出来ぬというのならば、今すぐここで腹を切りましょう。どうぞ、これを全て紙くずへと還したのち、如何様にも処罰の方、お決めになってくださいませ。私は、幸久様の下に存在する一個の家具に相違ありませんので』

すらすらと、まるで書いてある言葉を読むように。

広太は淀みも、躊躇もなく、そう言ってのけたのだ。

俺は、その瞬間にはもうキレていたと思う。

広太の手がすべての合格通知をシュレッダーに飲み込ませるのを見届けてから、俺は広太をその場に立たせた。俺は、シュレッダーを思い切り、八つ当たりで蹴り飛ばした。ふたがはじけ飛び、中に溜まった紙吹雪が派手に舞い散り、リビングの床を白く染めた。

そして俺は、直立不動の広太を殴った。何度も殴った。

『ふざけるな!』

『お前のために!』

『俺のためは、もういいんだよ!』

何度も何度も、言葉とともに、思いとともに、右も左も関係なく、全力を込めて広太の身体に拳を打ち込み続けた。三発目で口の中が切れたのか、口の端から赤い血が一筋垂れた。七発目のころには足にきたのか、床に膝を突いた。そのまま押し倒して馬乗りになって殴り続けた。

広太は、一切抵抗しなかった。ただ殴られるまま、罵られるまま、全てを受け入れていた。ちょうどシュレッダーにかけられた合格通知の枚数分だけ殴って、俺は広太を解放した。両拳からはうっすらと血がにじんでいた。

広太は言う。

ぼこぼこに打ちのめされたまま、しかし痛みに涙を流すことも、苦しみに呻きを上げることもせず、スッ、と立ち上がると、言ったのである。

『幸久様のお心遣い、痛み入ります。しかし私は、高校へは進みません。私はただ、庄司のものとして三木に尽くすのみです。それ以外に、生きる道など、訪れる未来など、ありはしないですし、望みもしないのです。私の望みは、幸久様のお傍にいることのみです。それを果たすことができないならば、この命、それこそ紙くずと変わりません。どうか、どうかお願いいたします、私を遠くへやろうとなど、幸久様のお傍からいられなくしようとなど、お考えにならないでください……。どうか、それだけは、ご勘弁を願います。そして許されるならば、これからも広太として、幸久様のためにすべてを投げうち尽くすことを、お許しくださいませ……』

それから広太は、ようやく一粒だけ、涙を零した。

そして俺は、左の拳を壁に思い切り、力の限り打ち付けた。一瞬の後、小指に鋭い痛みが走り、俺はそれが折れたことを悟った。

それが、やりすぎたことへの謝罪の代わりなのか、広太へのいら立ちなのか、己への憤りなのか、今となっては思い出すことができない。

「今度さ、休みあるじゃん、休み」

血をだらだらと流しながら全身を腫らせた広太と左の小指を折った上に拳から血を流している俺が、シュレッダーを吹き飛ばしてリビング中を紙吹雪で埋め尽くしているのを発見したおばさんは、卒倒しそうになりながらもとりあえず救急車を呼んで俺たちをそろって病院に搬送したのだった。いったい何があったのかと医師に問われたが、二人揃って「兄弟喧嘩です」の一点張りで押し通した。たぶんあれは、兄弟喧嘩で間違いないだろうし、少なくともウソはついていないと思う。

あれが、俺と広太の、生涯唯一の兄弟喧嘩である。

「去年と同じでさ、旅行行くから宿、取ってほしいんだ。まだどこに行くかも何人で行くかも決まってないんだけど、頼めるか?」

しかし俺は、あれだけのことがあったのだが、まだ広太のことを諦めていない。広太は俺の下で専属執事などしていないで、もっとしっかりとした教育を受けて立派な人になるべきなのだ。

というか、もはや使用人と主とか、そういう関係自体が旧時代的なのだ。庄司の人たちが三木の家に縛られている必然性は、三木に主たる資質がなくなった以上、まったくと言っていいほど存在しないのであり、いつまでも滅私奉公なんてさせている方がおかしい。

それともあるいは、俺が知らないだけで、なにか庄司が三木についていなくてはならない理由があるのだろうか。永年のご恩返し、などという説明では、少なくとも俺は納得できない。

「はい、もちろんです。幸久様のご旅行が素晴らしきものになるよう、尽力させていただきます」

「助かるわ、広太。それで、今年は、庄司の家のゴールデンウィークはどうなってるんだ?」

「申し訳ございません、今年も本家で集まらなくてはならない用事がございまして、幸久様にはご不便をおかけするとは承知の上なのですが、数日のお暇を頂戴したく存じ上げます」

「そうか、今年はいっしょに行ければ、って思ったんだけど、まぁ、本家で集まれって言うなら仕方ないか」

「はい、本当に申し訳ございません、幸久様」

「別にいいって、気にすんな」

庄司の人たちが大好きだ。おじさんも、おばさんも、広太も、美佳ちゃんも、みんな好きだ。だからこそ、俺のことには囚われず、みんな自由に生きてほしい。自分の人生を歩んでほしい。だって俺は、みんなのことを使用人ではなく本当の家族だと思っているから。

家族の幸せを思うことが、願うことが、祈ることが、まさか罪悪であるとは言われまい。俺は、主でなくてもかまわない。幸久様でなくて、かまわないのだ。

「帰ったら、今日はさっさと寝るか」

「はい、それではすぐにお風呂を沸かさせていただきますので、ごゆっくりなさってください」

「…、広太、今日はお前、先に入っていいぞ、風呂」

「いえ、私は幸久様の後にいただきますので」

「いいから、たまには俺の言うとおりにしろって。今日はそういう気分なんだよ」

「…、了解、いたしました。それでは、失礼ではありますが、そのようにさせていただきます」

「そうそう、たまにはさ、兄ちゃんの言う通りのしとくもんだぜ」

「はい、とくと心得ました、幸久様」

見上げれば、空にはきらきらと、星が光っている。

それはとても気楽なように見えて、きっとあんな高いところから地上を見たら、俺の悩みなんてちっぽけに見えるのかもしれない、と俺はぼんやり考えていた。

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