眠るということ、起こすということ
掛け布団代わりの霧子の髪に触ったり匂いを嗅いでいるうちに、なんだか分からないまま俺は眠気の波に呑まれていたようで、次に意識を取り戻したのはゆさゆさと広太にその身を揺すられてからだった。
「幸久様、幸久様」
思ったよりも眠りが深かったのか、それとも睡眠の周期の問題か、俺は夢を見ることもなく遠くから聞こえてくるようにぼんやりとした広太の声に引かれて目を覚ます。うっすらと目を開けば、そこには俺の肩に手を置いてゆすっている広太がいるわけである。
いつの間にか顔にまでかかっていた髪の毛を、引っ張ってしまったりしまわないように気をつけてよけると、俺は霧子に軽くお礼を言ってから、ソファーから起きあがるのだった。
「お目覚めですね、幸久様。晴子さまのお料理の支度が間もなく整いますので、もう目を覚まされた方がよろしいかと思われます」
「あぁ…、ありがとな。あ~、なんか疲れ取れたな、なんでだろ……?」
「睡眠というものはそれだけで心を安らかにし、身体に休息を与えるものです。ずいぶん深い眠りについていらっしゃったようですので、おそらく、その効果もひとしおだったのでしょう」
「そうか…、俺はそんなに寝てたか……」
「はい、それはもう、ぐっすりとお休みでした」
「やっぱり、霧子効果、かな?」
ありがとうな、ともう一度言おうとして、しかし俺は気づいたのだった。さっきの一度目のお礼から、霧子の反応がないということに。
「にゅ~……、にゅ~……」
「あれ、寝てるのか、霧子」
「はい、霧子様はすぐにテレビを点けられたのですが、幸久様がお休みになってから数分もしないで、静かに寝息を立てていらっしゃいました」
「そうか…、霧子も起こしてやらないといけないか。でもその前に…、もうちょっとだけ、目が覚めるまでタイムな……」
大きな欠伸が、意図せずに俺の言葉の語尾を濁す。よく眠ることが出来た分だけ、そこからの復帰にはいつもよりもわずかではあるが時間を要するようだった。まったくベッドで寝るよりもソファーで寝る方が寝心地がいいとは、まったくあきれ果てた身体だ。
いや、というか、ここまであからさまに睡眠の深さに効影響を与えたのは、やはり霧子の髪布団なのではないだろうか。スプリングのヘタったソファーという悪条件でありながら俺をあそこまで深い眠りにいざなうとは、やはり侮れない……。そしてもう一つ大きな要素は、やはりずっと顔をうずめるように抱きかかえていた晴子さん愛用ぬいぐるみだろう。ぬいぐるみへと染み込んだ深い晴子さんの香りが、きっと俺の眠りを深いものにしたに違いないのだ。
「幸久様、もしも晴子さまのぬいぐるみを抱いていた方がよく眠れるのならば、私から一人譲っていただけるようにお願いさせていただきますが?」
「いや、そこまでじゃないって。別に、いつも家のベッドでは眠れてないってわけじゃないし」
「そうでしょうか? それならば、いいのですが……。しかし、睡眠は一日を仕切り直すための重要な儀式です。きちんと取れるに越したことはありませんから、必要なものがあればすべて取りそろえるべきです」
それが、幸久様のために必要だと思うからこそ、と広太は無駄に熱く力説しているが、しかし俺の今の自宅の睡眠環境はそこまでひどいものではない。少なくともしっかりとしたベッドがあって、二日に一回は広太が干しているふかふかした布団もあるし、枕だって綿が抜けてペラペラというわけではないのだ。
そこにないものを、あえて挙げるというのならば、それは今まさに俺の目の前にある霧子の髪と晴子さんのぬいぐるみなのだが、それはさすがに手に入れてはならない禁断のアイテムなのではないだろうか
「男が部屋にぬいぐるみ置いてるのってどうだよ。しかも枕元に鎮座してあるんだぞ。広太、お前は俺がそんなでもいいのか?」
「はい、問題はありません。そのような程度で幸久様のすばらしさが損なわれるということはありません。いえ、むしろそれくらいのかわいらしさも、一つのギャップとして魅力を際立させる要素となるかもしれません」
「お前…、俺をどこに連れていきたいんだ……。そんなギャップは、ただの意味のないギャップだぞ」
「近頃、ギャップ萌えというものが流行っていると、なにかのテレビでやっておりました。きっとそれです」
「広太、情報収集欲が旺盛なのは一向に構わないんだが、しかし、変な言葉を覚えるんじゃない」
「はっ、以後気をつけさせていただきます」
「…、ところで、萌えってどういう意味なんだ、広太。何かが萌え出づるのか?」
「申し訳ございません、私では、それを明確に謝りなく、かつ的確に説明する言葉がございません。今度までに、必ずや幸久様のご期待に添うことができるよう情報収集に努めさせていただきますので、今しばらく私に猶予をお与えください」
「あっ、いや、そこまでその情報を二ードしてない。別にそんなにがんばって調べたりしないでいいぞ。ちょっとした好奇心だから、気にするな」
「いえ、ちょっとした好奇心であれ、幸久様のご期待に添うことができないなど、許されることではありません。私はいかなる面で、幸久様の欲求を充足させるためにここにいるのです」
広太は本気の目でそう言うと、すぐにケイタイでネットに接続し、メイにも負けないほどの凄まじい速度でキーをタッチして検索を進めていった。ネットの示す情報がどの程度安心して信じることができるのかは分からないが、まぁ、広太がひどいガセを掴まされることもないだろう。
「まぁ、がんばれ、広太」
「お任せください、幸久様、この程度の調査、10分もかけません」
広太は、いつものやる気満々で、非常によろしい。よろしいのだが、それが微妙に間違った方向に発揮されるのはどうにかならないだろうか。いや、まぁ、滅多にそんなことはないのだが、下手にやる気に満ちている分それが外れてしまったときの惨事感がすさまじいのだ。
今回はおそらくそこまでではないだろうが、きっとまた何かおかしなことが起こるに違いないのだ。調査結果です、とかいって、寝る間を惜しんで仕事の合間を縫って書いたA4で百枚くらいのレポートが提出されたりしたら、おそらく俺は、意味もなく広太に無理を強いてしまったことへの罪悪感で潰されて死ぬだろう。
「適当にやれよ、適当に」
「はい、適切にやらせていただきます」
…、今、俺と広太の間で何かがすれ違った気がする。何がかは、分からないのだが。
「よし、霧子でも起こすか。広太は雪美さんの相手はもういいのか?」
「はい、雪美様は遊びへの熱がいったんクールダウンしたようで、今は晩の食事への楽しみの方が勝っているようです」
「あぁ、ほんとだ、スタンバイ完了だな」
雪美さんは、広太の言った通りに指をぐるぐると回すのをいつの間にか止めており、雪美さんの仕事であるテーブルのセッティングを完璧に済ませて自分の席に座り、箸を一本ずつ両手に持って精神統一をしているようだった。この食事前の精神統一は、食事をより楽しむことが出来るようにするための儀式である、とか、食事の支度をする晴子さんの邪魔をしないように己を律するための行動である、とか諸説あり、俺と晴子さんの間でしばしばその真意について議論が交わされ、そしてその論戦はいつも、結果的に最後は俺が晴子さんにシバかれて終わりという結末を迎えるのだ。
というかそもそも、別に雪美さんがいつもこうして精神統一をしているわけではなく、コップをチンチン叩いていたり手遊びしていたりもするわけで、実のところただの気まぐれなのではないか、という説が最近俺の中ではもっとも熱い。しかし、それも結局俺の想像でしかなく、もしかしたら説そのものが間違っている、という可能性も全くなくはないのだが。
「よし、俺は霧子を起こすから、広太は晴子さんの手伝いをできる範囲でしてくれ。出来ることがもしもなかったら、仕方ないからまた雪美さんと遊んでてくれ」
「はっ、了解しました。晴子様のお手伝いなど、ほとんど出来ないでしょうから、引き続き雪美様のお相手として雪美様の相手をさせていただきます」
「あぁ、そうしてくれ、頼むぞ」
そうして俺は広太に雪美さんの相手を再び頼み込むと、おそらく今この瞬間、最も難関なこのミッションをクリアするためににゅ~にゅ~と寝息を立てる霧子の横に寄り添うように座るのだった。息を吐くのに合わせて方が小さく上下していて、かなりぐっすりときているらしいことがよく分かった。
どうやって起こすのが一番楽だろうか、と考えて、今は可及的速やかに起こすことこそが求められるだろう、とひとりで納得して、俺は霧子の肩に軽く手を乗せるのだった。
「霧子、起きろよ~」
とりあえず、広太がさっき俺にしたように肩を揺すって
やり、まずはオーソドックスに起こしてみようと思うが、しかしそんなことで簡単に目を覚ましてくれるほど眠っている霧子は素直ないい子ではない。目を覚ましている霧子はあんなに素直ないい子だというのに、眠っているだけでこんな風になるとは、おにいちゃんは悲しいぞ、霧子。
まぁ、霧子の寝起きの悪さはもはや特徴の一つ、というかむしろチャームポイントといっていいくらいのあれなので、俺はずっと昔から気にするのはやめているのだがな。
「起きないとあれだぞ~。アレするぞ~」
「にゅ~…、んゅ……」
ソファーの上にわしゃっ、と広がっている髪の毛のうちの一房を手に取って、形のいい鼻のあたりをこちょこちょとくすぐってみる。
「へ…、ぷしゅん! …、にゅ~……」
「くしゃみ程度ではびくともしないとは…、さすが霧子、やるな。さて、次は……」
鼻がむずがゆくなったのか、ぼんやりと緩慢にそのあたりを払うように手を振る霧子だったが、俺がすぐにそれを止めてしまったので、むずむずさせているものがなくなったことに安心してまた安らかな寝息を立て始めてしまう。
まぁ、こんなことで起きるとは思っていないし、この程度で起こしてしまってはもったいないではないか。いつもならば、朝は出来るだけ早く霧子を起こさなくてはならないので効率だけを追い求めた味気のない起こし方をしなくてはならないが、しかし、今はそんなに時間的に切羽詰まっているわけではなく、余裕があるとすら言ってしまってもいい。
それならばこの機会に、いつもだったらできないようなことをしたくなるのが人情というものではないか。ゆっくりと時間をかけて、いつもならできないようなことをじっくりとやって眠る霧子を愛でると同時に、これからの霧子を起こす仕事をより効率的かつ芸術的にしていけるよう修練を積んでいかなくてはならないのだ。
さぁ、いまこそ、時間をたっぷり使って、霧子で、いや、霧子と遊ぼうではないか。なお、だからといって直接的なボディタッチはよろしくないので、それ以外の何らかの方法を選択しなくてはならないのである。踊り子さんに触れることは、許されないということだ。
「さぁて、何して遊ぼうかなぁ……」
俺は、ぐるりと周囲を見渡す。何か、霧子を起こすのに使えそうなものはないか、と探すためだ。
おそらくだが、エッチないたずらをしてしまえば、霧子はあっという間に目を覚ますだろう。しかし一人の紳士としてそんなことはしてはならないのであり、だからこそ日常に紛れこんでいる穏便な得物を用いることでそういう展開に発展させず、霧子を無事に起こすことが俺には要求されている。
眠り姫的な意味で、キスでも目を覚ましそうな感じはするのだが、しかしそれもしてはならない。高校生になってしまえば、常識としてその意味を理解しているわけであり、一度してしまえば小さな子どものときのようにお遊びでした、と済ますことはできないのだ。
霧子はかわいいと思うのだが、しかしだからといってキスの責任を取って結婚する、という覚悟までは、残念ながら今の俺にはない。少なくとも、俺一人の力で養っていけるようになって初めてそういうことが許されるのであって、軽はずみな行動をしてはならないのだ。
そういう軽はずみで衝動的な行動が多いから、学生結婚とかいってのぼせあがって、ほんの少ししてから現実に直面して、そしてシングルマザーが生まれるのだ。若いから勢いに身を任せて、とかそういう考え方は、愚かという他にないのである。
「幸久! 遊んでないでさっさと霧子を起こしなさいよ! もうご飯できるって言ってるでしょ!」
「す、すいません…、すぐに起こします……」
もう少し眠っている霧子と遊んでいたかったのだが、晴子さんにそう言われてしまっては仕方ない。もっと効率よく起こすことができるよう努力しなくてはならないだろう。
まぁ、テレビの前に座ってうたた寝している程度の眠りならば、朝ぐっすりと眠っている霧子を起こすよりもずっと楽だろうがな。長年霧子を起こし続けている職人の本気を見せてやることにしようじゃないか。