表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
Prism Hearts  作者: 霧原真
第三章
45/222

髪を切るとか切らないとか

二人で指をぐるぐるさせている雪美さんと広太の肩越しにキッチンで動き回る晴子さんを観察しながら、俺はソファーに寝転がっている。

しばしば雪美さんがトランポリンのように跳ねたり晴子さんが長時間寝転がったりしているので、若干スプリングがヘタってきている感があり、やけに体が沈みこんでいるような感じがするのだが、まぁ、そこまで問題があるわけではない。

「あぁ~、寝そうだ……」

今日は姐さんとの、解決策のない不毛な議論によってやけに疲労しているわけで、さっき広太に励まされたこともあって精神的には少し持ち直したのだが、しかし肉体的な疲労がなくなるわけではない。晴子さんからも邪魔しないようにしていろと言われたわけだし、少し寝てしまいたい気分だった。

「広太、俺は少し寝るぞ」

「はっ、承りました。それでは晴子さまの料理の仕度が整いましたら起こさせていただきます」

「頼んだ」

晴子さんのお気に入りの、常にソファーの上で横たわっているデフォルメされた大きな丸っぽいクジラのぬいぐるみを抱きしめて、俺はくるりと身を丸める。なんとなく晴子さんの香りがするような気がして、少し心が落ち着いてくる気分だったりする。

「おやすみ……」

「あれ、幸久君、寝ちゃうの?」

「ん…、あぁ、霧子か……。どうした、着替えてきたのか?」

「ん、着替えてきたよ」

俺が目を閉じようとした次の瞬間、リビングの入口のあたりから、ぐるぐるぐるぐる言っている雪美さんの声に重なりながら霧子の声が俺の耳に届いた。下ろそうとしたまぶたをなんとかあげると、そこにはやはり霧子が立っていた。

学校ではいつも高めに結っているポニーテールを今は解いているようで、そのさらさらとした髪が背中一面に広がっているだろうことが分かる。服は、制服から軽い部屋着に着替えを済ませたようで、どことなく涼しげな感じがしていい。五月前とはいえ最近はもうけっこう暖かくなってきているわけであり、気候に合わせたら部屋着は初夏頃のものが体感的にも外観的にもちょうどいいのかもしれないな。

「今日もかわいいな、霧子。そのパーカー、新しく買ってきたのか?」

「うん、この間おねえちゃんといっしょに買いに行ったんだよ。おねえちゃんが選んでくれたの」

「そうなのか、うん、よく似合ってるぞ」

「にゅ、そうかな? 幸久君がそう言ってくれてよかった」

「別に俺じゃなくてもそう言うって、かわいいのはほんとのことだからな」

インナーの淡い青系の無地のTシャツに七分袖くらいの、表にはクリーム色の素地、裏には軽く白で柄の入っている薄いピンクの生地と、両面で異なる生地が使われているお洒落っぽいジップアップのパーカーを合わせて、ボトムスには膝よりも少し丈が長いくらいのショートパンツを穿いている。

格好だけ見たら、なんだか今からランニングにでも行きそうな感じなのだが、まぁ、霧子はそんなことはしないだろう。

「それにしても、霧子はそういうパーカー好きだな。もう何着もそういうの持ってるだろ?」

「にゅ、そうかな? そこまで持ってないと思うんだけど、いっぱい持ってるかな?」

「いや、いっぱい持ってるのがいけないとか言ってるんじゃないぞ。女の子が服をいろいろ持っているのは別に悪いことじゃないだろ」

確かに霧子は、買い物に行けば似たような服ばかりを買ってしまう傾向が強いので、洋服ダンスを開けば同じようなタイプの服がたくさん出てくるに違いない。特に霧子が気に入っていて何枚も持っている服は、今も話題に出たジップアップタイプのパーカーで俺の覚えているだけで七枚くらいはあったはずだ。

あとそれ以外にも何種類かの服とかパンツとかスカートとかを何枚も何枚も、まるでコレクションするように買い集めている。俺はそういう買い方は絶対にしないのだが、まぁ、女の子なんだし、似たような感じの服でいろいろ種類があった方がコーディネートに幅が出ていいんじゃないか?

「っていうか、今日はもう髪、解いたのか?」

「にゅ? 髪? うん、解いちゃったよ」

「そうか、…、うん、結ってないのもたまにはいいな」

「幸久君、もうポニーテールは飽きちゃった? 別の髪型にしてみる?」

「いや、飽きたとかじゃないけどさ、たまに見ると結ってないのも新鮮だな、って。ほら、霧子が髪を結ってないのは、だいたい寝てるときと風呂に入ってるときだけだろ? だから、新鮮だな、って思っただけだよ」

風呂に入っているときは、さすがにどんな感じになってるかは分からないから、俺の中で髪を解いている霧子のイメージは朝眠そうにしているもの以外にはない。だから、髪を解いているのにねむそうじゃない、というのは、どことなく不思議な感覚だった。

個人的にはポニーテールを結っているのもロングヘアをそのまま垂れさせているのもどちらも好きなので、半々くらいでローテーションさせてくれるとうれしいのだが、まぁ自分の髪をどうするかなんて霧子が自分で決めるべきことだろう。

「にゅん、そっか。ねぇ、髪型、たまには変えた方がいいかな? 幸久君は、どんな髪型がいい?」

「そういうのは、霧子が自分の好きにしていいんだぞ。別に俺に訊かないで、好きな髪型にしていいんだ。俺がこういうのがいいって言うからするんじゃなくて、霧子がこういうのがいいって思うからするんだぞ」

というか、俺はもはや、長い髪というだけでもう十分に好きなので、結っていても垂らしていても縛っていてもまとめていても、もうなんでもうれしいのだ。俺が霧子にお願いしたいのは髪型をどうするか、ではなく「どうかその髪をばっさりとやったりしないでくれ」という他にはないのだ。

「どんなのに変えてみたいんだ? 今よりもきつめに、おでこが出る感じでまとめてみるか? それとも横に流して結ってみるか? それとも毛先をふわっとさせてカールさせてみるか? ウェーブをかけてみるのも、イメージ変わるだろうな。きれいにストレートで流せるように整えてみるのもいいかもしれないぞ。何にせよ、変えたいんなら今度、美容院行かないとな。そのきれいなのに、うかつに素人がハサミは入れるわけにはいかないだろ」

霧子がここまで髪を伸ばし維持するのに、どれだけの労力と努力が費やされているかを知っているならば、よし、じゃあ週末にでもちょっと切ってやるよ、などということは言うことができるはずがないのだ。いくら俺が、昔から広太の髪を切ってやっていてそれなりのカットが出来るといっても、それはあくまでも素人芸でしかないのである。

俺だって、霧子の髪を軽くカットして整えてやりたい衝動にかられるときも、なくはない。しかし今もこうしてそれを我慢しているのは、その髪を霧子本人がそうする以上に大事に思っているからであり、ミスをして少しでもその外観を損ないたくないからなのである。

「予約入れるなら、スケジュール空けとかないとな」

何を隠そう、俺の料理以外の趣味は人の髪を切ってやることである。実は昔から庄司家のみんなの髪は大体俺が切っていてちょっとした理髪師並には経験値を積んでいて、自分で言うのもなんだが、けっこううまかったりするのである。

本当は女の子の髪が切りたいのだが、しかしそんなことはさすがに霧子にだってお願いしづらいし、そもそもそんなに超絶的にうまいというわけではないので、下手にはさみを入れてダメにしてしまうのがなにより恐ろしいのだ。だから広太の髪を一ヶ月に一回カットしてやることによって、欲求を適度に満たしているということだ。

「ね、ねぇ、幸久君? あの、ね? 一つ聞きたいことがあるんだけど…、訊いてもいい?」

「ん? なんだ? 何でも訊いていいぞ」

女の子の髪を最後に切ったのは、確か三年前、広太の実の妹であり、俺のもう一人の妹分である庄司美佳子ちゃんが他の家にメイド修行の奉公に出ることになった日、「ゆぅくん、これで切り納めです……」とカットさせてくれたときである。美佳子ちゃんは俺が唯一、霧子にすらできない、髪をカットさせておくれというお願いをすることができる女の子で、なおかつそれを嫌がるどころかむしろ喜んでくれる稀有な存在だった。

庄司の家を出て三年、手紙一枚電話一本よこすことなく修行に打ち込んでいるようで、彼女について庄司の家が把握していることは、どうやら死んではいないらしい、という非常にふんわりとした認識だけだった。個人的には、美佳子ちゃんがまったく連絡をよこさないことに少なからず不安を感じているのだが、しかしだからといってこちらから連絡して修行に水を差すようなことはしたくない、という困った状況にあるのである。

「あの、ね? これは、たとえばの話しなんだけど」

兄貴分であり将来仕える主人である俺には広太が専属としてつくから、妹であるお前は一人前になるまで家に帰って来なくていい、というおばさんからの冷酷な宣告がなされたのが、ちょうど三年前の10月、まるで真冬のような寒さが身にしみる、そんな夜だった。まさに誕生日の祝いの席で、やけに豪華なケーキのろうそくを吹き消してみんなからプレゼントをもらいとても楽しそうにしている美佳子ちゃんに渡されたおばさんからのプレゼントが、その言葉だったのである。

そして、年が明けて三月、無事に小学校の卒業式を済ませた美佳子ちゃんは、そのまま中学校へと進学することなく奉公先へと旅立っていった。別れの言葉はなく、ただ「行ってくるです」とだけ言って、編上げブーツにシックなクラシックタイプのメイド服、真っ白な卸したてのエプロンを締め、切り納めといわれて調子に乗って俺が切りすぎたショートカットにヘッドドレスを飾り、小さなトランクに必要最低限のものだけを詰めて庄司の家を後にした。

それから三年間、まったく音沙汰がないのだが、おばさんは報せがないのはいい報せとまったく気にしていないようだった。俺は、教えたら行ってしまうでしょう、とその奉公先の電話番号はおろか、なんという名前の家に送り込まれたのかすらも教えられていないありさまであり、まったくなにもできないのだった。

「あたしが髪、短くしたいって言ったら、どうする?」

おずおずと発せられた霧子のその言葉によって、俺の眠気は完全に吹き飛び、全身を軽く包んでいた疲労感すらも完全に消し飛んだ。その代わりに、その言葉のあまりの衝撃に、俺はクジラのぬいぐるみを抱き抱えたままソファーからゆっくりと転がって落ちた。

間違いなくその瞬間、俺の中の時間は停止していたように思う。

ぱくぱくと口が開いたり閉じたりするだけで、明確な言葉を発することはできなかった。いや、俺は、言葉を発するということがどういうことで、それはどのように行なわれることなのかを忘れてしまったのかもしれない。

「ゆ…、幸久君!?」

ドカッ!! という地味な音ともに、俺はフローリングの床へと倒れ伏した。目の焦点を合わすことすらできず、虚ろな目で口を半開きにして転がっている俺は、もしかしたら半死人といって過言ではないかもしれない。

「きり、こ、の…、すきに、すると、いいよ……」

そしてなんとか、俺はその言葉だけを絞り出すと、ふたたびぐったりと、床にぶちまけられた泥のように倒れ伏したのだった。

「み、短くしないよ! 幸久君が短い方が良くなったんなら短くしようと思っただけで、ほんとに短くしたりしないよ!」

「…、ほんと……?」

「ほ、ほんと、だよ!」

「大変だろうけど、長いままでいてくれる?」

「あたしも、長いの好きだよ」

「そうか…、切らないのか……」

そして俺は、心の底からホッとして、それからなんとか自力で起き上がると、再びソファーの上へと這い上がって身体を丸めるのだった。

「マジ、心臓止まるかと思った」

「そんなに、びっくりしたの……?」

「すごいびっくりした…、こないだの花見のときの玉子焼きなんて目じゃなかった……」

「にゅ…、びっくりさせて、ごめんね?」

「いや、まぁ、それ自体はいいんだけど…、もしも短くするときは、せめて俺に一声かけてからにしてくれ、な? 急に切られたら、俺、きっと心臓止まって死ぬから」

「にゅん、そうするよ」

「あぁ、ホッとしたら眠気が帰ってきた……。霧子、髪、かけさせてくれ」

「にゅ? いいよ。あたしはこのへんに座ればいい?」

「あぁ、そうそう、その辺な、その辺がちょうどいい」

そして俺は、クッションを抱えながらソファーのシートを枕にして床にぺたんと座った霧子の髪を掛け布団の代わりにかけてもらって、もう一度ゆっくりとまぶたを閉じた。

すごい…、マジですっげぇ落ち着く……。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ