天方家リビングにて、ぐるぐる
『どちら様ですか~?』
我が家から徒歩で一分足らずの天方家のチャイムを鳴らすと、その軽快な音からわずかな間をおいて門扉の内側の扉が開かれ、そこから顔を出したのは霧子だった。
そしてそれから、チャイムの横のスピーカーから少しだけくぐもった声が聞こえる。その声は、機械を通しているものの、すぐに雪美さんのものだと分かる、とても聞きなれたものである。
「幸久です、雪美さん。霧子がもう出てきたんで、入れてもらってもいいですか?」
『霧子ちゃん、もう行っちゃったの? 今日はおかあさんが出ようと思ったのに~』
「それじゃあ、お邪魔します」
『いらっしゃ~い、幸久くん』
雪美さんから許しをもらったので、俺は勝手に門扉を開いてその敷地の中へと足を踏み入れる。広太は俺の三歩くらい後ろを着かず離れずついてくるので、俺が入ったからといって門扉を閉めてしまうような意地悪なことをはしない。
そして後ろから、かちゃんと門扉を閉じた音が聞こえる。そして前からはサンダルをつっかけた霧子が、制服のまま足元をぱたぱた言わせ、長いポニーテールをはたはた言わせながら駆けてくる。
その揺れている尻尾は、まるで犬のそれのようで、俺が家に遊びに来たことへの喜びをストレートに示してくれているようだった。そんな風にいつも霧子が迎えてくれることは、とにもかくにも、俺にしてはうれしいことで、そうしてくれるたびに全力で頭を撫でてやりたい気分になるのだった。
「幸久君、広太君、いらっしゃい!」
「あぁ、遊びに来たぞ、霧子」
「霧子様、本日は晩の食卓にお邪魔させていただきます」
「今日は、幸久君がご飯をつくってくれるんじゃないんだね」
「まぁ、たまにはな。晴子さんが、飯食わせてくれるから来いって言ったんだってさ」
「今日はね、和食をつくるんだって」
「へぇ、和食か。ってことは、きっと俺の和食が今一つだから師匠のお手本を食べて一から勉強し直せ、ってことだな。なるほど」
「そ、そうなの…、かな……? ただおねえちゃんが和食をつくって、幸久君をそれに呼んだだけのような気がするんだけど……」
「まぁ、その可能性も大いにある」
しかし、晴子さんが意味もなく俺を食事に招くことは、あまりない。俺が食事に招かれるのは、晴子さんが新しく知った美味しそうなメニューをつくってみる実験パターンか、それとも新しく料理を俺に教えることによって俺のレパートリーを増やさせる教授パターンか、あるいは俺がつくった料理が今一つだったときにそれを矯正するためにお手本をつくってみせる再教育パターンかの三つがその大半である。
基本的に、晴子さんが俺に料理を教えているのは、将来的に自分の代わりに全ての料理を俺がつくることができるようにするための、つまりは自分が面倒なことから解き放たれるための手段にすぎないのである。そしてそれは、決して俺の勘が冴えて察してしまっているとかそういうのではなく、晴子さん自身が公言してはばからないことなのだ。
だから晴子さんは、自分の好きなものとか美味しいと思う味付けとかを俺に主に教えてくるので、俺のつくる料理は必然的に晴子さん好みのものに引っ張られてしまうのだ。というかそうであることこそが求められるのであり、もし晴子さんの好みに合わないものとかをつくったりしたときは、今日のように再教育のため呼び出されたりするのだ。
きっと、おそらくだが、先週あたりにつくった肉じゃがの味が気に入らなかったに違いない。あの日は少し醤油が濃いめの味付けをしてしまったから、三角をつけられてしまったのである。だから今日の晴子さんのレシピは、たぶん醤油をベースにして味付けを行なう、肉じゃが以外のなにかしらで、俺にはそこから晴子さん好みの醤油の使い方をもう一度学び直すことが言外に要求されるだろうことは明らかだった。
まったく晴子さんは、ひどい面倒くさがりだというのに、自分が将来的に楽をするための努力だけは怠らないのだから……。「努力と労力は先行投資するもの」、「若いうちの努力は未来に楽をするためのもの」という座右の銘はどうにかならないものだろうか。晴子さんの先行投資のせいで、俺は今から未来にかけて、ずっと努力し続けなくてはならないではないか。まぁ、それが晴子さんのために払う努力や労力であるというのならば、そこまで苦というわけではないのだが。
「とりあえず、あがってあがって」
「あぁ、おじゃまします」
「うん、いらっしゃい」
俺たちは各々くつを脱いで玄関に上がると、とりあえずリビングへと向かう。その途中で霧子は二階にある自分の部屋へと、制服から私服への着替えをするためだろう、階段を昇っていくのだった。広太の口車に乗って変にやる気が出てしまい、上着を脱ぐだけで制服から着替える間も惜しんでやってきてしまった俺とは違い、霧子はこれから着替えをするのだ。
正直に言うと、おそらく所要時間は十分にも満たないだろうから、俺も今からダッシュで部屋に戻って着替えをしてまた戻ってきたいところだ。しかし一度天方家に足を踏み入れてしまった以上、晴子さんが「家から出る」=「逃げる」という判断を下してしまうので、引き返すことはできないのである。
というか、ワイシャツにスラックスの男と執事服の男が並んで歩いている様というのも、今思ってみればなかなか違和感を醸し出すものだったかもしれない。いや、まぁ、違和感があるからといって、どうということはないのだが。広太の執事服はもはや周辺住民の方々にとって日常と化しているわけであり、今さら取り繕うことなど出来るはずがないのだ。
「晴子さん、来ました」
「知ってるわ。邪魔にならないようにその辺で座って待ってなさい。まだしばらく出来上がらないから、おとなしくしてなさいよ」
「はい、分かりました」
晴子さんは、まだ料理をつくり始めたばかりのようで、いろいろな食材を切ったり皮をむいたりの処理をしているところのようだった。晴子さんは、俺と同じでとりあえず使うものは最初に全部切ってしまう方なのだが、そこに積みあげられている食材を見たところ、霧子の言った通り和食的なものをつくりそうな取り合わせだった。
つくるのは全部で二品…、いや三品くらいか? けっこうな量の野菜やらなんやらが、キッチンのシンクにはあって、その中のいくらかはボールで水にさらしてあったりと、いっぱいいっぱいな感じがすごく感じられた。
これは、晴子さんの言うとおり黙って待っているのがいいだろう。この中に手伝いに行ってしまえばおそらく、結果的にではあるが、晴子さんの作業を邪魔することにもなってしまいかねない。
だから俺は、リビングのテーブルに座って何かをしている雪美さんとおしゃべりでもして待とうと思って
「雪美さんは何を、…、なにを、しているんでしょうか……?」
つい、その何をしているか分からない感に負けて、俺は雪美さんにそう訊いてしまった。しかし、はたしてそう聞かれたからといって、雪美さんがその質問に明確に回答することができるのか、微妙に疑問だった。
「えぇっと、なんていったか忘れちゃったけど、晴子ちゃんから教えてもらったのよ~。何も使わないでいい遊びなんだって、すごいわよね~」
「確かに、自分の体以外は、何も必要なさそうですね」
「こうやってね、ぐるぐるしてるのが、けっこう楽しいの~」
「へ、へぇ…、そうなんですか……?」
「うん、朝からずっとやってるんだけどね、ぜんぜん飽きないのよ」
「それは、すごい、ですね」
楽しげにそう語る雪美さんの瞳は、まるで小さな子どものようにきらきらと輝いていて、おそたくそれは俺が昔に忘れてしまった輝きだろう、と思う。
ところで、道具を何も必要としないシンプルな遊びが、実際のところ、雪美さんは好きだったりする。その証拠に、いろいろ道具を使ったりする遊びは熱中してもいつも長続きしないのだが、体一つで出来るものは意外と遊びとして長続きしたりするのだ。
雪美さんの中ですごいお気に入りになる遊びの条件として、単純であること、不毛であること、意味がないこと等々が挙げられる。過去に何度かブームが巡り巡っている右手と左手でそれぞれじゃんけんをするという一人じゃんけんが、単純かつ無意味で、不毛の極みであるということからも、それが良く分かるのではないだろうか。そして今、俺の目の前で行なわれている遊びも、遊びなのか苦行なのか区別がつかないところとか、どことなくそれに近しいものを感じる。
何をしているのか、と端的に言ってしまえば、右手と左手の指の腹だけを、親指は親指と、人差し指は人差し指と、といった感じで掌は浮かせたままでくっつけ合わせるようにして、セット完了。いや、この時点ですでにうまく説明することはできていない感があるのだが、その状態から左右の親指を、ぶつかり合ってしまわないよにぐるぐると回して、次は人差し指、次は中指と、どんどんぐるぐる回していき、小指まで回したらまた親指まで戻し、戻しきったらまた小指に、と無限ループである。
おそらくこれも、たいがい意味というものが感じられずぐるぐる回るという動作の外見的な面白さまで加わっているので、今後、一人じゃんけんと同レベルの大好きな遊びに格上げされてランク付けされるだろうことは明らかだった。晴子さんも、雪美さんのことを、俺以上によく観察しているので、その扱いは完璧なのである。
「ぐるぐる回るのを見てると、頭もぐるぐるしてくるのよね~」
「そんなにぐるぐるしてるんですか?」
「うん、今日は、ずっとぐるぐるしてるの」
「そんなにですか!? 朝から、ずっとですか!?」
「なんだか、面白くなっちゃって~。あと、なんだか止めどきが分からないのよね~」
「たしかに、終わりっていうのがないですからね」
「いつ止めていいのか晴子ちゃんに訊いたんだけどね~、飽きたらやめればいいって言って、教えてくれないのよ~」
「俺も、飽きたら止めればいいと思いますけど……」
飽きたら止めたらいいと言われて、それでもまだ止めどきが分からないというのなら、それは雪美さんが相当にその遊びへと熱中しているのではないか、と思われる。
しかし、この遊びのどの要素が雪美さんにクリティカルヒットしたのか、俺には少し分からなかった。
「雪美様、私にもその遊び、教えていただいてもよろしいですか?」
しかしそれにひるんだ俺とは対照的に、広太は即座に雪美さんに対してそう切り出した。それをずっとし続けるには、きっとかなりの精神力が必要だろうことは、どことなく察知することが出来たのだった。少なくとも俺には今、それに付き合っていくことが出来るほど、心に余裕があるわけではなかった。
「いいわよ~。あのね、まずはこうやって手と手を合わせるの。全部をぺたってくっつけちゃダメなの」
「なるほど、こうして双方の掌の間に空間をつくるようにそれぞれの指の腹を合わせるんですね」
「うん、そうよ~。それでね、ぐるぐるするのよ~」
「こうですか?」
「そうそう、広太くん、上手ね~」
「お褒めにあずかり、光栄です、雪美様」
こうして雪美さんと広太は、けっきょく俺にはそれがどんな意味を持っているのかさっぱり分からなかったのだが、二人して指をぐるぐると回し始めてしまったのだった。傍から見ている分には雪美さんが楽しそうに遊んでいるんだからなんでもいいかなぁ、と思うのだが、しかしそれを自分もやるとなると、それにはなんとなく抵抗があって、そこに参加することはできそうになかった。
「晴子さん、雪美さんにまた変な遊びを……」
「別にいいじゃない、母さんが楽しそうにしてるんだから。それにあれなら無駄なお金もかからないし、問題ないでしょ」
「まぁ、そうかもしれませんけど、あれはさすがにバカにしすぎじゃないんですか?」
「別にバカにしてはいないわよ。あたしは母さんの暇つぶしになればいい、と思って遊びを教えてあげたんだし、それに母さんがたまたまハマっただけじゃない」
「そうかもしれませんけど……」
「いいじゃない、無邪気でかわいくて。母さんはああやって楽しそうにしてるだけで十分なのよ。癒されるでしょ、見てるだけで」
「…、そうですね」
雪美さんは二児の母であり、まごうことなく大人と呼ばれる年齢である。どうやってかは知らないけど、天方家の食費も生活費も家の維持費も、晴子さんや霧子の授業料も稼ぎだしている、稼ぎ頭にして大黒柱なのだ。
「ほら、うっとうしいね。用もないのにこっち来るんじゃないわよ。適当にテレビでも観てればいいじゃない」
「す、すいませんでした……」
それなのに、この扱いでいいのだろうか。確かに雪美さんは、年からは考えられないくらいかわいいし、同様にきれいだし、正直、素敵だと思う。それなのに…、それなのに…、晴子さん、それでいいんでしょうか……。