弟子と師匠と、それからサクラ荘の住人達
「ただいま……」
「おかえりなさいませ、幸久様」
昼休みに姐さんと去年の旅行のときの問題点を話し合って、けっきょくどこにも辿るつくことができなかったという事実が、ひどく俺を疲労させていた。友人の疑念の解消をいつまでも行なうことができないのが、ここまで精神に負担をかけてくるとは思わなかった。
しかもそれが、一度どうすることもできずに封印していたものをわざわざ掘り返して、というのだから、無力感もひとしおで、のしかかる疲労感もなかなかのものだった。
「ちょっと疲れたから、少し寝るわ……。一時間で起こしてくれ、晩飯はそれからつくるから……」
今日は騒がしい隣人も軒並みいないようだし、少しだけゆっくりしようと思った。いつもだったら日替わりで誰かが何かをしに来る、くらいの勢いで隣人どもがうちを訪れてくるので、こうして静かにできるのは比較的珍しいことだったりする。
まぁ、というか、五部屋のうち、我が家を含めて四戸しか住んでいないアパートなのだから、そりゃ一年もいれば仲も良くなろうというものだが、しかしだからといってこちらの都合、というか蓄積疲労度を考えず毎日やってくるのは、少し遠慮してほしいなぁ、と思う。一人を除いてみんな大人なんだから、見た感じで疲れてるかどうかくらい分かるだろうに、勘弁してほしいものだ。
このアパートの住人達は、みんなおおむねそれなりに面倒な人たちで、かまってほしがる人が多いのである。それ自体は別に構わないし、俺も人といっしょに楽しく時を過ごすことは嫌いじゃないし、遊びに来てくれること自体はイヤではない。しかし都合とか時間とか、そういう常識的に配慮すべきものに対するモラルが低い人たちばかりなのが問題なのだ。
うちの隣の部屋、つまりは201号室の住人は、その名を坂倉弥生<サカクラ ヤヨイ>という。身分は大学院生、らしく、年齢はおそらく二十代の中ごろと思われる。どこの大学で何をしているのか、とかそういうことは、本人が話題にしないのでなにも知ることはできない。というか、日々大学に行っている様子があまり見られないので、もしかしたら不良大学生なのかもしれない、と思う日々である。しかし晴子さんも今年で大学三年生になって、平日でありながら学校がない日があるようだし、もしかしたら大学生というのはこういう生活を送るものなのかもしれない、と最近は思い始めた。好きなものは酒で、毎日毎晩部屋で浴びるように飲んでは俺の部屋にやってきたり俺を部屋に引きずり込んだり、つまみをつくってくれるようにねだってくるのである。少し面倒くさいながらも、かわいい人である。
髪は軽く脱色したような茶色のショートカットで、後ろ髪だけがシュッ、っと長い。大学に行くでもなく、意味もなく外をぶらぶらしていることが多い人なのだが、寒さを感じる感覚器官が死んでいるのか服装は一年中だいたい軽装で、夏でも冬でも関係なく下は膝丈よりもだいぶ上、上はペラペラの布地で袖が肩よりも先まで届かない服ばかりを着ていて、スタイルがいいくせに下着姿で部屋の中を闊歩していることもままあることである。長そでとか七分袖の服はファッション以外で着る必要がないと豪語している人で、きっと北国、いや、北極とかの出身に違いない。
公園とか高架下とか、微妙に人がいないところでハトにえさをやったりして一日を過ごしている、社会性に乏しいようにしか見えない人なのであるが、騒ぐのは誰よりも好きで、住民を集めて食事会(飯をつくるのは俺)とかを主催(取りまとめたり管理したりするのは俺)したりもする。
管理人室のお隣にして俺たちの部屋の真下、101号室の住人は高階都<タカシナ ミヤコ>という。身分は、良く分からないのだが、社会人であることは間違いない。年齢は、おそらくの目算だが三十路に足をかけるくらいだろうか。ほぼ毎日家に閉じこもっていて外では滅多にその姿を見ることは出来ず、時折部屋の前でスーツの男の人がドアを「先生! 先生! 開けてください!! 原稿を!!」とかいいながらバンバン叩いているのを見かけるので、なにかをマンガとか小説とか、そういうものを創作する仕事をしているのだろうなぁ、というふんわりとした認識しか持てていない。
仕事が大好きな人のようで、熱中しすぎて周囲の音が聞こえない、時間がどれだけ経ったか認識できない、今が何月何日なのか理解していない等々社会不適合振りをあますところなく発揮してその人生を送っている。その最たるものとして、仕事に熱中しているときは食事を取るのを忘れる、という性質があり修羅場を迎えたときは栄養失調で倒れるなんてことはよくあることである。また外見にもほとんど気を使っておらず、ハサミで適当に真一文字に切った前髪とざくざくと一掴みずつまとめて切ったような後ろ髪で、こう、少なくとも堂々と人前に出られるような髪型ではない、片眉を剃り落して超長期間の山籠りを敢行した某バカ一代のような感じであり、服も常に着古したジャージを適当に着ているようなありさまである。
十年先まで部屋を借りているらしく、深夜、早朝、昼間と時間を問わず、突発的に奇声をあげたりする面倒な人なのだが、基本的には真面目ないい人で、金銭のからむ賃貸借契約的な意味でも人柄とか性格とか付き合いとかの人間関係的な意味でも追い出すことがやりにくい、社会的に難しい人である。
そしてその部屋のお隣、一階の最奥の部屋、つまりは102号室は二人暮らしであり、その住人の名前は後藤歌子<ゴトウ ウタコ>と後藤未来<ゴトウ ミク>という。歌子さんと未来ちゃんは親子らしく、その父親の姿を俺が入居してから一度もみていないので、いわゆる母子家庭というやつか、あるいは単身赴任のというやつかだろう。お母さんの歌子さんは年のころ三十路も半ば、おそらく35よりも少し若いくらい、娘の未来ちゃんは近所の小学校、つまりは俺とか霧子とかの母校なのだが、に通学中の小学五年生である。
歌子さんは柔らかそうな肩口まである黒髪で内巻きのセミロングに、いつもだいたい長袖のカーディガンを羽織っているのでパッと見た感じはいいところのお嬢さんのようであり、実際、このひどく寂れているアパートの住人としてあまりふさわしくないような、少しちぐはぐな印象を一年経っても受けてしまう。昼間と夜は自分たちの住んでいる部屋で内職をして生活費を稼ぎ、夕方は商店街で買い物をしている姿をしばしば見ることができる。
娘の未来ちゃんは、小学五年生になっておしゃれに興味が芽生えつつあるのか、いつもかわいい服を着てランドセルを背負って駆けていく姿で、毎朝俺を癒してくれる。髪も結い方やまとめ方を毎日いろいろ変えてみているらしく、いつも俺の目を楽しませてくれる。特にいいのは、偶然にも俺と同じ時間に家を出るときは、いつも決まって「三木のおにいちゃん、いってきます」と朝の挨拶をしてくれる礼儀正しいところだろう。いや、礼儀が正しいのは歌子さんのしつけがいい、という意味であって、けっして小さな子から「おにいちゃん」と呼ばれて喜んでいるわけではない。
そんな二人はとても仲のよい家族であり、休日には二人で買い物に行ったり食事に行ったり遊びに行ったり、楽しそうに外に出かけていく様子をよく目にする。俺も、たまに「おでかけしたからおみやげ」といって、かわいらしさを重視するあまりその機能性を大きく犠牲にしてしまった皿とかコップとかキッチン用品とかをもらったりして、そのときにたくさん話を聞かせてくれるので、そのときは俺もいっしょに楽しませてもらっていたりする。
また歌子さんは結構な料理好きで、俺もたまにご相伴に預かったり、逆につくった料理を食べてもらったり、年は離れているがけっこう仲良くさせてもらっている。広太も、たまに後藤家の主たる収入源である内職を手伝ったりしているらしいのだが、しかしあまりに手際がよすぎていつもほとんど役に立つことができない、と落ち込んでいる。いつ広太が、歌子様の役に立つためにはもっと効率よく、歌子様以上動きが出来るようにならなくてはいけません、とか言って内職を始めてしまうか、恐ろしくてならない。広太の仕事はすでに我が家の家事全般を取り仕切るだけで十分すぎるほどであり、収入を得るための内職なんてする必要はないのだ。というか、そんなことをしていたるのがおばさんにばれたら、幸久様の世話をおろそかにしてそんなことに現をぬかすとは、天誅!! とか言ってぼこぼこにされかねない。もしそんなことをすると言い出したときにはそっと、主として友として、止めてやることにしようと思う。
「幸久様、お疲れであることは重々承知の上なのですが、どうしてもお伝えしなくてはならないことが一つだけございます。お耳に入れさせていただいてもよろしいでしょうか?」
「なんだ? それ、どうしても今じゃないとダメか? あとでいいんだったら、後にしてくれると助かるんだけど」
「はい、今すぐにお伝えしなければ、幸久様が甚大なる損害を被ることになりかねないのではないか、と思われます。もちろんそれは私がお引き受けするので、幸久様がその対象となることはありませんが」
「どうしてそっちに問題が飛んでったんだよ。分かった、なにがあったか言ってくれ」
滅私の心で俺に仕えてくれること自体はうれしいし非常に誇らしいのだが、さすがに俺が受けるべき損害まで引き受けてくれなくてもかまわない。というか、損害が発生すると言われているのに話を聞かないわけがないだろう。
「はい、了解いたしました。幸久様が帰っていらっしゃるほんの少し前ですので、つい先ほどのことなのですが、晴子様からお電話を承りました」
「晴子さんから電話? もしかして、料理、つくりに来いって言ってたのか?」
時計を見れば、今の時間は俺がだいたい晩飯をつくり始める時間よりも少し早く、五時を少し回ったところで、料理をつくりに来い、という電話をするには少し遅いかもしれない。いつもだったら俺がまだ学校にいる二時とか三時とかに連絡を回して、少なくとも心構えくらいはさせてくれるというのに、珍しいこともあるものだ。
「いえ、今日は晴子様の料理を食べにくるように、との仰せです」
「なんだ、今日は勉強か。それならただ行くだけでいいってことだな」
「はい、そういうことだ、と考えても構わないと思われます。それと食材も持ってこなくていいと仰られていらっしゃいました」
「そうか…、それなら手ぶらで行くか。味の勉強のついでに一食分浮いたってことでいいだろ」
正直に、晴子さんの料理は美味い、と断言できる。自分の料理も年を経て成長を遂げているのではないか、と最近では思っているが、しかしそれが晴子さんの域まで達しているなどと、間違っても思うことはできない。
晴子さんに教わらなくてはならないことはまだまだたくさんあり、俺が晴子さんから免許皆伝をいただいて弟子を卒業することができるのはいつになるのか、今のところまったくその目処は立っておらず、まだまだ晴子さんにお世話になる日が続きそうだ。
「すぐに向かいますか? それとも少しお休みしてから、ということでしたら、晴子様に一報入れさせていただきますが、どうなさいましょう?」
「いや、すぐに行こう。霧子が帰ってきたから俺も帰ってきたと思って電話してるんだろうし、俺が家にいることは把握されてるんだ。それに、休むだけだったらあっちの家でもできるだろうからな。久しぶりに、霧子の髪を体にかけてもらって寝るか……」
「了解しました。それでは晴子様にはそのように電話をさせていただきます。そろそろ帰っていらっしゃると思ってお茶を用意しておきましたので、それを一杯いただくまではごゆっくりなさってください」
「あぁ、そうさせてもらう。今日は…、少しだけ疲れててな……」
「何か、大変なことがあったのでしょうか?」
広太は出掛けるための仕度をする、と見せかけて俺が休憩するための時間を稼いでいる。というか広太もいっしょに休めばいいものを、俺の目の前で休憩することが罰に当たる行為だとでも思っているのか、せっせといろいろな作業を片づけているのだった。
しかし、休憩しなさいな、といっても申し訳ありませんがまだ仕事が残っておりますのでご容赦ください、とか言われるに決まっているので何も言わない。こういうときは作業が終わるまでは声をかけず、黙って待ってやるのが一番いい行動選択なのだ。
「まぁ、少しだけな。大したことではないんだけど、難しいことで、ちょっとどうしようもない状況になって、なんて言うか、無力感…、みたいな?」
「人は誰でも無力感を抱えて生きているものです。自分ではどうすることもできない状況、何とかしたくても出来ない状況などは、誰にとっても存在しているのではないでしょうか。ですから、それをなんとか自分なりに解決することができるよう、全力を尽くすことが重要なのではありませんか? 結果としてどうにもならなかったとして、それは今力不足だったというだけのことでしかありません。今度こそはなんとかしていけるよう、そのときに備えて力を溜めればいいのです」
「そういうもんかね……」
「えぇ、今できなくても明日は出来るかもしれない。明日できなくても明後日はできるかもしれません。人間には無限の可能性が秘められているのです。自分を諦めてしまっては、そこですべてが終わってしまいます。幸久様は、今していらっしゃるように自分を信じてがんばっておられれば、何も問題はないのです」
「お前…、相変わらず褒めるの上手いよな…、なんかやる気出てきた」
「大したことではありません、全ては幸久様から学ばせていただいたことです。それをただ、お返ししているだけにすぎませんから」
「まぁ、お前がそう言うんなら、何でもいいけどさ。よし、茶も飲んだし、やる気出たし、行くか」
「はい、お供いたします」
そして俺たちは、晴子さんの言いつけに従って天方家へと移動を開始するのだった。今日は食べに行くだけとはいえ、しかし晴子さんの料理を食べて勉強するときは常に真剣勝負であり、一食浮いたぜラッキー、とか思っている場合ではないのだ。
気を引き締めていこうと思う。