波打ち際で、あったこと ④
人間という生物は死の直前に走馬灯を見るという。それがどういう仕組みで起こっているのかは、俺はまったく知らないのだが、そこにある意味はなんとなく分かる。
走馬灯を見ている時間というのは、つまりは人間に与えられた最後のチャンスタイムなのではないだろうか。何らかの外的な要因によって自分が死んでしまう、そんな状況に対面したときに、「ほら、なんとかあがいて状況から逃げ出してみろよ」と神様が面白半分に与えるのが、それなのではないかと思うのだ。
そして、そこで走馬灯を見るというのは、おそらく諦めているに違いないのだ。走馬灯というのは、過去の体験のフラッシュバックで、言ってしまえば自分の生きてきた事実の再確認である。そんなものを見ているということは、もう自分の命がないと白旗を挙げているのと同じなのだ。
俺は、どんな理由で死ぬにせよ、絶対に走馬灯だけは見たくない。最後の一瞬まで、どのようなことがあっても、生き残ることを諦めたくはない。あがいて、もがいて、なんとかして生きるための道を拓きたい。
走馬灯をみる暇があったら、その一瞬にできるだけ考えたい。命絶える最期の瞬間まで、無様でも生き汚くてもなんでもいいから思考を止めることだけはしたくない。死ぬことを受け入れることだけは、どうしてもしたくなかった。
まぁ、つまりはただ諦めが悪いだけの負けず嫌いなのであり、おそらくもっとスマートに状況を回避することは出来たに違いない。
どうでもいいことで負けたくないから変なところで突っ張って、そこで突っ張った分がどこかで出っ張って、その応報としてキツい状況が俺の身に降りかかってくる。すべては身から出た錆であり、自己責任において生じている問題だということはよく理解しているし、その一連の流れについても俺なりに重々承知しているつもり、ではある。
そもそものところ、どうでもいいことで妥協して折れるのが嫌で突っ張って、小学校と中学校合わせて数度、家の人を学校とか警察とかに呼び出されるレベルの巨大な抗争を起こしてきた事実があるわけで、よくよく理解するだけのことは経験してきているのだ。
小学三年生のとき、霧子のことをからかっていじめているやつに、かわいそうだからやめてやれ何が面白いんだ、と注意してやったら、五人がかりで子どもなりにかなりひどい罵倒を重ねてきたので、広太といっしょになって、そのうちの三人が一時期学校に来れなくなるくらい言葉で責め立ててやったことがあった。やりすぎだと学校におばさんが呼び出された。
小学五年生のとき、クラスの女子が六年の男に何かの理由で脅かされたとかいうことを訊いて、そっちの方が明らかに悪いんだぞということをしっかり論破するまで説いてやったら、逆ギレされて偶然落ちていたかなり太い木の枝で頭を殴られたのだが、額から血をだらだら流しながらそいつを立てなくなるまでボコボコにしたことがあった。正当防衛なのは状況的に分かるけど、やはりやりすぎだとおばさんが呼び出された。
中学二年生のとき、うっかり肩がぶつかってしまったのを謝ったら、ヤンキー的なバカに謝り方が足りねぇんだよ! みたいな言いがかりを、胸ぐらを掴まれながらされたうえ頬を一発殴られたので、広太と二人がかりで三人まとめて病院送りにしたことがあった。一人は顔が青あざでブルーマンのようになっていて、一人は早々に気絶してカニのように泡をぶくぶく吹いていたし、そして最後の俺を殴った一人は、広太の逆鱗に触れたらしく股間を全力で、合計で五回ぐらい蹴りあげられて大事なところをたたきつぶされていた。
そして俺が呼んだ救急車といっしょに、呼んでいないはずのパトカーまでやってきてなぜか俺たちが警察に連れて行かれた。事情と経緯をはっきり説明して、目撃者のしっかりした証言もいくつかあがっていたようなのだが、過剰防衛だとおばさんが呼び出された。
中学三年生のとき、広太と霧子といっしょに電車に乗っていたら、二人で四人分くらいの席を占領してぎゃあぎゃあ騒いでいるバカそうな高校生風の男がいたので、前におばあさんが立っているんだから譲らなくてもいいから詰めて場所を空けてやったらどうですか? と丁寧に言ってやった。何が気に入らなかったのかキレたらしく次の駅で降りた俺たちを追ってきたので、話を聞いてやると、舐めてっとボコるぞ的なことをわめき散らしつつ殴りかかってきて、あろうことか霧子に手をあげようとしたので返り討ちにしてやり、線路にたたき落として、土下座でこれから電車に乗るときはマナーを守るしおばあさんも大切にしますと謝るまで、ホームにあげてやらなかった。
二十分で次の電車がやってくることは彼らにも分かっていたようで、ホームに昇ろうとするたびに広太と俺に顔を足蹴にされるのも精神的かつ肉体的にきつかったのだろうし、十五分までは粘っていたのだが、とうとう地に額をこすりつけて謝ったので許してやろうと手を貸してやり、挙句の果てには鼻血の治療までしてやったというのに、俺たちとその高校生たちは鉄道警察に確保され、おばさんが呼び出された。
どこのヤンキーの抗争かと思ったと、そのとき俺たちを逮捕した鉄道警察のおじさんは笑っていたが、しかしやりすぎはいかんよ、とマジ顔で言った。俺たちの言い分の正当性と論理的な正しさには同調しつつも、いくらなんでもやりすぎだよ、と。そのときばかりは、俺も自分がやりすぎだったと反省したものだ。とりあえず、これからはもうちょっと違う方法で物事を解決しよう、と思った。
ちなみに、線路の上では小便をチビるほどビビっていたが、警察には俺たちの正当性と自分たちが悪かったんだということをしきりにアピールしてくれたその高校生たちは、実際今でも知り合い程度には関係を保っていて、今年は大学受験で忙しいんだそうだ。なんでも俺たちのおかげで改心したとか何とか、この間送られてきたメールに書かれていて、自分で勝手に悔悛しただけだろうに律儀な人だ、と思ったのを覚えている。
話が違う方に逸れてきた。つまり、俺が言いたいのは、俺自身自分の愚かさにはよく気づいているわけで、しかしそれを改善することができない程度には愚かで、負けることは、正しくないことと同様に嫌いであり、今回はまた少し違うかもしれないけど、同じようにまた愚かなことをしてしまったかもしれない、ということなのだ。自分で言っていて、なんだか分からなくなってきた。
だから、俺はやっぱりバカだなぁ、ということなのだ。
危機に陥ったり喧嘩をすることになったとき、それが危険の強度として高ければ高いほど、決まって俺の思考は速く速く回る。今回も、バカげた状況には違いないが、しかしかつてない危機に直面している俺の思考は、かつてないほどの速度で巡り巡っていた。今までしてきたような思考をほぼ一瞬で行なっているのだ、さすがにここまでのことはこれまでにない。
「せぇの…、そりゃ~」
再び、志穂の手が俺に向かってシュッ、と振りぬかれ、悪気のない攻撃が俺にぶつかるために飛んでくる。二撃目の回避に全力を費やした俺だったが、すぐに立ち上がるとまたついさっきと同じように体を思い切り横に投げ出した。
さすがに横に逃げた俺をホーミングしてくるようなことはなかったので、水たちは猛スピードで俺がさっきいたところを通り抜けていき、だいぶ遠くにぱしゃぱしゃと着水しているようだった。ヒュンッ! シュォン! …、チャパチャパ……、と連続する音だけを認識することができる。
「ゆっきぃ、すごいよける~。なかなか当たんないなぁ~」
志穂はそうぼんやりと言いながら再度、容赦なく次弾の装填を行なっている。こうしていれば、なんとかよけ続けることはできるかもしれないな。
しかしそれでは決着が着かない。負けを認めてギブアップするには、相手の放った水を少なからずこの身に受けなくてはならず、自分が回避するためにびしょびしょになったのは、この水かけっこで濡れたうちには入れてもらえないだろう。
それならばどうするか。このまま横に跳んで跳んでびしょ濡れになりながら岸まで逃げるか、あるいは勇気を出して攻めるかのどちらかしかないように思う。どう攻めるかは、そのときになってから考えます。
というか、もうここまでびしょ濡れなんだから、上手く負けて泳ぐのがいいような気がしてきた。しかし負けるのはイヤだし、そもそもどうやったらうまく負けることができるのか分からなかった。
唯一つけ込むことができそうなのは、その攻撃の一撃一撃に溜めが必要なことくらいだが、もしそのタイミングを間違えれば文句なしで打ち込まれることになる。もう少し見ないとそのタイミングを確信することはできないし……。
「もっと速くしたらいいのかなぁ?」
「……、うぉおおおおおおおおおおおおおおおお!!!」
俺は、志穂の不穏当な発言を打ち消すように、その小さな体に向かって全力で水をかけ始めた。水に両手を差し込み、かき出す。その二つの動きを、肩の関節がおかしくなるのではないか、というほどに両手を動かした。志穂ならばおそらく、それに耐えつつも攻撃を行なうことが出来るのだろうという予感がするが、しかしどうしてもそうせずにはいられなかった。
今のまま逃げていれば負けないなんて考えは、捨てよう。志穂はまだまだ力を残しているし、いくら速く動いても逃げられない攻撃がいつ襲ってようになるとも限らないのだ。
それならば、まだ反応することができる今、無駄かもしれないが攻めるべき。そう結論するしかない。
「や~!」
さっきよりも少しだけ気合を入れた声で、志穂が腕を振りぬこうとしているのが、自分の巻き上げている水のカーテンの向こう側に見える。さっきとほぼ同じタイミングで、俺は攻撃を止めて横に跳んだ。
俺が全力を込めて張っていた水の弾幕は、しかし志穂の攻撃の前にはまるで無力だった。少しでも防御の役も為してくれるのでは、とうっすらと期待していたのだが、しかしそんなことなく、まるで何もないかのように、志穂の攻撃は貫通して飛んでいったらしい。それはさっきと同じように遠くでいくつもの着水音が聞こえたから分かったのであり、もちろんその攻撃の軌跡が見えたというわけではない。
そして二発が、右側に跳んだことで残ってしまった左足を掠めた。あくまでも掠めただけなのでまったく痛みはないのだが、しかし確かに擦った感触はあった。それは遠くない将来、その攻撃が避けようとしているはずの俺を捉えるということを意味しているように思えた。
タイミングを見なくては、などと日和っている場合ではない。俺はその瞬間、確信した。
右足が水面を突き破り、そう深くない湖底に着く。
滑らないように上手く力を込めて、俺は急激な方向転換によって進行方向を志穂の方へと強引に向け、思い切り一歩を踏みこんだ。志穂は俺の動きの変化に気づいてすぐさま次弾の装填を急ぐが、しかしすぐそれを行なうことができるわけではない。
さっきまでで四回見て分かったことは、だいたい攻撃のリズムは一、二の、三! の三テンポということと、おおむね攻撃態勢に入ってから二秒は要するということ。
俺はその間に間合いを詰め、志穂を押し倒してタップを取る。そうすることでしか、志穂に水をかけまくることでギブアップを取れそうにない今、この戦いを勝利することはできない。
卑怯? 必要悪だ。
志穂は、急に俺が自分に向かってきたことに驚いているようで、手の動きは止まっている。これなら振りぬかれることはないだろう。
「志穂! ごめん!!」
腰をかがめて重心を下に移している志穂の両肩を、どんっ! と押すと、思ったよりも簡単にバランスを崩し、仰向けに倒れていく。これであとは、腕に膝を置いてやってタップするまで
「あっ」
志穂は、その身を湖底に沈める直前に、そんな間の抜けた声をあげた。そして、俺が何かを理解するよりも早く、全身から力が抜けるほどの痛みが、全身を駆け抜けた。
それは別に志穂としてもしようとしてした攻撃ではなく、突然飛びかかってきた俺に対する緊急の応戦策として手での水かけ攻撃を強行するよりも足での水かけ攻撃を選択し、そして実行したそれによるものだった。いや、その攻撃自体ではなく、そこから副次的に発生してしまったものというか。まぁ、冷静になって考えると事故だったのだろう、ということはすぐに分かる。
志穂の、俺に水をかけようと振りぬいた足が、俺の股間をちょうど打った。しかもかなり思い切り。男なら一生涯に、事故であれ何であれ、一度くらいは経験することだ、それについてはそれなり以上に共感してくれることだろうから、あまり詳しく説明するのは省かせてもらう。
そして俺は、広太に大事なところを蹴り潰されていたヤンキーの思いを理解すると同時に、まるで水死体のように湖面にこの身体を浮かべることになったのである。
…………




