教室の喧騒、屋上の静寂 ―― さぁ、検証を始めよう
「起立っ! 礼っ!」
「ありがとうございました~」
四時間目の授業の終わりを告げるチャイムを聞いてから、教師はチョークをかたんと置いて教壇の上の荷物をまとめる。そして姐さんのキレのある号令によってクラスの全員ががたん、と椅子を鳴らして立ち、ぺこりと授業終わりの通過儀礼をこなした。
そうして四限目の授業が終わってしまえば、その後には当然のごとく昼休みが始まるわけであり、教室の中は教師の退場を待たずしてざわざわと賑やかさを取り戻す。購買組と学食組は今日の昼食の確保のために急いで教室を後にし、弁当組は手近な机を動かして、自分たちの昼食グループが収まるだけの大きさの机のまとまりを各所で形成していく。
いつもならば、俺たちもそのように、だいたいいつも購買のパンを昼ごはんにしている志穂以外はみな弁当を持参しているので、五人が座れるだけの机を集めるのである。そして志穂は今日も同様に、授業が終わるのと同時に教室を飛び出していき、廊下を一陣の突風のように駆け抜けていくのだった。
それならば俺たちもいつものように、窓側の机を四つ集めて四倍の大きさの四角をつくって五つの椅子を寄せたりしているのかといえば、実はそんなことはなかった。
「メイ、俺、ちょっと今日は別のとこで食うから。よかったら霧子といっしょに飯食ってやってくれ」
『うん、いいよ。幸久くんはどこ行くの?』
「ちょっと屋上に用事があって、行かないといけないんだ。大事な、用事があるんだ」
『そうなんだ、いってらっしゃい』
「あぁ、昼休みの終わりギリギリまで戻って来れないかもしれないからさ。五限の移動は俺のこと待ってたりしなくていいからな」
『うん、分かった。でも出来るだけ待ってる』
「じゃあ出来るだけ早く戻って来れるようにするわ。それじゃ、ちょっといってくる」
『いってらっしゃい』
そして俺は、弁当を提げていない方の手を肩越しにメイに軽く振って、教室を後にするのだった。昼休みは、二限が始まる前に決めたように姐さんと徹底討論を行なう予定なのであり、それは他者の介入を差し挟まない俺と姐さんの一対一の戦いなのである。
というか、霧子とか志穂とかをその場に立ち合わせてしまえばめんどくさいことになるのは必定なのであり、ここは俺と姐さんの二人できっちり話をつけることが必要になるのである。いや、それ以前に、姐さんだけが去年のことについて疑念を持っているので、姐さんとだけ話をつければいいのだから、霧子と志穂は必要ないのだ。
『あれ、のりちゃんもおでかけ?』
「あぁ、ちょっと屋上に出なくてはいけない用事があってな。食事をともにできず残念なのだが、今日のところは天方と皆藤といっしょに食べてくれ」
『うん、そうする。幸久君もちょっと屋上に用事って言ってたけど、偶然だね』
「あぁ、そうだな。くれぐれも天方と皆藤のことを頼むぞ。あと、屋上について来たりなどしないように、な」
『屋上、行っちゃダメなの?』
「そうだな、あぁ、来てはいけないぞ。そうしたら昼休みの終わりまでに帰って来れなくなってしまうかもしれないからな」
『わかった。それじゃあ行かないようにするね』
「あぁ、そうしてくれると助かる。五限目の移動教室も、遅れないように二人を連れて行ってくれ」
『うん、気をつけるよ』
「それでは、私はもう行く。また後でな、持田」
『いってらっしゃい』
そして姐さんは、弁当を提げていない方の手を肩越しにメイに軽く振って、教室を後にするのだった。その行く先は、さっき自分で言ったように、俺と同様に屋上であり、その目的ももちろん同様である。
同じ所に行くのだったらどうしていっしょに行かないのか、という話なのだが、それには差し当たって一つの理由がある。それは俺と姐さんが二人でどこかに行ったら、ほぼ間違いなくそれには霧子と志穂がついてきてしまうだろうし、もしかしたらメイもついてきてしまうかもしれないからだ。そうなってしまったら姐さん一人と話をするのよりも数十倍くらい大変なことになるだろうし、今回のお話はそんなことに気を取られながらすることができるほど生ぬるいものではないのだ。
というか、姐さんを説得するということは、そんなに簡単なことではないのだ。そのためには明確な証拠や信頼できる証言が必要であり、なかなかシビアな観点を要求されるのである。
また、ついてきてほしくない理由というのは、決して話し合いに要する手間だけではない。それは今回話をしなくてはならない議題そのものに関係することなのだが、それについてはまたあとで分かることであるが、とにかくあまり霧子たちには聞いてほしくない話なのだ。なんというか、俺のイメージの根幹にかかわる話というか、出来るだけ広まってほしくない話なのである。
志穂がそれを聞いたら、きっと適当にところどころをつなぎ合わせて、理解の及ばないまま悪気もなくうれしくない噂を広めてくれることだろうし、もし霧子に聞かれて幻滅でもされてしまえば、俺の心が殺害されるだろう。メイに聞かれてしまえば、せっかく今までいいイメージを持ってくれているようなのに、それがすっかり壊れてしまうかもしれないからなのだ。
いや、当然、その話は本当のことではないと俺は考えているし、本当ではないのだ、と姐さんに主張するつもりでもある。しかしそれでも、それに姐さんが疑問を持っているというだけでそれなり以上の公的な不信感が発生するのであり、あるいはそれが、俺が誤魔化しているんだと結論付けるための重要なファクターとなってしまう可能性すらあるのだ。
だからこそ、諸々の理由によって俺と姐さんは一対一での話し合いを行なうことが最も適切なのであり、知り合いがやってくる可能性の低い屋上でそれを行なうのが、おそらく一番いいだろう、という結論に到達するのだ。
そういうわけで、俺は姐さんよりも一足先に屋上へと向かうのであり、姐さんは俺の出発からわずかに時間を開けて屋上へと訪れるのである。もちろん、俺と姐さんは道々言葉を交わすことはなかった。
…………
「いただきます……」
しかし口をきかずにいたのはけっきょく屋上にたどり着くまでで、俺の方が我慢できなくなったのだった。
俺と姐さんは一つのベンチに並んで座り、それからまずは弁当を食べてしまうことにした。包みを解きふたを開くと、そこには朝に自分でつくったおかずとごはんがふたを閉じたときのままに鎮座しているのだった。
朝早くに起きて弁当をつくることは、俺の感覚ではそこまで大変なことではない。というか、俺と広太の生活費は当然限られているわけであり、弁当をつくることで購買を毎日使うよりも少しでも節約することが出来るのなら、それは弁当をつくるだろう、と。
それと、料理をすることがまったく苦ではないというのも、一つの要素ということもできるのかもしれない。そりゃ、料理をつくるのが嫌なら弁当をつくるのも嫌になるだろうし、もちろんそのために早起きすることだって嫌になるに決まっているのだ。
将来、料理人になることはできないだろうから、主夫になって家事だけをやって生きていくのも悪くないと思う程度には、俺は炊事洗濯等々の家事仕事が好きなのである。だから朝起きて弁当をつくることなど、特に苦でもないのだ。というか、昼飯の確保のためにどうしても必要なことなのだから、そもそも苦と思っている場合ではないのかもしれないが。
「いつも思うけど、姐さんの弁当、きれいだよな」
俺の弁当も、晴子さんの言いつけに従って、それなりに色合いとか盛りつけとかには気を配っているが、しかし姐さんのものは本当に丁寧に、きれいにつくられている。娘としてそれだけ大事にされているのだろう、ということが、その弁当を見るだけでもなんとなく伝わってくる感じがした。
「それ、お母さんがつくってくれてるのか?」
「あぁ、母がな、早くに起きてつくってくれている。私は風紀で特に朝が早いときもあるから、迷惑をかけてしまっているんだ。出来れば自分でつくれるようになって、母に面倒をかけないようにしたいのだが、それもなかなかな」
「別にお母さんは面倒だなんて思ってないんじゃないか? 娘のために弁当つくるなんて親冥利に尽きるってもんじゃないか、と思うけど」
「しかし、三木は自分でつくっているのだろう? それならば、私が自分でつくった方がいいのではないか、と思ったんだ。私は女なのだから、それくらいのことはできた方がいいだろう」
「姐さんって、意外とそういうとこ気にするよな。なんていうか、女の子らしさ、みたいなのにさ。俺は必要に駆られてやってるだけなんだからさ、同じようにしないとなんて思う必要ないと思うけど」
「意外か? もしかして、女なのだから、という風に考えるのは私に似合わないだろうか?」
「いや、似合わないなんて言わないけどさ、なんていうのかな……、時代と違うっていうかさ、まぁ、そんなこと気にしなくていいんじゃないかなって。女だから炊事洗濯が完璧じゃないといけないなんて決まりはないんだしさ」
「しかし結婚して、妻になる相手が料理も出来ないようでは、三木は嫌ではないのか?」
「? 料理なら、俺がつくるけど?」
「…、三木は、主夫にでもなるといい。エプロンもお玉も、似合っていると思うぞ、私は」
「そうか? はは、ちょっとうれしいかも」
「そうか、うれしいのか…、私とは、やはり少し感性が違うのかもしれないな、三木は」
「まぁ、それは仕方ないだろ。人間、そんなに簡単に分かりあえるものじゃないしさ」
「そうだな、お互いに分かり合うことはなかなか出来ることではない。それだからこそ人間は語り合い話し合わなくてはならないのだ」
「そうだよなぁ。結局、腹を割って全部見せ合う以外にはお互いを理解するなんてできっこなさそうだし」
「まったくその通りだな。それでは三木、去年のゴールデンウィークのときのことについても、私のことを納得させてお互いに歩み寄り合おうではないか。自分が無実だと言うのならば、どのようにすればそれを証明することができるのか、私に教えてくれ」
パクパクと弁当の中身を口に運びながら、俺と姐さんはしゃべり続けているが、ついに話がそこに到達した。そもそもそれが、わざわざ昼休みに屋上まで飯を食いに来ている最大の理由なのであり、このままいつまでも雑談に興じているわけにはいかないのである。
そしてそれは、奥深くに封じてしまいたいと思っている記憶を再び掘り起こす作業を意味するのであり、これから行なう姐さんの説得作業が、俺にとっても姐さんにとってもかなり厳しい戦いになることが予想される。
「お互いにあまり掘り起こしたくない過去であることは確かだが、しかしそれだからといってそれをみないようにしていてはいけないと思うんだ。これは、きっと三木とこれからも友人でいるために通らなくてはならない道だろう。もちろん、私はお前のことを信じていたい。しかしわずかにお前を疑おうとする自分がいるのも確かだ。三木、私を安心させてくれ、それだけが私からお前に頼みたいことだ」
「俺も、姐さんのことは人として尊敬してるし、これからもいい友だちでいたい。そのためにこんなわだかまりがあっちゃいけないってこともよく分かってる。今度こそ分かり合おう、姐さん」
「あぁ、そのつもりだ。この疑惑の念が私の勝手な思いこみだということを認めさせてくれ、三木。私も、お前の事は認めているんだ。素直に、おかしなことを言って済まなかった、と謝らせてほしい」
「大丈夫だ、今度こそ、姐さんを納得させてみせる。話が終わったら、安心して謝ってくれ」
そうして姐さんは、膝の上に乗せていた弁当箱を一度ベンチに置くと、体をこちらに向けて真剣な目でまっすぐに話を切り出した。
「それでは改めて問わせてもらう。三木、お前はなぜ去年のゴールデンウィーク、私、お前、天方、皆藤の四人で旅行に行ったとき、私たちの眠っているところに侵入して眠っていたんだ。私たちが眠っていたのはベッド、お前が眠っていたのはそこから二メートル以上離れたソファーだ、寝相が悪かったと言って通用する状況ではない、ということだけはきちんと理解してくれ」
「あぁ、それは分かってる」
「素直に、正直に全てを告白してくれれば、私はお前の言うことを受け入れる心の準備はできている。納得することができるかどうかを判断することも、おそらく客観的なスタンスから見つめることもできる。さぁ、言うことがあるならば、あるだけすべて打ち明けてくれ」
「それじゃあ、話をさせてもらうぜ、姐さん。まずは、長くなるかもしれないけど、そのときの現状の確認からさせてもらおうか」
「そうだな、それがいいだろう。もしも忘れていることや見落としていることがあっては、確かな判断を下すことなど、到底できはしないだろうからな」
「まずは、そうだな、朝のことから思いだしていこう」
忘れもしない、あれは去年のゴールデンウィークの初日、よく晴れた金曜日のことだった。