新緑萌え出づる季節に
時は過ぎ、桜舞う季節は終わりをつげ、新緑萌え出ずる季節が訪れた。俺は、さすがに二週間もあれば周りが女子しかいないという、傍から見れば最高な状況にも適応し始め、それなりにクラスの中でのポジションみたいなものを見出すことが出来ているような気がしていた。
そもそもからして、「周りが女子ばかり」というのと「周りに女子しかいない」というのとには、ほんのわずかな言葉の違いでしかないが、実質的に見て、その言葉の差異以上の困難と隔たりがそこにはある。
まず、当然のことだが、「周りに女子しかいない」というのは、周りに男子がいないということと同義である。極端に言ってしまえば、現状で見たところ、俺の周りに広太以外一人も男という存在がいないのだ。部活、委員会、課外活動、バイト等々、そういったものに一切所属していない俺にとって、他者との触れ合いの場は学校のクラスしかなく、そこに女子しかいないのだから、ある種それも当然なのかもしれないが。
そして周りに女子しかいないということは、クラス内における一般的な生活様式が女子のそれに限りなく近づいていくということをも意味する。しょせん男子はクラスに一人という少数派でしかないわけで、その俺が男として激しく我を主張するということは、マジョリティに対する反抗と似た意味を持ってくる。それは、冷静に考えて、あまり得策ではないのである、それくらいは簡単に分かることだ。
つまり、可能な限り女子の文化というものに適応していきながら、なおかつ男としてしっかり一線を引いて生活するという、どことなく綱渡りのようにも思える仕方で生きていくことを言外に要求されているのだ、と、あるとき俺は気づいたのだ。そしてそれを、今まで俺はそれなりに上手くこなせてきているように思うし、なんとなくこれからも問題なくこなしていけるような、そんな気がしていた。
俺に要求されているのは、結局のところ女の子たちが「いっしょにいたくないなぁ」と思わないような立ち居振る舞いをするということで、女の子一般から好印象をもたれるような生活を送るということなのだ。というか、俺の今までの一生涯を考えてみたら、その多くの時期を霧子とともに過ごしているわけであり、また、周りにいた友人も、どちらかといえば女の子の方が多かったかもしれない。故に、俺はいつものような生活を送りながらも、常に女の子の目というものを気にして生きてきたのかもしれない、ということだ。
だから、いつものように生きていればいい、のかもしれないが、その「いつものように生きる」ということを明確に意識しなくてはならないとなると、これがまた難しいのである。
「俺はどうしたらいいんだろうな、霧子」
「にゅ?」
「俺、クラスに馴染んでると思うか?」
「幸久君、みんなと仲良くしてると思うし、馴染んでるってどういうことかよく分かんないけど、いいんじゃないのかなぁ?」
「そうか、それならいいか」
いつもしていることというのは、結局は習慣化していることなわけなのだ。それっていうのは、つまり呼吸ってどうやってするのか教えてください、といわれるのに近いように思えてならない。だからこそ、自分がそれを、いつもと同じようにすることができているのかが分からなくなってしまうのだ。
ふと、自分の心臓がいつもと同じように動いているのか、ということが気になってしまったというか、まぁ、分かりにくいがそんな感じだろう。
「ちょっと訊きたくなっただけだから、気にしなくていいぞ」
「にゅ?」
気になってしまったからこそこうして、てくてくと、季節特有の温かい柔らかな風に背中を押される登校中に、霧子にそんなことを訊ねてしまったのだ。深い意図があるかと問われれば、そんなものは当然ないのだが。
「みんなやさしいし、かわいいし、いいクラスだよな、うちのクラスは」
「そうだね、みんなやさしいし、かわいいよ」
「霧子もかわいいぞ?」
「にゅ、そんなことないよ、あたし、おっきいから」
「背がでかくても、かわいいと思うけどなぁ」
「ちっちゃい方がかわいいよ。おっきいのはあんまりかわいくないから」
「自分に対して否定的だな、いつものことながら。俺がかわいいって言ってるんだから、かわいいでいいじゃなぇかよ」
「しぃちゃんとかメイちゃんの方がかわいいもん。あたしなんて、大したことないもん」
「なぜそこまで自分を否定するんだろうね、この娘は」
変なところを経由したが、結局は最終的にここに行きついてしまう。しかしまぁ、これはやはりいつもの流れなのである。
昔は、確かそんなに自分に対して否定的じゃなかったはずなんだが、ふむ、どこでどうなってこうなってしまったのだろう。俺はしばしばこんな感じで、霧子はかわいいんだぞ、と言い聞かせているというのに、いったい何がいけなかったのだろうか。
もっと強い自己肯定感を持たせてやるために、言葉だけじゃなくて「具体的にどこらへんがどうかわいいか」、みたいなもので押していった方がいいのかもしれない。それとも、身内票だから、みたいな考えで俺の言葉の信憑性を疑っているのだろうか。
「霧子はかわいいんだから、気をつけないといけないんだぞ? かわいい女の子は、すべからく男に狙われてるんだから、ちゃんと意識を持ってないとダメだ」
「狙われてなんかないもん。身長170センチよりも高い女の子は、そういうのはないんだもん」
「ダメだぞ、変なのに引っかかったら。男っていうのは危ない存在なんだから、気を許しちゃいけない。もし霧子が何の気なしにしたことで、相手が勘違いしちゃったらどうするんだ」
「ど、どうなるの……?」
俺の深刻そうな物言いに、自分では己のかわいさを否定しつつも、その表情に心配そうな色をにじませる霧子。ようやく俺の話を真剣に聞く気になったらしい。
「それは、あれだよ。こんなにかわいい女の子が自分のことが好きなんて、って思うだろ。そうなったらあれだ、危ない目に合うかもしれないじゃないか」
「危ない目って…、なぁに……?」
「危ない目っていうのは、危ない目だよ。口では言えないことだよ」
「えっちなこと…、とか……?」
「かもしれないなぁ。俺はな、霧子にそんなことになってほしくないから言ってるんだよ。自分は他人よりもかわいいんだ、ってことを分かってれば、そういうことにならないように注意できるだろ?」
「にゅ…、でも…、あたしは、別にかわいくないもん」
「話が一周しちゃったじゃん。どうしてそこに戻っちゃうのかなぁ……」
どうも、今日もうまく話をいい方向に導くことができなかったらしい。霧子の中で「でかいこと」=「かわいくない」が定式化されて前提条件になっているのが最大の難関なのかもしれない。
いったいそこを崩すにはどうすればいいのか、今の俺にはそれが分からなかった。霧子が変な男を勘違いさせてしまいイヤな目に合うのではないか、と憂慮しているのは本当なわけで、なんとか自分を正しく認識してほしいのだが、なかなかうまくいかないものである。
「霧子は、どうしてそんなに自分がかわいいことを認めたくないんだ。別にナルシストになってほしいってわけじゃないけどさ、自分は人並み以上にはかわいくて、相手を惑わすこともあるってことは、分かってくれ」
こんなこと、本当は俺だって心の内に秘めておきたいわけで、口に出して言いたくはない。でも、やっぱりお兄ちゃんは心配なのだ。霧子が変な男にだまされて、いつの間にか変なことになってしまったら、と思うと、まだ見ぬそんな変な男への殺意と害意で心が満たされていくのを明確に感じる。
「なんでそんなにでかいのがダメなんだよ。背がでっかくてもいいだろう。かわいいんだよ、霧子は」
「だって…、にゅ…、だ、ダメなんだから、ダメなんだもん!」
「どうしてダメなのか、言ってみなさいな。ほら、俺は並大抵の奇抜な理由では動揺すらしないから、勇気を出して正直に言いなさい」
「な、ないしょだもん……」
「…、ないしょなら、仕方ないな、うん」
あぁ~、今日もけっきょく最後の最後で「ないしょ」のカードを使われてしまった。これを使われると、俺はそれ以上追及していくことができなくなってしまう。それは霧子も知っているから、いつのころからか言いたくないことを訊かれたら「ないしょ」というようになってしまったのだ。
しかし霧子も、俺がそうすれば追求を止めることが分かっているからこそ、本当に言いたくないこと以外には「ないしょ」は使わないのであり、それは俺と霧子の間の無言の取り決めでもある。
故に、俺はそれを言われたときは追求を止めなくてはならないのであり、霧子は本当に訊かれたくないこと以外についてそれは使わないのだ。
「桜、もう散っちゃったね」
「そうだな、季節の移り変わりは早いからな。特に桜はパッと咲いてパッと散るから、なおさらだ」
今日のところは霧子に事実を認めさせるのを諦めて、俺は話を別のところへとスライドさせる。しかし俺は諦めない。いつの日か霧子に、自分は背がでかくてもかわいいんだ、ということを認めさせ、一生涯変な男にだまされないように気をつけます、と誓わせてやるのだ。
「四月も、いつの間にか終わりだからな、びっくりする早さだ」
「四月が終わったら、五月だね。お花見したのも、もう一週間も前なんだよ」
「あぁ、ほんとだ。いつの間に、って感じだな」
あの花見からもう一週間も経ったなんて、にわかには信じがたいことだ。しかし、今日も家庭科の授業があるので、それは間違いのない事実だった。
あんなことがあったというのに、時間はいつもと変わらず進むのだ。なんというか、世界というのは俺たちの都合で動いているわけじゃないんだ、ということを再確認した気分だった。
まぁ、そもそも世界が俺の都合で動いているなら、俺にとって都合の悪い状況が生じるわけがないのであり、すべて事もなくつつがなく進んでいくはずなのだ。それはそれで、もしかしたら味気ない人生なのかもしれないなぁ、と俺はふと思った。
そうだ、もしそうだったら俺はもっと普通の家に生まれていただろうし、普通に育って、普通に友だちをつくって、普通に生きて、普通に死んでいくんだ。それでは、確かにつまらない。少し面倒でもいいから、今みたいに時折どうしようもない状況に晒されながら生きていくのも、楽しいかもしれないな。
しかし、それもあまり多すぎると食傷になってしまうので、もっとそういうことに襲われる頻度を落としてくれるといいんだが、まぁ、それすらも俺の都合どおりにはならないのだ。
そう、それが世界であり、あるいは生きるということなのかもしれない。
「五月はゴールデンウィークがあるから、楽しみだね。去年も旅行、楽しかったなぁ」
「そうか、ゴールデンウィークか。忘れてたな」
「今年も、去年みたいにどこかに遊びに行ったりするの? それとも今年はやめとく?」
「別に止めておく必要はないけど、そうだな、とりあえずみんなに聞いてみないと分からないな。俺たちだけで決めても、どうにもならないだろ?」
「にゅぅ、そうだね。学校行ったら訊いてみるの?」
「あぁ、何かするならそろそろ動かないと間に合わなくなる頃だからな。とりあえず訊くだけ訊いてみよう」
「にゅん、あたしは、どこかに旅行行きたいなぁ。あんまりおねえちゃんは旅行とか好きじゃないみたいだから、うちでは行かないもん」
「あぁ、晴子さんは家が好きだからな。休みは家でごろごろするのが晴子さんの主義だから仕方ないって」
「あたしは、たまにはお出かけしたいなぁ。お家も、好きなんだけど」
「晴子さんはぬいぐるみがいないと眠れないんだから、仕方ないだろ。旅行だからって持ってくわけにもいかないだろうしさ」
「おかあさんはね、おねえちゃんを一人残していくのはダメっていうから、うちは旅行には行けないの」
「…、よし、今年も旅行行こう。霧子、俺がどこでも連れてってやるからな。旅行なら、俺がいくらでも付き合ってやる」
「ほんと? でも、みんなが行くか分からないし……」
「それは、俺が絶対説得するから。もしダメでも、俺が付き合う。一人で行かせはしないからな、霧子」
「ふ、二人でも、いいの……?」
「あぁ、いざというときは、それも辞さないぞ。まぁでも、なんとか説得するんだけどな。霧子も協力してくれよ?」
「う、うん、あたしも、がんばる」
てくてくと歩きながら、俺たちは一週間と少し後に迫っているゴールデンウィークへと思いをはせるのだった。去年もなかなか楽しく過ごすことができたし、今年もまた同じように出来ればいいなぁ、と俺はそのときばくぜんと思っていた。
しかし、まさか楽しいゴールデンウィークにあんなことが起こるなんて、そのときの俺には知る由などなかったのである。