姉妹喧嘩と後始末とカレー
俺は、鍋をぐつぐつと煮込みながら、炊飯器のタイマーと掛け時計を交互に睨みつけていた。時間はおおよそ八時ちょうど、そろそろ晴子さんの見ているドラマも終わってしまうし、雪美さんの空腹度合いも限界を迎えるに違いない、いわゆる一つのタイムリミットだった。
「…、もうちょい、煮詰めたいな」
ついさっき入れたなすもなじんできたし、もう出来たといえば出来ているのだ。しかしまだ少し水っぽい感じがするので、出来ればもう少し時間がほしい。
しかし非情にも時間は過ぎていくわけで、それから少しして晴子さんはエンディングテーマの途中だというのにリモコンを手にとってテレビの電源を落とす。雪美さんも、なにをしていたのか結局最後まで分からなかったのだが、手を止めて片付けを始めてしまった。
「あぁ~、まだ終わってないのに~!」
「別にいいじゃない、エンディングなんて毎回律儀に見なくたって。時間の無駄よ」
「で、でもぉ~、最後まで見なきゃダメなんだもん」
「何のこだわりよ、それ。よく分からない子ねぇ」
「最後まで見て、始めてドラマ見たことになるんだもん!」
「次回予告もなくて、スタッフロールとスチルが流れるだけのエンディングなんて、二回もみれば十分よ。あたしは見る意味と価値を感じないんだけど?」
「か、価値は、分かんないけど…、意味はあるもん! えと、エンディングの曲がね、やっぱり大事だと思うの!」
「曲? そんなに聴きたいならレンタルショップでCDでも借りてくればいいじゃない。そうしたらフルで聴けるわよ」
「そ、そうじゃなくてぇ……。今週の分を観て、それからエンディングの曲を聴くのがいいの! そういう風に毎週するのが一セットなの!」
「じゃあその一セットを止めればいいじゃない。ドラマのお話の部分だけでも十分じゃないの?」
「だから~、にゅ~……。エンディングの曲を聴くまでがドラマなの! エンディングを聴いて、今日はこんなのだったなぁって思い出すのがいいの!」
「そんなの、部屋に帰ってからCD聴けばいいじゃない。わざわざリビングで聴くよりもよっぽど集中して思い出せるでしょ? もしお小遣い足りないなら、シングル一枚借りるくらいのお金出してあげるわよ」
「お小遣いとか、そういう話じゃないの! 余韻とか、そういうのが大事だって言ってるの!」
「余韻なんて別にいらないわよ。ドラマなんて、所詮消費されるだけの娯楽なんだから、それなりに受け取っておけばいいじゃない。そんな本気で向き合う必要ないでしょ?」
「でも、せっかく観るならいっぱい楽しい方がいいでしょ! それに、ちゃんと観てないと、お友だちとおしゃべりできないんだもん!」
「そんな友だちいらないわよ。なんで一生けんめいがんばってドラマ観ておしゃべりしてまで、お友だちでいなきゃいけないのよ。めんどくさいし疲れるじゃない」
「そういうのじゃないもん! なんでおねえちゃんはすぐになんでも「めんどくさい」っていうの!」
「だって面倒じゃない。友だちなんてもんは気づいたらなんだか分からないけどいっしょにいる人のことでしょ? どうしてそんなののためにがんばらなきゃいけないのよ。ドラマをちゃんと観てないくらいで友だちじゃなくなるようなの、最初から友だちじゃなかったのよ、いなくなっても痛くもかゆくもないわ。だから、別に霧子はがんばらなくてもいいのよ。がんばらなくていいんだから、別にドラマのエンディングも観なくていいの」
「それとこれとは話が違うもん!」
「いいじゃない、もう。あたしは観ないでいいんだから、わざわざリビングで観なくて」
「もぉ~、別にここで聴いたっていいでしょ~! おねえちゃんのいじわる!」
なぜか晴子さんと霧子が、よく分からない理由で揉めている。そんなのどうでもいいだろう、と。俺なんてそもそもドラマとか見ないぞ。
そんなことで揉めること自体が不毛で無駄なことだとは思わないんだろうか。というか、別にドラマのエンディングがテレビから流れてたとしても、晴子さんの邪魔になるわけじゃないだろうし、晴子さんが観ないでいればいいんじゃないのか?
霧子が珍しく声を強くしてじたばたするほど主張しているんだ、好きにさせてやればいいじゃないか、たかが一分や二分のことだろうに。
「あの、晴子さん、できましたよ」
しかし、晴子さんと霧子が揉めている時間もたかが知れているわけで、けっきょく俺は諦めて晴子さんに出来ました宣言をするのだった。
「あぁ、出来たの? どれどれ……」
「…、ふにゅっ!?」
俺がそう言うと、晴子さんはソファーから起き上がると、抱きしめていた巨大なぬいぐるみと手に握っていたリモコンをポイっ! とソファーの方に投げ捨ててキッチンにやってくるのだった。偶然、ソファーを枕にして座っていた霧子のおでこにリモコンが直撃するが、それを顧みすらしない。
かつーん! と思ってもみないほどいい音がしたんだが、大丈夫なのだろうか。
「にゅ~……!!」
うゎ、ほんとに痛かったんだろう、悶絶している。しかし晴子さんは見向きもしない。音と声は聞こえているだろうに振り返りもしないとは…、まさに外道の振る舞いである。
雪美さんはお片付けに夢中で周りが見えていないし、広太はこういう場合は俺が指示しない限り助けに行ったりはせず、雪美さんの片づけを補助している。となると、晴子さんが行かないなら、もはや俺が行くしかないのである。
しかし少しでも長く鍋を火にかけていたい手前、火を消してしまうわけにもいかない。だが、火をつけたまま鍋を放っておけば、たとえ弱火だとしても底が焦げ付いてしまい、カレーがダメな感じになってしまう。
晴子さんをなんとか説得して霧子の様子を見に行ってもらうか、それとも雪美さんの片づけを遅れさせてもいいから広太を行かせるか、あるいは晴子さんに鍋を託して俺が行くかで一瞬だけ迷うが、晴子さんに鍋を託すのが一番効率よく思えたのでそれを選択することにした。
「晴子さん、鍋見ててください!」
「はいはい、さっさと霧子を助けに行きなさい」
「もう! 自分がやったんですから、自分で助けてくださいよね!」
「別にいいじゃない、結局最終的には幸久が行くことになるんでしょ?」
「もうっ…、人非人!! 霧子、大丈夫か?」
そして霧子は、本当に痛いようで、両手で額を押さえてゴロゴロと転がっていて、うぁ~うぁ~とうめき声をあげているのだった。こんな姿、俺以外の男に見せたらドン引きされちゃうぞ…、霧子……。
「だいじょぶか、霧子。おでこ痛いのか?」
でも俺はそんな霧子でも大丈夫だ、問題ない。というか、こんな程度ならば、今まで見てきたもっと凄まじいのと比べてしまえば大したことはないので、一切動じることはない。
急いでごろごろ転がっている霧子に駆け寄って抱き起こしてやり、リモコンの直撃奇襲攻撃を受けた爆心地であるおでこを優しくさすってやる。無造作に放られたリモコンは思ったよりも大きく弧を描いていたので、位置エネルギーが運動エネルギーに変換されて衝突時にかなりのダメージを発生させたに違いない。
その証拠に、霧子はひんひん言いながら半分涙目になっていた。あともう少しでもダメージを加算させるだけで、容易に涙の堰を決壊させることができるだろう、やらないけど。
「にゅ~…、おねえちゃんに、やられたよぉ~」
「見てた、見てたぞ。晴子さんの手からリモコンが離れて霧子のおでこにぶつかるまでの一部始終は俺が見てたからな。お~、よしよし…、痛かったなぁ…、だいじょぶか? おでこ、たんこぶできてないか?」
「痛いよぉ…、おでこ、痛い~……」
痛くしてしまわないようにゆっくりと、やさしく霧子のすべすべのおでこに手を這わせる。食事がきっちり整っているからか、それとも女の子としてしっかり洗願等を行なっているからか、そのおでこは吹き出物もなくきれいなもので、また同様にたんこぶもないようだった。
軽く赤くなっている気もするが、元が白いので少しはれているだけだろう。これくらいだったら痛いだけだし、問題はないに違いない。
「おねえちゃん、わざとだよ…、絶対わざとだもん……。あたしがドラマのエンディング観たいって言ったから、気に入らなくてリモコンぶつけたんだもん……」
「そんなことないって、偶然だって。偶然そこに霧子がいてさ、そこにリモコンが飛んじゃっただけだって。いくら晴子さんでも、そんな露骨な攻撃しないって」
「するもん…、おねえちゃんはするもん…、幸久君だって知ってるはずだもん……」
「まぁ、知ってるは知ってるけど…、でも今回は偶然だったよ。あれをわざとやってるんだったら、悪魔だよ。晴子さんは、悪魔だよ」
「じゃあ、悪魔なんだもん…、おねえちゃんの…、悪魔!!」
「はいはい、悪魔よ。お姉ちゃんは悪魔よ」
「よしよし…、落ち着け、落ち着くんだ、霧子。俺が撫でたら痛いの飛んでくからな、ちょっと我慢してろよ?」
「にゅん…、幸久君はこんなに優しいのに…、おねえちゃんは全然優しくないよぉ……」
「それはあれだよ、俺が天使だからだよ」
「幸久君は、あたしの天使様だよぉ……」
「そうだぞ、助けに来てやったからな。もう怖くないし痛くないぞ~」
「にゅ~…、にゅ~…、ふぇ~ん……。痛かったよ~」
痛むであろうおでこを撫でてやって、それから軽く抱きしめてやると、晴子さんと言い合いをしていたときから張っていた緊張が切れてしまったのか、ぽろぽろと涙を流し始めてしまった。
基本的に霧子は平和主義者で、そもそもからして口論なんてする性質じゃないのだ。たまに晴子さんと口げんかにもならないような言い合いをしただけでこれなのだ、その弱々しさを理解していただけるだろうか。
そして俺は霧子に泣かれるのに弱い。非常に弱い。昔から泣き虫の霧子を守ってきた記憶が、泣いている霧子という状態を拒絶するのだ。
「あぁ…、泣くなってば……。あの、晴子さん! 出来ればでいいんですけど、霧子に謝っていただけないでしょうか!?」
だがこんなときでも、俺は晴子さんにだけは強気に出ることができない。だって師匠と弟子の間柄だから。霧子の耳元でこっそりと話すだけだったら、少しくらい晴子さんを悪く言うのも必要悪だと思うが、しかしおおっぴらに晴子さんに対して何かを言うときは上からものを言ってはいけないのだ。
そんなことを、霧子を落ち着かせるときに必要悪として行使する以外にしてしまったら、いつの間にか埋め込まれてしまった、師匠への愛という名の小型爆弾が爆発して、不整脈とか起こしてしまうかもしれないじゃないか。晴子さんの調教は、もはやそのレベルまで至っているんだぞ。
いや、勘違いしないでほしいのだが俺だって、別に誰に対してもこんなに迎合的というわけではない。昔は今よりもずっとたくさん、霧子に意地悪をしたりからかったりして泣かすやつがいたわけで、そういう奴らがいるたびに広太を連れて片っ端から報復して回ったこともあったのだ。一時期は学校の番長的存在として君臨していたことだってある。
強かったんだぞ、俺と広太は。誰と喧嘩しても負けない最強の二人だったんだ。そして、俺たちの強さが校内に広まるにつれて、俺と一番の友だちである霧子にちょっかいを出そうとするやつもいなくなったのだった。
しかし、いくら霧子が泣かされたからといって、あれはやりすぎだったと思う。まぁ、あのころは俺も子どもだったということなのだろう。
そういえば一回だけ、理由はきっと霧子がらみなんだろうが、六年生十人を一度に相手にしたことがあったが、そのときはさすがに俺もヤバかった。だが、なぜか分からないが、囲まれてボコられかかったところから意識がすっぱりとなく、気づいたら相手が全員意識を失って倒れていた。あれは、今でもどういうことなのかよく分かっていない。
もしあのとき、俺の中に眠った真の力が……! とかいって調子に乗って市内制覇に乗り出したりしたら、志穂とか姐さんとかと出会って逆にボコられることになったのだろうか? なっていたかもしれないなぁ。
なぜそうしなかったかといえば、霧子がもう喧嘩しちゃダメ、と言ったからなのだ。そもそもは霧子のためにしていた喧嘩だ、霧子がするなというのならば、するわけにはいかないだろう。それと広太に、そろそろ止めておくのがいい、と言われたのも大きい。
そのあと、俺が金輪際喧嘩をしないと決めたことは学校中に広まったが、しかし仕返しに来るやつは一人もいなかった。つまりは、それほどまでに圧倒的な強さだったということだ。
「なんであたしが謝らないといけないのよ。事故じゃない、いやよ」
「事故を起こしたときはですね、原因になった人が誠心誠意謝って、それから妥協し合って示談とかするんですよ! 謝ることは重要なことなんです!」
「じゃああたしの代わりに幸久が謝りなさいよ」
「はい! じゃあ、そういうことで!」
それから俺は、抱き起こした霧子をソファーに座らせてやり、痛みが飛んでいくようにと念を込めつつおでこを撫でてやりながら、晴子さんの代わりに誠心誠意を込めて謝るのだった。
「霧子、ごめんな。今のは事故だったんだ。許してくれ。わざとじゃない」
「ん、だいじょぶだよ……。もう、泣かないよ……」
「今度からは、気をつけてもらうように、言っとくから」
「ありがと、幸久君……」
ポケットからハンカチを取り出して、霧子の涙をぬぐってやる。少し泣いて落ち着いたのか、涙はもう止まっているようで、何とかふにゃっと笑ってくれた。
よかった、やっぱり霧子は笑っている方がいい。
「幸久、ご飯にするんだから、早くしなさいよ」
「あっ、はい、すぐに。じゃあ霧子、すぐ美味いもん食わせてやるからな、待ってろよ」
「うん!」
「よし、いい返事だ」
霧子の髪を、くしゃっと撫でてやって、俺は急いでキッチンに向かう。さすがに自分が悪かったということは分かっているようで、晴子さんはきちんと鍋をかきまぜていてくれた。おかげでいい感じに煮詰まっている。
よかった、これであとはよそうだけでいい。ひき肉となすのカレー、無事に完成である。