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Prism Hearts  作者: 霧原真
第二章
29/222

一周回って落とし穴

「遅かったじゃない、何やってたのよ」

俺と霧子は商店街での買い物を、なんとか俺の財布の中身だけで済ませると、わき目も振らずに天方家へと急いだ。しかし、俺たちがいくら急いだつもりでも、晴子さんの中で主観的に遅いと判断されてしまえばそれまでである。

どれだけ俺が懸命に急いで帰ってきたとしても、晴子さんがそうだと思ってくれなければ話は別なのだ。晴子さんが遅いと言ったら俺がどれだけ急いだとしても、遅いことになってしまう。

天上天下唯我独尊。それが天方晴子、俺の師匠の定める師弟間のルールなのである。

「すいませんでした、精いっぱい急いだんですけど…、遅くなってしまって」

晴子さんは玄関に、軽く髪をかき上げながら仁王立ちで俺たちのことを待ちかまえていた。それは決しておかえりなさい、などという優しい言葉をかけることを目的としているわけではなく、俺が到着次第口撃を加えるために待機していただけなのだ。

「あたしが来いって言ったら、すぐ来なきゃダメじゃない。ほんと使えない愚図ね」

「すいません、すぐに用意しますから」

「当然よ、なに言ってるの」

こんなところで立ち話をしている時間こそ、実際にはないのである。俺は急いで靴を脱いで、あきれた目で俺を見降ろしている晴子さんの横を通り抜けようとする。

したのだが、しかし、そうする瞬間に、俺は何かを感じ取った。だがそれはあまりにかすかすぎて、具体的に何を感じ取ったのかは、自分でもよく分からなかった。

「あの、晴子さん。今日、いつもと何か違います?」

だから聞いてみることにした。聞いたからといってなんでもかんでも解決するとは思っていないが、だがしかし皆目見当がつかないのだから聞いてみるしかない。

ここで変な意地を張っても、分からないものは分からないのだ。それならば、素直に晴子さんに何かあったのか聞いてみたほうがいい。何かあったのならばへぇ、そうなんですか、で済むし、何もなかったならばいや、勘違いでしたね、で済む。

「あら、ようやく気付いたの? 遅いわねぇ、入ってきてすぐに気付きなさいよ。広太はすぐに気付いたのに、幸久はダメねぇ」

「えっ、あっ、すいませんでした」

「で、具体的にはなにが違うのよ」

「それは、分からないですけど……」

「霧子は分かってるわよね? 分かった顔してたから」

「にゅ、あの、美容院、行ったんだよね? 少しカットが変わってるし、匂いがするから」

「美容院…、あぁ~、言われてみれば、ちょっと切ってますね。襟足をそろえてるんですか?」

「そうね、ちょっと揃えてもらったわ。ようやく、分かったのね、幸久」

「気づかないで、すいませんでした……」

「よくないわ。あんなに髪を触ってアピールしてたのに、どうして分からないのかしらね。女の子の変化にはすぐ気付けっていつも言ってるでしょ」

「はい、これからはもっと気をつけます」

「どうして執事の広太に出来ることが主人のあんたにできないのか、ってことよね。それって許されることなの? 執事と主人なのに」

「執事が主人よりも有能ということは、よくあることらしいですけどね。庄司のおじさんは、執事は何においても完璧でなくてはならないってよく言ってます」

「口答えしてんじゃないわよ、罰ゲーム!」

「えっ、そんなのあるんですか!?」

「あんたが口答えしたからよ。師匠に口答えとか、弟子のくせに舐めてんじゃないわよ」

「…、すいませんでした……」

「はい、正座」

「はい……」

そして俺は、冷たい玄関口の床に膝を突き、晴子さんの言いつけどおりに正座をするのだった。しかし食材を含めた荷物を床に置くわけにはいかず、霧子に手渡してからそうすることだけは、晴子さんも無言のうちに許してくれた。

正座した足からは床の冷たさと硬さが伝わってくるが、晴子さんの罰ゲームの前座として正座をさせられるのは比較的いつものことであり、その感覚にも慣れたものである。しかし、問題はここからなのだ。

当然だが、正座は罰ゲームではない。

「んふふ、罰ゲーム、何がいいかしら?」

「は、晴子さん、俺、これから晩飯つくらないといけないですから、今は罰ゲームとかはちょっと……」

「分かってるわよ。罰ゲームは後でごはん食べた後にするのよ、当然じゃない。今は、何をするか決めるだけどよ」

「そ、そうですか……」

何をするかを決めるだけ、ということは、つまりもう罰ゲームはしない、という選択肢が晴子さんの中にないということだ。まぁ、晴子さんから罰ゲームが宣告された時点で、それは確実に執行されるのであり、「やっぱりなし」なんてことにはならないのである。

しかし今回の罰ゲームの原因はそこまでのことではないこともあるし、そこまでハードな罰が与えられることはないだろう。あるとしてもダッシュさせられるとか筋トレ的なことをやらされるとか、あるいは繊細なところから責められるとしてもタバスコ一気飲みとか、わさびを一塊とか、そういうちょっと痛いレベルのものに過ぎないと思われる。

「あんたが決めていいわよ、幸久。自分にふさわしい罰ゲームが何なのか、ってね」

「じ、自分で、ですか……?」

「そうよ? 自分の罪がどれほどのものかは、あんた自身もよく分かってるでしょ? それなら自分で決めるのがいいとは思わない?」

「そ、それは、まぁ…、それなりに……」

「それなり?」

「ばっちりです!」

「じゃあ、どうしたい? いや、どうされたい?」

正直に言おう、これはかなり新しい。

いつもなら、大体概ね晴子さんがスパッと罰ゲームを決めて、それを俺がさくっとこなす、という流れだというのに、どうしてここで新しいルートを開拓してしまったのだろうか。というか、これはいったいどういう意図を持ってして提案されたルートなんだろうか。

これまでのように晴子さんが罰ゲームを決めるのであれば、それは当然晴子さんのしたいように俺を罰ゲームにかけることができるわけで、自分の思い通りに俺をいじりたい、という思いの表れだということは分かる。それは晴子さんが師匠として俺よりも圧倒的上位に君臨していることを明確に示す方法であり、師弟の間に存在する埋めることも超えることもできないような絶対的で決定的な権力の差を誇示することを目的としているだろう。

思えば昔からそうだ。晴子さんが俺を弟子にすることを決めたときも、根本には俺をおもちゃにして楽しい生活を送ろうという思いがあったわけで、そのためにまず圧倒的な料理の腕の差で俺を精神的に屈服させたんだ。それ以降も、料理を教えてやるという名目で俺が晴子さんを絶対的に神聖視するように仕向けていたわけだし、無茶な特訓方法につき合わせることで俺がどうしても晴子さんに勝ち得ないということを骨の髄まで染み込ませたわけだし、度重なる罰ゲームと拷問ごっこによって植えつけた大量のトラウマと根源的な恐怖感によって本能のレベルから俺が反逆することを抑止しているのだ。

こうして考えてみれば、少なくとも中学生とか高校生の発想じゃない。もっとこう、人間を家畜に落とそうとか、奴隷をつくろうとか、そういうレベルの危険な着想からその行動が選択されているとしか思えないのだ。

だというのに、そんな呪いの死神にして悪の総本山にして恐怖の代理表象にして、しかし俺の女神さまである晴子さんが、どうして俺に罰ゲームを選ばせる? これはあれか? あれなのか? 俺の忠誠心を量っているのか?

俺がきちんと晴子さんが思うような量刑を自らに課すことができるか、試しているのか?

読めない…、読めないぞ…、晴子さん……。

「はやく決めなさいよ、うざいわね」

晴子さんは、俺がその意図を読めずに恐恐として思考を止めていると、それが気に入らなかったようで、正座している俺の脚の上に乗った。江戸時代の拷問に、こういうのがあったような気がする、と俺は余裕を持ってその思考に至ったが、しかしその余裕はすぐにすりつぶされた。意外と痛かった。

しかしそれほどでもない。膝の皿のあたりが圧迫されて軋むような音がしているが、しかしそこまでの痛みはないのが現実である。この程度で叫び声を上げるような温い調教は受けてきていないのだ。

「ほら、早く決めなさいよ」

だがそれ以上に、状況は非常にマズいものだった。晴子さんは俺の膝の上に立っているような状態なわけで、そうすると晴子さんの股下の長さと俺の座高の高さの関係によって俺の目線の高さに、あぁ~! なんでもありません!!

エッチなこととか、全然考えてません!!

「晴子さん、降りてください! そういうのはよくないと思います!!」

「この程度の痛みで音を上げるなんて、あたしの弟子の耐久性としては情けないわね、幸久。もっと鋼のように強くなりなさいよ、全体的に」

「がんばります! がんばりますから、今は降りてください、おねがいします!」

「仕方ないわね、その分しっかり考えなさいよ」

「はい、がんばります!」

そうして俺の願いは聞き届けられ、晴子さんは俺の膝から下りてくれたのだった。精神衛生上よろしくないことになりそうだったな、危ない危ない。晴子さんは俺に対してある意味無防備というか、無頓着というか、まぁ、弟子相手なんだから当然なのかもしれないが、気にしなさすぎだと思う。

俺も男なんだから、いくら気にするに値しない相手だとしても、乙女として慎むべきところはきっちり押さえてもらわないと困る。俺は強化型紳士として、そういうことで徒に情動を催したりはしないが、それとこれとは話が違うというものだろう。

「で、どうするのよ? 罰ゲーム、早く決めてくれないと晩ごはんの準備ができないじゃない」

「え、えっと、そう、ですね……」

話は一巡したが、根本のところでは何も進展していない。問題はどうして晴子さんが、師匠としての最大の権限の一つである罰ゲームの決定権を手放すのか、ということだ。それを行なうことが、晴子さんにとってどんなメリットを持っているのかを見極めなくてはならない。

考えられるのは、単に面倒になったからという線だが、それはない。もしそうだとしたら晴子さんはもうここにいない。

あとは俺の忠誠心を試しているという線か、あるいは俺がこうして悩み苦しむのを見たいだけという線か、それともそれ以外か。

「じゃ、じゃあ…、あの、町内ダッシュ一周……」

晴子さんの教えを徹底できなかった罪ならば、それくらいの罰ゲームが適当だろう、と俺は考えた。

そして俺がそう言いかけて、しかし晴子さんの表情は納得のそれではなかった。どちらかというと驚きのような、俺の言おうとしている罰ゲームでは足りないんじゃないの? とでも言いだしそうな、そんな表情。

その驚きは、おそらく失望に変わる。このままでは、ちゃんと出来るかな、という師匠からの試練をしっかり受け切ることが出来ないということになってしまうじゃないか!

ま、マズい! これじゃダメだ! もっとキツいのじゃないと、晴子さんの期待を裏切ることになる!!

「じゃ、少ないんで! 十周! 行ってきます!!」

俺があわてて直前の言葉を打ち消し、差し当たって罰ゲームの強度を単純計算で十倍まで跳ね上げてみた。反省があるとすれば、いきなり発作的に勢いで十倍にするんじゃなくて、三倍とか五倍とかで探りを入れてみるべきだった、ということ。

少なくとも、一気に十倍はやりすぎだったと思う。思うが、しかしすべては今さらでもはや後悔をすることしか出来ない。人間、発してしまった言葉には常に責任が付きまとい、そう簡単に打ち消すことはできないのである。

「え~、そんなに~?」

晴子さんの表情は、なんだろう、とても楽しそうだった。こんなにニコニコの晴子さんを見るのは、楽しそうにしているのを見ることは何度もあったがここまでとなると、初めて俺に罰ゲームをかけたとき以来かもしれない。

まるで、持っているおもちゃの新しい楽しみ方を見つけたような、そんな類の笑み。しかしそれは小さな子どもの純真なものではなく、どこか邪悪に満ちた、大人の笑みなのかもしれない、と俺は思わずにはいられなかった。

「あたしは、そんなにさせるつもりはなかったんだけど~、まぁ、幸久が自分でやるっていうんなら…、止めることはできないわよねぇ?」

「お、おねえちゃん……?」

「霧子も、聞いたわよね? 男が一度やるって言ったことを、まさか翻したりはしないわよねぇ?」

それから俺は、晴子さんのねらいを即座に理解した。

それは、悩み苦しむのを見たいどころの話ではなかった。晴子さんは、俺がぐるぐると思考を巡らし、巡らせた結果悩み、そして苦しみ、最終的に追い詰められて、それから晴子さんへの忠誠心が高じて穴にはまるのが見たかっただけなのだ。

俺が勝手に自滅する様を見たかったからこそ、俺に罰ゲームの決定権を渡したのだ。本当に恐ろしい人だ、晴子さん。まるで俺の思考の一周外を走っているようではないか。

本当に、いい趣味をしている。さすがは師匠だ、としか言いようがない。

「じゃあ、さっさと料理つくって、それ食べたらすぐ罰ゲームだからね。早くしてちょうだい」

「…、了解です、師匠……」

言質は取られている。俺発案の一人町内十周ダッシュマラソン大会は、おそらく九時過ぎに開催である。

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