花見の終わりは目覚めとともに
俺が意識を取り戻したのは花見が終わり、その撤収作業が始まったころだった。昼間の陽光に温められた地面ももはや冷たくなっており、そこにずっと倒れていた俺の身体も、なかなか冷たくなっていた。
霧子に酒を飲まされた瞬間からすっぱりと記憶が途切れており、まったく、なにも覚えていない。おそらくだが、意識を失ってからすぐにこうして倒れ、今までずっとここに倒れ伏していたのだろう。硬いところにずっと倒れていたこともあって、全身がそこはかとなく痛い。
しかし、いったい俺が倒れてからどれだけ時間が経っているのだろう。何時何分に倒れたのか明確に確かめていたわけではないから分からないのだが、かなり夕焼けで真っ赤になっている空の様子から推測するに、おそらく一時間弱は倒れていたのではないだろうか。
「っ痛ぅ……、頭、痛ぇ……」
しかし動き出そうとして、頭がものすごく痛いことに気づく。まるで頭の内側からがんがんと殴りつけられているような、そんな痛みがずっと続いている。絶対アルコールのせいだ、もう絶対、飲まない。
俺は、これから一生涯酒と名のつくものには手を出さないことを誓った。なんでたった一口口にしただけで意識を失うはすさまじい頭痛に襲われるわで、こんな辛い目を見なくてはならないというのだろう。
酒は飲まない、死ぬまで飲まない、いや、死んでも飲まない。
だが、意識失っていたとしても、頭が痛くても、こうして目を覚ましたのだから片づけを手伝わないということはできないのだ。目の前でみんなが働いているのに、俺だけのうのうと倒れているわけにはいかないのである。
「霧子、志穂。片付けやってるんなら手伝うぞ。どこまで片付いてるか分からないけど、まだやることはあるだろ。どこに行けばいいか教えてくれ」
「あっ、ゆっきぃ。おはよ」
「幸久くん、起きたの? あの、平気? 頭とか、痛くない?」
「ちょっと痛いだけだから、平気。別に気にしなくていいからな」
「ごめんね、幸久くん……。あたしが無理に飲ませちゃったから、ちょっとおかしくなっちゃったんだよね……。ごめんね……」
霧子は悪いことをしてしまったと思っているのか、しゅんとした顔でにゅんとしている。確かにあれは、霧子にあるまじき行動であり、あんなことをしたのを覚えているのならばしゅん、ともにゅん、ともなるというものだ。
「だから平気だって、霧子は何にも悪くないよ」
そう、霧子はなにも悪くないのだ。すべては酒だ、あの飲み物がいけないんだ。あんなものが存在しているから、みんなに大変な災厄が降りかかったんだ。
くそっ…、世界中の酒が爆発してなくなってしまえばいいのに……!! そうすればきっと戦争もなくなって、世界に平和がおとずれるに決まっているんだ!!
「ゆっきぃ、さっきたおれたけどへぃき?」
「うぉっ!? あぶねぇ!!」
そう言って、志穂は丸めた巨大なブルーシートのロールのようなものを両脇に抱えながら俺の顔を覗き込んでくる。その動きに伴ってぶんっ! と容赦のない速度で振られるロールを、俺は頭を振って何とか回避するのであった。
もしあんなものがまともに頭を捉えたら、俺は再びこの地面に沈むことになるだろう。ようやっと目を覚ましたばかりだというのに、またすぐに気絶させられては敵わない。
「あっ、ごめんね」
「あぁ、平気だ。まだ片付け終わってないよな。何かやること残ってるか?」
「あのね、ゆっきぃはやすんでていいよ。おかたづけはね、あたしがみんなやっとくから。ゆっきぃは、ゆっくりお休みしててね」
「はっ? いや、意味分からんし…、ずっと休んでたんだから俺も手伝うけど……」
「いいの、ゆっきぃは休んでるの。あたしがゆっきぃのぶんまでぜんぶやるから。だいじょぶだよ、ちゃんとていねいに、なにもこわさないようにするよ」
「いや、いやいや、丁寧になにも壊さなきゃいいってもんじゃないっていうか。いや、だから、だからって俺がここでサボってていい理由にはならないだろ。っていうかなんだよその気遣い、怖いよ。もしかして実は俺の知らないところで大問題を起こしてて、それを隠してるとか? お前、何かしたのか?」
「むぅ、なんにもしてないもん。あたしは、ゆっきぃのかわりにがんばろうっておもったからそうするだけなのに……。みんなにいっぱいごめいわくかけたから、つみほろぼし~するの」
「そ、そうか、偉いな、いい子だぞ」
「ゆっきぃがね、いけないんだぞ! ってしかってくれたからね、なにがいけなかったかわかったの! ありがと、ゆっきぃ、すきっ!」
「へ、へぇ? そうかぁ?」
「うん! あたし、ゆっきぃのぶんまでがんばるからね。ゆっきぃは、そこでメイメイといっしょにおやすみしててね。あとでオレンジジュースもってきてあげるね」
「あ、あぁ…、わ、分かった。それじゃあ御言葉に甘えて、ちょっと休んでるわ……」
「うん!」
そして俺は、シートが積まれて一段高くなっているところに、両手が荷物でいっぱいの志穂がぐりぐり頭で押してくるのに負けて、腰かけるのだった。なんかこう、みんなが働いてるのに一人休憩してるのって慣れないな。
というか、俺がいつ志穂のことを叱ったというのだろうか。俺はさっきまでずっと倒れてて意識がなかったんだぞ。何かしたって、そんなことないだろう。
それとも、何かしたのか? まずいな…、まったく身に覚えがないぞ。俺、何したっていうんだ。
「三木、もう平気なのか?」
俺が手持無沙汰に、しかしあれだけ志穂に座っててね! と言われたわけだし勝手に働きに出るわけにもいかず困っていると、志穂と同じように両手に巨大なシートのロールを持った姐さんが通りかかった。
二人とも基本的にパワー系だから、回ってくる仕事が似たようなものなのだろう。きっと二人で、あれだけたくさん敷いてあったシートをみんな片づけてしまうくらいの働きを見せるに違いない。
「姐さんこそ平気か? さっきはだいぶヤバそうな感じをひしひしと感じたけど」
「あぁ、私はもう平気だ。三木、お前のおかげですっかり目が醒めた」
「俺のおかげ……?」
まただ、志穂も姐さんも何を言っているんだろう。何度も言うが、俺には何の覚えもない。
「あぁ、そうだ。あのときは無様に取り乱したりして本当にすまなかった。お前にフォローしてもらって頭が冷えたし、少しだけ心も軽くなった。何をしているんだ、と頭ごなしに叱られるよりも、助けになったぞ」
「そ、そう?」
「しかし、先ほどの様子はまるで別人のようだったな。いつもの様子を見ていてもしっかりしているとは思うが、何かこう、さっきはレベルが違ったというか、何というか、あぁ、自分でも何を言っているかよくわからないのだが、いつもとは様子が違っていたんだ」
「なぁ、姐さん…、俺ってさっきまでずっとそのあたりで倒れてたんじゃないのか? 俺、酒はほんとに全然飲めなくてさ、ほんのちょっと飲んだだけでも意識がなくなっちまって、さっきまでの記憶も全然ないんだ」
「いや、一度倒れた後すぐに起き上がって、皆藤を叱ったり私をフォローしたりして、それからまた倒れたんだ。本当に何も覚えていないのか? あんなにはっきりとしゃべっていたのにか……?」
「ごめん、ほんとに全然覚えてないんだ」
実は、前に酒を飲んでみたときにも似たようなことがあった。そしてあのとき以来一度も酒は飲んでいないから、こういうことがあるのは二回目、ということになるのだろう。
あのときは、俺が目を覚ましたときのおじさんたちの様子がかなりおかしかった。なんというか、何かを恐れているような、あるいは畏れているような。
当然、そのときも俺はアルコールにやられてすぐに気を失っていて意識はなかったので、何が起こったのかは覚えていないわけで、事実関係はまったく分からない。ただ、全員がそろって、まるで口裏を合わせたように「なにもなかった」と言うから、なんとなく、といった程度の違和感を覚えたわけだ。
しかし、あるいは、おじさんたちの様子がおかしいと感じたのも、ただ俺が思い違いをしているだけなのかもしれないが。
だが、今度はどうやら違うようだった。姐さんはおじさんたちのように「なにもなかった」とは言わない。明らかに何かがあったらしいのだ。
「なぁ、姐さん」
「なんだ、三木」
「俺さ、さっき何か言ってた?」
おじさんたちがまともに応えてくれなかった質問にも、姐さんならば応えてくれるかもしれない。まぁ、ここで起こったことがあのときも起こっていたという保証はどこにもないのだが。
「そうだな、先ほども言ったが、いつもよりもよりしっかりしている印象を受けた。しかし、逆にいつもよりも大らかな感じもしたな」
「大らか? それ、どういうこと?」
「ん? 厳格なのだが、しかしそれと同じようにいい意味で適当というかだな」
「何か言ったから、そう感じたのか?」
「そうだな、細かいことに捕らわれないでポジティブに考えろ、みたいなことを言われたぞ。私がただ自分を責めていたときに、一つのミスに固執して後悔し続けるのではなく、それを次に生かせと言ってくれたのが、とても心に残っている。あとは間違えてしまったことが悪いのではなくて、間違えてしまったことを認めず悔いることをしないのが一番いけないとも、言っていたか」
「…、誰だ、それ……。ほんとに俺か……?」
あまり自分で言いたくないことだが、俺はそんな達観したようなことは言うことができない。そんな、まるで老境に入ったような、途方もないような経験に裏打ちされたようなことを言えるほど、俺は大人ではないのだ。
まだ目の前のことが気になってしまうし、失敗することを気にしてしまうし、間違えること自体を恥じることも多い。
そんな、自分では思いもしないことを言っているなんて、それも酒癖が悪いの一言で済ますことができるものなのだろうか。というか、そこまでいくとまるで別人が乗り移っているような、そんな気すらしてくる。
「あと、まるで別人のようだといったのは、言っている内容だけのことではない。話し口や態度なども、いつものお前とはまったく違うものだったように思う。まるで悪魔憑きか何かのようで、立派だと思う反面少しだけ不気味でもあった」
「そ、そんなにか……」
しかし、姐さんは悪魔憑きのようだったといったが、そんな非科学的なものは存在しないわけで、まぁ、これも酒癖が悪いというやつなんだろう。だってそうだろう、幽霊とかお化けとか、精霊とか神とか、そんなものは存在しないんだ。いかに姐さんがそんな感じだったと思ったとしても、だからといってそういうものが存在していると認めるのはどうだろう。
人格が変わるほど乱れるなんて、なおさら酒は飲まない方がいいみたいだ。そんな、意識を失っている間の自分の発言にまで責任を持つことはできないからな。
「ま、まぁ、変なことはしなかったみたいだし、よかったよ。うん、これからは絶対に酒の類は口にしないように気をつけます」
「それは、私もそうだな。今回、不本意ながら不注意で酒を口にしてしまったが、その危険さがよく分かった。これからはもっと真摯に気をつけていくことにする」
「お互いに気をつけような、姐さん。姐さんも、かなりヤバかったからさ」
「それは、そうだな……。あんなにぼろぼろ泣いたことは、小学生に上がってから一度もなかった。あのように情けないところを見せることになるとは、恥じ入るばかりだ」
「あぁ、…、そうだね」
俺としては、むしろその後の、執拗に自分が女だと俺に確認させようとしていたことの方を言いたいのだが、しかしそこをあえて姐さんが避けたのだ、わざわざ突っ込んでいくこともあるまい。というか、姐さんはあれを口に出したくないと思っているんだろう。それをあえて掘り返すなんて、乙女を辱めるようなことをしてはいけないのである。
「まぁ、私がお前に迷惑をかけたことは確かだ。まだ頭が痛いだろうし、もう少しの間だけ休んでいろ。三木は準備からなにからいろいろがんばったんだから、お前の分の片付けは私たちがやっておこう」
「あぁ…、悪いな、姐さん」
「ただ休んでいるのも居心地が悪いだろう。まだ起きてこない持田の介抱でもしていてくれ」
「分かった、そうするよ。悪いな」
「気にするな、私が好きでやることだ」
そうして、姐さんは花見の片づけ作業に戻っていくのだった。俺はその力強い後ろ姿を見送りながら、まだ敷かれているシートに横になっているメイのそばに行き、その眠りが安らかであるように、ポンポンと軽く肩を叩いてやることにした。
枕になっている俺の上着は頭の下から抜き取って広げ、掛け布団の代わりにかけてやることにし、上着の代わりの枕には、多少寝にくいかもしれないが、俺の脚を貸してやることにした。残念ながら女の子のもののように柔らかくはないが、しかしまぁ、地面よりはまだマシだろう。
「ゆっきぃ、はい、オレンジジュースだよ」
「あぁ、さんきゅ」
「おかたづけ、いってきま~す」
「おぉ、行ってこ~い」
それから間もなく、志穂は本当にオレンジジュースを持ってきたのだった。差しだされたので反射的に受け取ってしまい、受け取った手前、自分で飲めばいいよ、と返すのもおかしいわけで、俺はそれを一口含み、こくん、と飲み込んだ。
あっ、なんかこのオレンジジュース美味いぞ。志穂が遊びに来たときのために一本買い置きしとくか。
頭のメモ帳に、その商品名をメモする。なんとなく、意味もなくふと、平和だなぁ、と思った。