抵抗×飲酒×異変発生
「あ…、姐、さん…、なのか?」
俺は、そう尋ねずにはいられなかった。俺の目の前には、体育座りで小さく小さくなっている、一人の女の子がいた。
黒々とした艶めく緑の黒髪は肩口に届きそうなところでそろえられている。
目の辺りはかすかに赤くはれており、今こうしてしくしくと、さめざめと泣いているだけではなく、少し前からずっとそうであることが分かる。
膝を抱えている左手と逆の右手には、五百ミリリットルの大きな缶が握られている。握る手に力が込められているのか、缶に印刷されているロゴが微妙に歪んでいるのが分かる。
一目見て、弱々しいと思った。それは俺の中にある姐さんのイメージの対極であり、その様子から姐さんをイメージすることは難しいことだった。
「風間、紀子さん…、ですかぁ……?」
しかしそこにいるのは、それでも姐さんなのである。いつでも凛としていて強いしっかり者、という一年かけて築かれた強固なイメージからかけ離れていても、それでもそこに座り込んでいるのは姐さんなのだ。
「あぁ、三木…、か」
姐さんの首が、ぐりっ、と首に負担がかかりそうな少し無茶な挙動を見せる。そしてその視界に俺を捉えたようで、ぼんやりと空気に溶けるうわごとのような声で俺の名前を呼んだ。
見る限り、目が虚ろである。まるで暗闇にいる猫のように瞳孔が開いており、きっと死んだ魚のような目というのは、こういうもののことをいうのだろう、と俺はそのときふと理解した。
「大丈夫…、か?」
大丈夫でないことは、その様子を見ればすぐに分かるのだが、しかし俺はそう聞かずにいられなかった。少なくともそんな目をしている姐さんを見たのは、これが初めてのことだから。
「三木…、そうか、三木か……」
ゆらりと、まるで幽鬼か陽炎のように立ち上がり、そして次の瞬間には俺の目前にいる。間合いを詰められる、と思ったときには、すでにそれどころか肩に手まで回されていた。
いつもだって俺なんかよりずっと動きのキレはいいのだが、しかし今は、そんな次元を超えている。俺の理解できる動きの速さを、一回りも二回りも上回っているような、そんな感じがした。
「あぁ、私はダメだ……。まぁ、座れ、三木」
そして、凄い力をもってしてその隣に座らさせられるのだった。姐さんは変わらず体育座り、俺も同様に体育座りを強いられる。スラックスからはまだ洗濯したばかりのような匂いが、どことなく漂っている気がする。
背中にはまだ志穂がくっついているし、後ろには缶を持って今までにないほどに笑いながらプルトップと戦う霧子が立っているし、横ではしくしくと体育座りの姐さんが泣いている。
なんだ、この状況。なにか、いや、なんでか分からないんだけど、なんか怖いぞ……。
もう、さっきは逃げられなかったけど、今度こそメイを連れてきっちり逃げたいんだが……。
「いいか、三木。お前はよく分かってないみたいだから、もう一回だけ言っておくぞ……」
そして姐さんは、涙をぬぐうとところどころでしゃくりあげながら話を始めてしまった。姐さんの拘束から逃れて、志穂を俺の上から下ろして、それからメイをピックアップして逃げるというのは、さすがに無理な気がしてきた。まず最初の姐さんの拘束から逃れるっていうのが、そもそも無理だった。
「ゆっきぃ~。あたし、ゆっきぃん家に行きた~い」
「きゃは、すぐだから、すぐに開くからね。ちょっと待ってねぇ? きゃはは」
志穂は頭上ではしゃいでいるし、霧子は後ろでまだかすっ! かすっ! とプルトップと戯れている。しかし俺はそんなことよりも姐さんの話に集中しなくてはならない。そうしなくては、何かが危ない気がするのだ。
「知っているか? 私は女なんだぞ?」
「し、知ってる知ってる」
「本当に知っているのか? 本当に分かっているのか?」
「姐さんが男だなんて思ってないって。どこからどうみても女の子だよ。絶対、間違いない」
「絶対…、間違いなく…、男だっていうのか…、そこまで言うことはないだろう! あんまりだっ……!」
そして姐さんは、手に持った缶をひっくり返してその中身を喉の奥に流し込むと、ぶんっ! と向こうの方に投げて膝に顔を埋めてわっ、と泣きだしてしまった。俺の言葉がどうしてそんな風に姐さんの中で変換されてしまったのか、俺にはさっぱり分からない。
なんだこれ、何が起こっている。この理不尽さ、まるで酔っ払いのようではないか。隣家の酔っ払いが家にやってくるときも、おおむねこのような理不尽な状況にさらされるので、こういうことにはどことなく覚えがあるのである。
姐さんが酒なんて飲むわけないだろう、と思いふと放り投げられた缶に目をやって、そしてそれが酒の缶であることに、いまさらながら気づく。酒だよ! 姐さんも飲んでるよ! じゃあ、あれか! 酔っ払いか!
「姐さんは、女の子だって! 自信持てって!」
「自信なんて持てるか! どうしたら自信なんて持てるというんだ!」
「決めた! あたし、もぅおりないよ。ゆっきぃの上でいきていくよ!」
「にゅ~? おかしぃなぁ、開かないなぁ……。にゅん、もうちょっと待ってね? 幸久君?」
志穂も霧子も騒いでいるが、しかし姐さんがそれどころではない。どこかよくわからない、おかしなところに思考がハマりこんでいるようだった。
「私だってな、女らしくしようと頑張っているんだぞ! それなのに男たちが風紀委員をやっている女は怖いなどと私を避けるから、女の子ばかりが寄ってくるではないか! なんで私が女の子に告白されないといけないんだ! そんなことされても、うれしくないんだぞっ!」
「姐さんは女の子らしいよ。かわいいよ!」
「嘘だぁっ! 三木が私に嘘を吐く! あんまりだっ!」
そして再び泣きだしてしまう。もうどうフォローしてもダメなのだろうが、酔っ払いなのだから仕方ない。だがしかし、いくらフォローしても無駄だとしても、ここで姐さんを放っておくこともできないのである。
「ゆっきぃ、ふつつかものですが、よろしくね! これからは、ずぅっといっしょだよ!」
「開・い・た~♪ 幸久くん、お待たせ~」
「どうしたらお前は私が女だと分かってくれるんだ……。三木…、教えてくれ……」
「いや、俺は姐さんが女の子だってことは分かってるって。男だなんて、全然思ってないからさ」
「なんで三木は私に嘘を吐くんだ! 三木は、私のことが嫌いなんだぁっ!!」
「あっ、でもトイレとかおふろとかどうしたらいいのかなぁ。いっしょに入るのは、ちょっとはずかしいなぁ」
「にゅ~、ほら、幸久くん。手、放してくれないと飲ませてあげられないよぉ。手を放してよぉ」
「よせ、霧子、俺は飲まない。飲まないからそれを地面に置いて、それからそこから三歩離れなさい。姐さんも落ち着いて、泣かないでくれ。女の子に泣かれるのは、苦手なんだ。っていうか志穂、お前は下りろ!」
肩の上でわきわき動き回っている志穂を下ろそうとしながら、ようやくプルトップとの戦いに勝利した霧子が俺にそれを飲ませようとするのを左手で押さえながら、泣いてしまった姐さんを右手で慰める、という神業的な並列作業ぶりを見せる俺である。
どうしてこんなにがんばっているのか、分かったものではない。
「にゅぅ…、幸久くんってば素直じゃないんだからぁ……。しょぅがなぃなぁ、じゃあいつもみたいにしてあげるぅ」
「いつもってなんだ、俺は霧子と酒を酌み交したことはないぞ……。っていうかなんで自分で飲んでるんだよ、俺に飲ますんじゃなかったのかよ!」
霧子が酔いに任せてか、謎の行動に出ているのだが、しかしそこにばかりかかずらっていられるほど、俺の状況は甘くなかった。霧子が勝手に自己完結してくれるのならば、それはそれで悪くない。その分だけ他のことに意識を割くことができる、というものだ。
話をしているようであり、しかしまともにそれが出来ているとは言い難い。そういう通常の測りから逸脱したよく分からない存在こそが酔っ払いなのであり、そういうものは放っておくに限る。時折我が家に来襲する隣家の酔っ払い女も、よくそうやって対処しているのである。
「どうしても私が女ではない、とそう言い張るのなら、お前自身の手で確かめてくれ! 何をしてもいいぞ!」
「姐さんが女じゃないなんて、俺がいつ言った。確かめないから脱ごうとするな! 脱がないでっ!」
しかし、いかに霧子が脱落したことによって俺が両手を使うことができるようになったとはいえ、位置取りの関係で姐さんの脱衣を決定的に止めることはできないのである。唯一の救いは姐さんが俺の肩に手を回しているので右手一本で脱衣を行なっているのであり、しかもその手つきはおぼつかないもので、スピード脱衣というわけにはいかない、というところだ。
急に話は変わるが、姐さんはスタイルがいい。霧子は、他の家族はみなスタイルがいいというのに、まるでなにかの呪いでもかけられたように胸がふくらまず、そのことを悩んでいるようである。志穂とメイは、身長相応というか、成長相応のスタイルで、詳しく言うのははばかられるが、慎ましやかな体型をしている。
しかし姐さんはそれとは一線を画するといってもいいだろう。風紀委員会で鍛えているのか、その体はとても引き絞られていて、それでいて出るところは出ているという、何だこれ、と言いたくなるようなプロポーションである。当然だが、胸も非常に女性的なふくらみを帯びているわけであり、具体的なカップ数で考えてもCとかDとか、いやそれ以上にありそうな感じである。
つまり、こうしてタイを外してボタンを一つ、二つと外していくと、見えてきてしまうのである。霧子ならばぺたっとブラ的なものが存在しているだけの場所に、下着を大いに押し上げてしまっている、その、真っ白い二つのふくらみが。それどころか、二つのふくらみがせめぎ合い、山と山がぶつかり合って谷ができるように、谷間とでも呼ぶしかない代物がそこには形成されているのである。
なんだこれぇ……! こんなの、雪美さんがやけに胸元の開いている洋服を着ていたときにしか見たことがない……! あっ、いや、雑誌のグラビアとかでも、見たことがあるかもしれない。
そんなもの、男がいかに頑張ったところで、逆立ちしたってできるようなものではない。それはもう、女の子の女の子たる象徴であり、外見的に見て姐さんが男などではない最大の証拠なのである。それ以外にも姐さんの女の子らしいところなんていくらでもあるわけで、男だと思うなど、ありえないのである。
「にゃ~、ゆっきぃ、あたしなんかトイレいきたいかもぉ……」
「じゃあ下りていってこいよ!」
「だめぇ、ゆっきぃからおりたらおばけにつれていかれちゃうよ、おばけの国に。だからいっしょにき~て~よぉ~!」
「お前ならお化けに襲われてもどこかに連れて行かれたりしない、っていうか勝てるよ! 行ってこいよ!」
「や~だ~、ゆっきぃも来るのぉ~!」
「げほっ……!? よせ、志穂、首を、絞めるなぁ……!!」
視界の端に映るのは志穂の紺のソックスに包まれている生足。器用なことに志穂は俺の背中の上で寝転がるようにしながら、巧みに左右の太ももで勁動脈を絞めてきたのである。酔っているからか、遠慮も呵責もあったものではなく、完全に極まっている。冗談抜きで、マジで苦しい。肉付きの薄い少女の太ももが、とか考えてる場合じゃない。
しかし困ったことに俺は少なくとも腕一本を姐さんに割いていなくてはならないので、志穂に回すことができるのは左手一本だけである。まさか、左手一本で志穂をどうにかしなくてはならないとは。だが、まさか本当に左手だけで志穂をどうにかできるなどと、思ってはいないわけで、せめてもの足掻きにタップくらいはするのだった。
そして志穂は、俺のタップに気づいてくれたのか、腹筋だけで起き上がると、少しだけだがその足の締め付けを緩めるのだった。俺が助かった、とわずかに気を抜いて次の瞬間である、タップするために首元にもっていっていた腕が、首を締めつける足に巻き込まれ、そのまま流れるように三角締めに移行したのである。
これも完全に極まっている。立ち状態のまま三角締めを極められる日が来るなんて、たいていの理不尽には馴れている俺といえど、まさか思いもしなかった。
これは…、まじで、ヤバい……!!
「分かった、から…、後で、ついてってやるから!」
「うん、だからゆっきぃすき~」
俺が命の猶予と引き換えにそれだけ言うとすぐに志穂の三角締めが緩み、締めが解けたこともあって、ようやく息をすることができるようになった。辺りの空気はアルコール臭ただよう悪いものだが、それでも新鮮な空気を吸い込むことが出来るのは何事にも代えがたい喜びである。
そして、あやうく俺の意識を奪いかけた志穂だったが、三角締めを止めたと思うと、背中まで降りてきて、まるでおんぶをするような体勢になって俺の首にぎゅっ、と抱きついてくるのだった。こうして黙ってくっついている分にはかわいいんだから、いつでもそうしていてくれればいいのに、と思う。
何事も、命には代えられないのだから。
しかし一つ問題を片づけたとしても、俺の前には問題が山積しているのである。一つを退けたからといってほっと一息つけるわけではないのだ。
志穂がおとなしくなって霧子が静かになっているからといって、同じように姐さんの脱衣までもが止まるわけではないのだ。しかし今は両手が空いているのでさっきよりも積極的に姐さんを止めることができるのが、今唯一の救いであろうか。
「姐さん、女の子がそうやすやすと脱いではいけない! 俺は男だ! 男の前で脱いではいけない!」
「脱いではいけないだと……! 脱がずにどうしろというんだぁっ!!」
「俺は姐さんが女だって知ってるから! ちゃんと知ってるから! 制服、女物だから!」
「女物を着ているのが、そんなにおかしいか! やっぱり嘘を吐いているんだな、三木!! そんなに私を貶めて楽しいのか……!」
とりあえず止めるために姐さんの右手を両手で掴んでみたわけなのだが、しかし右手一本の腕力で俺は翻弄されていた。姐さんがぶんっ! と右手を振るだけで俺はそれに振りまわされているのである。
ばかな、と思うがしかしうちの風紀のエースは下手な力自慢よりも強い。そもそもからして、俺程度の力でどうこうできるほど温い相手ではないのだ。
そして振りまわされているうちに、右手を掴んでいたはずの俺の両手はいつの間にか振り払われており、逆に俺の両手が姐さんの右手一本に束ねるように掴まれていたのだ。何が起こったのかは分からないが、そうなってしまっているんだから、そうとしか言いようがない。
「触れば分かるだろう! 胸でも腰でも尻でもどこでも、触れば私が女だと分かるだろう! さぁ、触るんだ! 触って私が女だと分かってくれ!」
「あぁ~、手を放せ~! 触らせようとするな! やめろってぇ~! 触らなくても知ってるって! そんな柔らかそうなおっぱい、男に付いてるわけないって、知ってるからぁ~!!」
姐さんのパワーと握力は強すぎるので俺程度がそれを振り払うことはできないが、しかし姐さんの力に抗うことくらいはできる。俺は振り払うことではなく、両手を自分の方に引き寄せることに全力をつぎ込んだ。もはや全ての体重をかけるほどの抗いによって、俺は姐さんのパワーとなんとか拮抗することができていた。
ここで下手に触ってしまおうものならば、別に誰が見ているわけではないのだろうが、しかし心情的に明日からクラスでの居場所を失ってしまうことになる。
あるいは明日から姐さんの顔をまっすぐに見ることができなくなってしまう。それは俺の望むところではなく、そうならないためには諦めて触って、それから責任を取って姐さんと付き合うか、こうして抗い続けるかのどちらかなのである。
俺だって姐さんだって、こんな仕様もない理由で男と女として付き合うのは御免である。いや、姐さんと付き合うこと自体が御免というわけではないのが重要であり、いや、そんなこと考えてる余裕なんてない!
「ま、けるかぁ~!」
「幸久くぅ~ん」
すると今まで静かにしていた霧子が、再びこちらに働きかけをみせる。さっきまでは俺に飲ませようとしていたのに、いつの間にか飲み始めていたそれを持ったまま、ひたっ…、ひたっ…、とこちらに這い寄ってくる。
目は完全に据わっている。晴子さんにそっくり。怖い。
「霧子…、あの、今はちょっと忙しいから、あとにしてほしいんだけど……」
言葉も、自然と丁寧なものに変わる。
「幸久くんわぁ~、あたしの方、見なきゃダメなのぉ! 最近あたしじゃない娘のこと、見過ぎぃ!!」
缶を持っていない方の手が、俺のあごに添えられる。何かを言う前に、遠慮のない力の込め方で首から上を霧子の方に向けさせられる。首の骨が、少しだけ嫌な音を立てたような気がした。
「かはっ!? 霧子!? どうした!!」
「あたしはぁ~、幸久くんにも、ふつうにジュース分けてあげたいだけなのにぃ~、幸久くんがあたしにいじわるばっかりするからぁ……」
そう言って缶の天地を返し、ちゃぽちゃぽという程度に残っている中身をあおる霧子。しかしすぐに飲み込むことはなく、少しだけ頬をふくらませている。それを見て、昔は不満なことがあると、なにも言わずにこうやって俺が気づくまで頬をふくらませてふてくされてたっけ、と懐かしいことを思い出した。
「俺が何をした、霧子。なぁ、霧子、教えてくれ。そうすれば直せるところは直すように……」
そう言って俺が口を開いたところに、なんと霧子がキスをしてきた。おでことか頬とか、そういう間接的なところではなく、口に直接、である。
俺がそのことを、霧子にくちびるを奪われたということを認識して理解するまで、わずかに時間を要した。そしてその間を縫うように、その飲み物本来の冷たさと霧子の咥内の生温かさの混ざりあった液体を流し込まれる。
最初に感じたのは安っぽいレモンの香り。流し込まれたのはレモン味のチューハイというやつらしい。
霧子のしたことにしては、なかなかウィットが効いてると思う。ファーストキスはレモンの味…、ということだろうか。
そしてたったの一口で、俺の視界は揺らいだ。
たったの一口で、俺の思考は完全に停止していた。
姐さんの力に抗うために逆方向にかけていた力も、当然込めることができなくなり、俺は姐さんの腕力に振りまわされるように体を宙に浮かせることになり、今いるのとは、姐さんをはさんで逆の方に、どさっ! とその身を投げ出すことになる。
痛みは感じない。痛みよりも、体が熱い。
まるで体の内側から湧き上がってくる熱に浮かされるように、頭の中がぼぅ…っとして、もやがかかったようになってしまう。
「あれぇ~、ゆっきぃ、どぉしたのぉ」
「きゃはは、幸久くぅ~ん、寝ちゃったのぉ?」
「ほら、三木、確かめてみろ! 私はこれでも男か!」
外に向かっての感覚は、なにも役に立たなくなっている。ただ内側に向かっての感覚だけが、イヤに研ぎ澄まされていくことだけは分かった。
瞼が重い……。
体を起こすことができない……。
もう、無理だ……。
俺は、重すぎるまぶたを開いておくことができず、諦めて瞳を閉じた。
…………
だいぶ昔のことだが、一回だけものは試し、ということで庄司のおじさんに酒を飲ませてもらったことがある。あのときはアルコールというものに少しだけ興味があって、おじさんに広太といっしょにお願いしてみたのだ。
しかし、毒見的に最初に飲んだ広太はけっこう飲めたのだが、俺はほんの一口口に含んだだけで意識が揺らぎ、なんとか飲み下した次の瞬間にはブラックアウトするように意識が失った。
それ以降、おじさんは断固として俺に酒を飲ませなくなった。いや、それどころか、将来大人になっても絶対に飲んではいけませんと強く厳命されてしまったほどだ。
意識がないうちに何かしてしまったのか、と聞いても、おじさんもおばさんも、なに一つとして教えてはくれなかった。だから俺はそれ以降アルコールをアルコールとして口にしていない。料理で酒とかワインとかを使うことはあるけれど、それもきちんと熱で飛ばして使っている。
自分が何をしてしまうか分からないというのに、危険なアルコールを飲むような愚行は、今まで断固として犯さなかった。
だが今、霧子の不意打ちで飲んでしまった。
しかし、俺もまさか、あれから何年も経っているというのに、ほんの一口でこんなことになるとは思いもしなかった。
もう、意識を保つことができない。
すいよすいよと眠っているメイの寝息だけが、シートに倒れ伏した俺の耳に妙に響く。
身体中が熱い。体を廻る血液が沸騰するような感覚。
血の内側に眠っていた何かが首をもたげ絡みつき、そのまま内側から全身に染み込んでくる。そんな違和感も、しかし今となっては感じない。
裏側から、自分という意識が塗りかえられるような、そんな寒気を伴うような感覚。
大きなものに…、自分が…、意識が…、呑みこまれる……!