表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
Prism Hearts  作者: 霧原真
第二十章
222/222

がんばれ、霧子ちゃん

「ついに霧子さんの番ですね、三木くん」

そしてその時というのは、いくら恐れたっていくら怯えたって、どうしたって訪れてしまうわけで。

「みなちゃんもがんばってくれたし、きりちゃんも一生懸命応援しないとだな、ゆきくん」

もちろん、俺はそれをただ恐れていただけではないし、いたずらに怯えてばかりいたというわけでもない。霧子が運動会でがんばっている姿というのは打ち身、擦り傷、切り傷を癒し、リュウマチ、関節痛を回復させる、万病に効く妙薬のようなものなのだから天地がひっくり返っても望まないということはありえないだろう。

「霧子ちゃん、やっぱり緊張してるのかしら。右手と右足が前に出てるわ……」

霧子が無難に活躍しそうな種目ーーまあ、玉入れ以外にそんなものはないのだがーーだったら、特に問題はないんだ。ただ霧子が懸命に頑張って、その結果勝ったとして負けたとして、どちらにしても友と笑いあい健康的に汗を流す霧子というのはどうにもいいものだ。

「…三木くんは、どうしたんですか、その、急に精神統一を始めて」

だが、今回はそうとばかり気安く言っているわけにもいかないのである。さっきつらつらと「ハズレ」の存在について考えていたが、借り物競争におけるヒヤリハットはそこのみにとどまらないと、その競技者が霧子である以上言わざるを得ないのである。

「精神を統一でもしていなきゃ、霧子のスタートを見守ってなんかいられないんだよ……」

天方流霧子術免許皆伝ーー霧子のお世話という荒行を通して俺は常日頃大きく飛躍し続けているのだーーである俺は知っている。霧子はこういう、所謂ところのよーいドン的なものが大の苦手であるということを。

借り物競争におけるヒヤリハット案件は、ざっと攫っただけで六つほどが思い至る。一つ目はスタート、二つ目は撒かれたカード地点までの走行、三つ目はカードの選択、四つ目は物を借りるための交渉、五つ目は借りた後のゴールまでの走行、そして最後にして最大の肝が「ハズレ」札についての懸念だ。

「みんなも見守っていてくれ、霧子がスタートのピストルにびっくりしないで走り始められることを」

「あたし思うんだけど、さすがに過保護なんじゃないかしら、三木くん」

「そうはいうが、よもや体育のときの霧子の様子を知らないわけではあるまいな、東堂」

この六つのヒヤリハットは、霧子の特質である二つの要因が重層的に絡み合った結果生じるものだ。

そう、それは緊張と不運の、まさにその二つである。

「もちろん霧子ちゃんがそこまで運動得意じゃないってのは知ってるわ。でもやってやれない子じゃないしがんばろうってやる気だって、とっても感じるわ。あんまり過剰に守りすぎるのも、霧子ちゃんの成長には良くないんじゃないかしら」

「マーベラス、素晴らしい、東堂には霧子術初段の段位を与えよう。だが深淵へと踏み込むには一歩足りない」

真実を述べよう。霧子は、実のところ運動神経が木っ端みじんに多重断裂しているような子ではない。基本的には何もないところで転ぶような子ではないーードジによるそれは、ここでは考えないことにしようーーし、一般的に言われるような運動がさっぱりできないという類の子でもない。

霧子は運動が得意ではない。しかしだからと卓球のラリーを一往復させることすらできないとか、ボーリングは投げれば投げるだけガーターだとか、バドミントンをしたらラケットがシャトルに掠ることもしないだとか、そういうわけではないのである。

「霧子は、やればできる子だ。だが、緊張がそのすべてを凌駕することが多くある、そういう生き物なんだ」

霧子のポテンシャルは、その九割九分九厘をプレッシャーに左右される。霧子が気負うことのない相手ーーつまり家族や俺の身内など、おおむね十年程度の付き合いがある人々だーーとの交わりにおいて、霧子の運動性能はちょっと運動が得意な小学校高学年女子に負けず劣らずのものがある。

しかしそこに一人でも、関係性がそのレベルにまで達していない人が混じったが最後、その性能は運動音痴の小学校低学年女子レベルにまで激烈な下降傾向を見せるのだ。

どうしてそこまで過激な乱高下をしてしまうのかと、それはもはや思考の俎上に乗せることすらナンセンスだと言わざるを得ない。そうだ、それはただ、霧子がテンパって本来のあるべき運動性能を発揮できていないーーそしてそこに天性のドジっ子っぷりが絡みつき、結果運動神経がみじん切りにされているような様相を呈すと、ただそれだけのことでしかないのである。

「どうしようもなく愛おしいとは思わないか」

「否定するつもりはないけれど、霧子ちゃんは三木くんからのその思いを素直に喜んでいるかしら」

だからこそ、体育祭というこの状況、延いては学校という場において、霧子がその本来のポテンシャルを発揮することはほぼ不可能と言わざるを得ない。それゆえ、霧子の体育の成績はあまり良好ではなくーーもちろん、真面目で頑張り屋の霧子は教師からの評価を全う以上に受けることが多く、最低評価を受けるということはなかったがーー、成績表をもらう時期にはいつもそこはかとなくしょんぼりとしていることが多い霧子なのだ。

しかしそれは個人競技に限ってのことであると、あるいはわずかながらそう付け加える必要があるかもしれない。当然、霧子がサッカーだけは抜群にうまいとか、バスケに限っては究極的にうまいーー背が高いのだから、それはもうどうしよもないアドバンテージのはずなのだがーーとかいうことはない、どれもそれなりにできなくはないというレベルだ。

「確かに、霧子の心も日々成長している。だからこそ俺は心の内でのみその思いを育んでいるつもりだ。子ども扱いするつもりはないんだから、霧子の前であけすけに言ったりはしないさ」

「うーん、そういう意味じゃないんだけど、あたしの言葉では三木くんには届かないってことなのかしら。幸村ちゃんはチャレンジしてみる?」

「ゎ、私からは、あの、大丈夫です……」

だが霧子は、クラス全員でやる競技とか、みんなでいっしょに同じことをする競技とかならそれなりに緊張することなく活躍することができるーー否、小学校の時分はそれすらもできなかった、それこそまさに成長の結果だと理解しなくてはならないーーのだ。そう、霧子が最強に得意な競技とは何かといえば、それはまさしく玉入れである。

霧子の得意なスポーツは体育祭の玉入れ。そういってしまうと、どうにも間抜けの感を免れないが、しかし歴然たる事実なのだから、そればかりはどうすることもできない。でも、この世界にたった一つでも霧子が楽しみながらすることができるスポーツがあってよかったと、俺はそれを心の底から思わずにいられないのだ。

「まあ、敵に塩を送るわけにはいかないものね。ふふ、でも果たして、それは霧子ちゃんにとって塩になるかしら、あたしには見当がつかないわ。ね、京香ちゃん?」

「卵焼き、塩と砂糖を間違えちゃったってこだな、いっくん。心配ないぞ、うちはしょっぱいのもあまいのも、どっちも好きだから」

「ふふふ、京香ちゃんには、本当の意味で言葉の意味が伝わらなかったわね。そういうところも大好きよ、京香ちゃん」

東堂と相羽のよくわからないやり取りを聞き流しながら、俺の視線はスタートラインで位置についている霧子へとそらされることなく注がれていた。まもなくだ、もうまもなく始まる、始まってしまう。

しかし、時は俺の覚悟など待ってはくれないもので。何度目かもわからない祈りの言葉を捧げ終わる前にドンッ、と而して号砲は打ち鳴らされてしまったのだ。

「きりちゃん、がんばれ~!!」

そもそも借り物競争に出てくるやつらってのが運動神経抜群のはずもなく、霧子のおっかなびっくりのスタートをもってしてもそう大きな差をつけられることもなかった。

「霧子ちゃん、無事にスタートできたわね、三木くん」

順位でいえば、霧子は七人中の六番目。いい順位ではないけれど、差がほとんどないこともあって、いい札を引けば一発逆転もあり得る位置取りだ。

「中長距離走とちがってコース取りで体を入れあうこともありませんけど、札の前はどうしてもごちゃつきます。大丈夫でしょうか、霧子さん」

「幸村、いいところに目を付けたな。実は俺もそれが心配だ」

借り物競争も他の徒競走とかと変わらず男女混合だが、そこまで各々の走力に変わりはないらしい。けっこうな団子状態でカードが撒かれた長机の前へと一団が七人がまとめてたどり着く。

一人また一人と適当にカードを拾い上げていく中、

「さすが、霧子は大物だな」

霧子はどのカードを引くかで大いに悩んでいた。

「きりちゃん、どれ引いてもおんなじだから、早く~!!」

後ろにいたはずの七番手のやつまでがもうすでに追い抜きつつ引いていったため、机の上に残るカードは十四枚。そのうち、引けるカードは一枚きり。霧子がその選択に悩むのは、その優柔不断レベルから考えれば当たり前のことでしかない。

霧子にとって伏せられて見えないカードの中から一枚を選ぶことは、どれかを適当にとるということではない。どれを取ったからと何が変わるわけでもないし、選びに選び抜き意思を込めて引いたとしても、書かれていることが変化するというわけでも当然ない。だがそれであっても、霧子にとっては「その一枚を選ぶ」ことは、ファミレスでどのメニューを選ぶかを決めることと同じレベルの選択に違いないのである。

「霧子さん……!!」

ええと、ええと。言いながら手が右に左にふらふらしているのが、まさしく手に取るようにわかる。そりゃそうだ、霧子は見えているものを選ぶ、つまり自分がどれを選ぶかを様々なメリットデメリットを鑑みて一つのものを選択することすら難しいのだ。どれを選んだらいいのかというメリットもデメリットもわからない、言ってしまえば目隠し状態で何かをさっさと選ぶなんてこと、容易にできるはずもない。

もちろん、目隠しされているのだからどれを選んでも分かりはしないんだし同じではないかと、そのような正論は霧子の慎重さとビビりの前には通用しない。どれを選んでも同じとは、つまりどれを選ぶべきなのかわからないということで、霧子がそれを選ぶという思考自体に少なからぬ恐怖を感じている可能性すらあるというべきだろう。

「三木くんが、これまで甘やかしすぎたせいかしらねえ……」

東堂の呟きが胸に突き刺さる。その事実は、正直否めない。霧子が悩んでいると、どうしても誰かが手を差し伸べてしまう。それは俺かもしれないし、晴子さんかもしれないし、あるいは稀ではあるが雪美さんかもしれない。

『霧子ォッ!! いつまでもちんたらやったんじゃないわよォッ!!』

そう、こんな感じに晴子さんが、

「お?? 遠くから晴子さんの声がしたのだが??」

群衆のざわめきも、生徒たちの応援も、流れる実況音声も、すべてをぶち抜いて俺の耳には晴子さんの怒号が突き刺さった。

そしてそれは霧子にも同様であったらしく、先ほどまでのおどおどとした態度が消え、そこにあったのは背筋を美しく伸ばした堂々たる立ち姿であった。緩やかな風に撫でられたポニーテールをゆったりと揺らし、掲げられたそのほっそりとした白魚の指先には一枚のカードが、確かにそこにあるのである。

「び、っくりしたぁ……」

「急に遠くから、おっきい声で霧子ちゃんが怒られたわね……」

「霧子の姉ちゃんだ、怒るとおっかねえんだわ」

事実、晴子さんがどれくらいの頻度で霧子のことを怒るかというと、俺を十とすれば一くらいのものだ。しかし霧子がぐずぐずしているのは晴子さんにとって最もいら立つことであることは間違いなく、霧子がほんのそれだけしか怒られないーーあるいは、俺が怒られすぎなのではなかろうかーーのは常々俺のサポートあってこそなのだ。

もちろん、晴子さんも最近は大人の心持ちになってくれたこともあり、些細なことで怒ることは少なくーーどうしてか俺はほんの些細なことで怒られることが多くあるがーーなり、それに伴って霧子が怒られることは最近だとほとんどなかったはずだ。

「てか、晴子さん、あんなに自分の外面気にしてるのに、こんなでかい声で怒ったりして、そんなに怒ることだったか……?」

まあ、ちんたらと優柔不断にしていることが最も許せない晴子さんなのだから、あるいはそんな霧子の姿が、まさかのこのタイミングで晴子さんの繊細にして華麗なる堪忍袋の緒をぶった切ったのかもしれない。しかしそれでも、

「三木くん、霧子さんが……!!」

切羽詰まった幸村の声に、俺の思考は晴子さんから霧子へと切り替わる。霧子に向けていた視線にも、改めてはっきりと意識が乗った。

そして、俺は間違いもなくその光景を、どうしようもなく鮮明に目にすることになる。霧子は、自分が選んだカードの内容に目を遣り、そして力なくグラウンドに膝からーーぺたんと、可愛らしい様子ではない、まるで地崩れと見紛うほどだったーー崩れ落ちたのである。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ