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Prism Hearts  作者: 霧原真
第二十章
219/222

interlude05 体育祭へ訪れた人々

今日もまた、目が覚めました。時間を確かめて、身体を起こします。

布団を畳んで押し入れに上げると、お風呂場に向かいます。まだ寝汗をひどくかくような陽気ではありませんが、一日の初めに幸久様とお会いするのですからできるだけ綺麗な私でいたいと思うのです。

もちろんそれはただの自己満足でしかないのですけれど、あるいは何の意味もないのかもしれないけれど、それでもそうしたいと私自身が思うからこそなのです。

「おはようございます、かりん様」

リビングでは、広太さんがすでにお仕事を始めていらっしゃいました。時間は四時になるよりも少しだけ早いでしょうか。もちろん、いつもこの時間に目を醒ますような早起き——広太さんは、どうなのでしょう、いつも誰より早く起き出してお仕事をしてらっしゃいますから——ではありません。

今日は、そう、特別なのです。

「おはようございます、広太さん」

「本日はこの時間でのお目覚めと伺っておりましたので、お湯殿の支度も整えて御座います」

「ありがとうございます、それでは少し失礼します」

お風呂場の戸を閉めて、カチリと鍵を——一つ屋根の下で暮らすようになり、幸久様からたってのお願いをされたのです、私は別に気にしませんのに——かけます。帯を解いてするりと浴衣を脱ぎ、洗い籠に入れて折戸を押し開きました。

浴室の中からうっすらと湯気が、立ち上りました。広太さんが少し前にお湯を打ってくれたのでしょう、肌寒さを感じることもありません。シャワーも初めから温かいお湯が噴き出します。本当にこういう気遣いができるのですから、広太さんはとても有能な執事なんです。

二見のお家にもたくさんの執事や女給がいましたが、広太さんほど有能な方はいらっしゃらなかったのではないかと思います。優秀な人材を抱えているというのは、家に取って大きな財産です。幸久様にとっても、彼は誇りなのではないでしょうか。私もいつか…、はっ!? いけませんいけません、欲深です。

「温泉でも引ければ、いつでも湯に浸かることもできますけど」

このような街中で温泉が湧くなんてことありませんし、それは無理な話だ。たっぷりとシャワーを浴び、丁寧に手で梳きながら髪を洗います。背にかかる長い髪は、私にとって長い時を共に過ごした大切な宝です。幸久様は長い髪を好きと言ってくれますからこうして今も共にあることができます。もしそれは好かないと言われてしまえばバサリと切るしかありませんから、幸久様がそうおっしゃるようなことがなく安堵したものです。

身体はよく泡立てた石けん——広太さんがよく泡立つ道具をいつの間にか用意してくださっていました、ありがたいことです——で軽く汚れを落とし、もう一度頭からシャワーを浴びて髪と身体に残った泡がしっかりと流せたことを確かめてからあがりましょう。

「すっかり目が覚めました」

やわらかなタオルで水気を拭い、髪もポンポンと優しく叩いて。ドライヤーは少し時間をかけて丁寧に。着替えとして置かれていたのは薄桃の小紋と、それに合わせた帯、それとこれから料理をするからと割烹着の用意までしてくださっています。

手早く着付けると、お台所に向かいます。お弁当の用意を、腕によりをかけてしなくてはなりません。もちろん、日々のお食事も幸久様に召し上がって頂くのですから心を込めて丁寧に、幸久様がおいしいと言ってくださるようにと思いを込めておつくりします。しかし今日は、特別なのです。

そう、今日は幸久様の体育祭——運動会と同じようなものだと教えていただきました——の日なのですから。

運動会の日というのは、家族は豪勢なお弁当を携えて応援に行くものと相場が決まっているのです。ですから、幸久様が大喜びしてくださるよう立派なお弁当をこしらえなくてはなりません。だからこそ、今日ばかりはいつもより一時間以上早起きをしたのです。

「よぉし、がんばりますっ!」

幸久様が大好きなものでいっぱいの、最高に喜んでもらえるお弁当をつくりあげてみせます!!


…………


ゆきのガッコについて、とりあえず座るとこの算段が済んで、ひろがシート広げてくれたからあたしはとにかくゴロンとそこに寝転んだ。

「おー、いいねいいねー。いい感じじゃん」

とりあえず広さは合格。何人かが座って、荷物を広げて、あたしが寝転んで、その上で少しごろんと寝返りを打っても問題ないくらい——てか、これ以上大きいとさすがに周りから顰蹙ってか——の十分な広さのシート。そして何より、寝転んでも背中が痛くないってのが最高。

「ご満足いただけたようで、何よりです、弥生様」

「うむ、良きに計らえ、ってか」

気分はご主人様だ。でもま、ほんとのとこは裏口で餌付けされた野良猫だって分かっちゃいるけどさ。

はてさて、ひろはビデオ撮影だってこれからどっかに行っちゃうとして、さ。りんちゃんはゆきのとこに行っちゃったけど、少ししたら戻ってくる。昼前にゆきのお友だちの家族の人が来るってのは、さっきひろから聞いた。

となるとだよ。そのお友だちの家族ってのが来るまではりんちゃんと二人っきりってことなんだけど、それは不味いぜってな具合で。りんちゃんは優しすぎるし、あたしのお世話をし過ぎる。

となると、あたしゃ早晩飲み過ぎて眠っちまうって寸法だ。うーん、参った、一応応援に来たって名目なんだから、寝こけてるわけにもいかないよなあ。

「それでは弥生様、私はビデオ撮影の拠点作成に向かいます。あとはよろしくお願い致します」

「おっけおっけ、任せちゃってちょうだい、このおねーさんにお任せってさ」

ま、そうなったらそうなったってことだ。

ごろんと寝転んだまま、ひらひらと手を振って、

「お弁当の包みは昼まで開かれませんよう、努々お気をつけ下さい」

ぎらんとひろの鋭い眼光に、ぎくっとお弁当の包みに伸びかけた手を引っ込める。

「だってぇ〜、ひろ〜。おねーさんさーぁ?」

「おつまみでしたら、そちらの青の巾着にご用意させて頂いております。ゆっくりお召し上がりください、ここは学校であればこそ、暴飲暴食などお控えくださいませ」

「ひろ〜、だから好き〜」

寝転がりながら、青の巾着とやらを見つけ出す。脚の指でその紐部分を引っ掛けて手元に寄せると、一にも二にもその中身を改める。

ざかざかと、中から出てくるのなんのって。数種類の味の柿ピーに、チーズ的なつまみがいくつか、サラミにチップスに、

「実は、弥生様のお荷物の方にも、忍ばせて御座います」

嘘だろうと、慌てて起き上がってクーラーボックスを開いてみれば氷と缶と瓶とが犇めく片隅に、驚くべきことに仕込まれた枝豆、絹ごし豆腐、胡瓜の漬け物、そしていくつかの自然解凍を是とした冷凍食品たち。

あたしが蓋を閉じたときにはいなかったはずの勇士たちが、そこにありったけ詰め込まれていたという事実。それにあたしは、どうしようもなう涙がこぼれてしまいそうだった。いや、もう、こぼれていたかもしれない。

「戦闘力、百八十万」

「お褒めに預かり、光栄に御座います」

「ひろ、結婚しよう」

「ご冗談を。執事は、畢竟家具に御座います」

「そうか、結婚するならば、ゆきか」

「…攻め手としては、そこが一つの正着かと」

…、一つ問いかけて、その前に一本空けてからとクーラーボックスから一つ取り出して。

「弥生様、お決めになられるのは、幸久様でございます」

「くふふ、まるで、奪ってくれと言いたげなほどの、その言葉選び」

正気かい。言いながら、とりあえず、あたしは一本目の栓を開く。

一本目は、兎にも角にもビールがいい。高くても、そんなのは関係ない。始まりという言葉ほど、ビールに似合う言葉もないのだから。

「幸久様が、…それをお望みになるのならば、私から述べる口上はございません、ですが」

ぞくっと、背筋に寒いものが走る。まだ一口目も含んでないってのにさ。

それがこっちに向けられるひろの眼光のせいだってのは、どうしたって理解せざるを得ない。だってそれは実はよく浴びせられるもの——実はけっこう気持ちいいんだよね、イケメンからの視線は冷たいほどいいってもんだ——だからね。

「どなたかが悲しまれるようなやり口をもし取るようでしたら、あるいは看過し得ないですが」

「へへっ、」

一口、缶を呷る。朝から飲む酒は美味い、晴れた空に爽やかな風だけでも最高の肴ってもんだ。

「マジになった弥生さんに、できないことはないさ、ひろ。でもま、マジになるようなことでもねえさね」

「然様でございますか。それでしたらば、私から申し上げることは特段には」

それでは。ひろは改めてそういって、ビデオカメラ片手に歩き去っていく。

「野良猫は、これくらいがいい気分、てね」

たまに寄って行って、たまに餌をもらって、たまにかわいがってもらって、それくらいがあたしには一番ちょうどいい。別に奥深くまで入り込もうってんじゃない、別にだれよりも一番になろうなんて気持ちもありゃしない。

世話好きで年下のお隣さんは、放っておいたって構ってくれるのだ。それに甘えるのが本当に正しいのかどうかは、考えてみれば簡単に答えを得ることが出来る問題なのだ。

「ま、最近世話になり過ぎだけどね」

そろそろお返しに勉強でも見てあげるか。たまにはおねえさんができるところも見せてあげないといけないよ。年上の威厳、なんて、そんなもんはどうでもよくって。

「猫の恩返し、てな具合さね」

軒先に、仕留めたねずみを置いておくみたいなもんさ。


…………


「いやはや、大変助かりました」

言いながら、私は本心から安堵していた。

「シートを持ってこなくてはならないとは、まったく失念しておりました」

ゆっきぃという少年について、その力量を図るために学校までやっておきながら、そういえばどうやって少年と見えるかということについてよくよく考えてはいなかった。

もちろん、馬鹿弟子を思念で呼び出して案内させるというのが最も手っ取り早い方法だ。しかし体育祭が始まって早々にその手を使うわけにはいかない。

勿論のところ、弟子の人権などないに等しく、師匠がやれといったらやるべきなのは間違いがない。しかし今回ばかりはそうするわけにはいかない事情があった。馬鹿弟子が体育祭で活動しているのを邪魔することは極力避けなくてはならない、少々込み入った面倒な事情があるのだ。

「頼まれた写真を撮ることばかり考えておりまして」

お恥ずかしい。言いながら、膝元に置いたデジタルカメラの入った巾着に目を落とす。私の今日の目的は少年の品定めという一点のみではないのである。私は馬鹿弟子の御母堂、由宇さん——身体が弱く伏しがちな彼女は長い時間外に出るということができず、それに加えて今日は定期検診の予定が被ってしまったそうだ——からの依頼に従い、アレの写真をたくさん撮らないといけないのです。

「いえ、どうぞごゆっくりなさっていってください。幸久様のご友人のお知り合いの方でしたら、いつでも大歓迎ですから」

「お気遣い、痛み入ります」

ぺこりと改めて頭を下げながら、目の前に座する女性と自らの幸運に感謝する。彼女は二見かりんさん、シートなど用意せずどうしたものかと思案に暮れていた私に、親切にも声をかけてくれたのだ。

「ですが、偶然というのはあるものですね。馬鹿弟子とそちらの、えぇと、幸久さんという方がお知り合いだとは」

「本当ですね、こういうことがあるから驚いてしまいます。あ、よろしければお茶をどうぞ」

ありがとうございます。受けとって、一口含む。うん、美味しい。

「でもさー、なんで道着に袴? キャラ立ってんね、よりちゃん」

「九重の闘師たるもの常在戦場を心がけねばなりません。そのための備えです」

このやたらと薄着の女性は、坂倉弥生さんとおっしゃったか。午前の陽が昇り切る前だというのに、気分良く酒を呷っているが、まあ、そういう日があっても構わないだろう。

「…飲む?」

「いえ、私はどうも西洋の酒は身体に合わず」

「日本酒もあるよ?」

「そうでしたか、それでは後ほど一献頂きます」

そうしたまえ。そう言ってニコニコと笑みを浮かべ、また一口ぐいと呷る。気持ちのいい酒だ、うじうじとしない酒飲みは良いものと相場が決まっている。

「そだ、写真撮るってさ、デジ一? ミラーレス?」

「いえ、私はそうしたものにはあまり詳しくないもので。こちらなのですが」

「あー、ミラーレスだねえ」

「もしかして使い方が分かりますか?」

「簡単簡単、教えよっか?」

「いえ、一応事前に教わりはしたのですが、どうも機械類に疎いもので」

「ふーん、じゃ、代わりに撮ったげるよ。ゆきのお友だちガールズの元気なちびっこいのを撮ればいいんしょ?」

「本当ですか? あ、いえ、これ以上ご厄介になるのは」

「いーっていーって、写真撮るの嫌いじゃないし、」

それに。言いながら、電源が入ったのか、カメラが動きをみせる。パシャ、パシャと何度かのシャッター音。

「ただお酒飲んでるだけより、何かしながらの方が楽しいし」

「…では、お言葉に甘えまして、よろしくお願いします」

不慣れで不得手な私が撮った写真よりも、この方が上手に撮ってくれたものの方が、きっと由宇さんもお喜びになるでしょうから。

「よーし、カメラつよつよおねーさんがいっぱい写真を撮ってあげようじゃないか!」

「弥生さん、さすがです、お写真もお得意なんですね」

「んー、てかね、おねーさんは、だいたいのことはできんのよね、ただやんないだけで。あと、なんでもやってみるはやってみんの、やったことないことやってみるの、好きだしね」

言いながら、断続的にシャッター音が続く。

「お、ちびっ子みーっけ。一番の問題は、飽きっぽいから何も長続きしないってことなんだけどさ」

「好奇心が旺盛でらっしゃるんですね、弥生さんは」

「ま、そうとも言う。む、落ち着きのないちびっ子め、スナップモードじゃ追い切れない……!!」

「ところで、二見さん、一つお伺いしたいことが」

「はい、なんでしょうか、依子さん」

ふと、自分の直感が正しいかと考えるが、まあそれもぶつけてみれば分かること。

「私は、馬鹿弟子の親友の男性で、アレがゆっきぃと呼ぶ方を探しております」

「ゆっきぃ、さん」

「はい。もちろん、私があの馬鹿弟子の交友関係を完全に把握しているわけではないのですが、アレが多くの友を得ているとは想像しづらい。となるとアレのいうゆっきぃさんというのが、御宅の幸久さんと同一人物ではないかと思うのですがいかがでしょう」

「…、おそらくそうではないかと思います。志穂さんは、そのゆっきぃさんのことを、なんと?」

「一番の友だちで、自分の十倍強く、闘ったら勝ち目はない、と」

「…、確証ではありませんが、同一人物では、ないかもしれませんね……」

「然様ですか、いえ、馬鹿弟子がゆっきぃさんを連れてくればそれで済む話なのですから」

「もし、幸久様が依子さんがお探しの方でしたら、如何なさるのです」

当然の疑問だ。そもそも、武に生の重きを置く人間が人探しをする目的といえば、大方仇討ちか果たし合いなのだから、心配も尤もというもの。

「私は、そのゆっきぃさんが十分な力をお持ちでしたら我が道場に招く心づもりです。ですので、どの程度の力量かと量るつもりです」

しかしそのような心配をするということは、ああは言ったものの案外同一人物だと思っているということなのかもしれない。

「依子さんは、ご自分のことを九重の闘師とおっしゃいました」

「おや、九重をご存知ですか。どちらかの門下で?」

「いえ、闘師としての武名のみを」

「ほう」

どこの界隈からにせよ、九重の武名を知る者は所謂ところのまともではない。しかしそれを突き詰めることは我が身を追いつめるかもしれない。

裏世界の界隈ならば、我が武を以てしてどうとでもなるが、表世界となると話は別だ。政界、財界、旧華族、そしてそれ以上の高位の、この国を操る存在たち。そのようなものたちと事を構えるのは、あまり賢いことではない。

「詳しくは、聞かないことにしましょう。しかし当然、今回はスカウトのようなもの、徒に傷をつけるようなことは致しませんので、ご心配なさいませぬよう」

私が勝利することができるのは、この身一つで対峙することができる存在のみ。この拳が届く存在のみなのだ、それだけはどうしようもなく理解していることだ。

「そうですか……」

ほっと、小さく息を吐く和服の女性。その安堵がどこに置かれるものなのか、私はそれにそこまでの関心はなかった。ただ、世話になった御宅のお子さんを試すようなことをするのは、少しだけ気が引けるなあと、ほんの微かな私の人間らしい部分がそこに小さく反応しただけのこと。

「お、ちびっ子、百メートル走出るのか。よぉーし、撮っちゃるぞー」

その声に、一応見ておいてやるかと顔を上げる。

少しして、号砲が鳴る。その一秒後、スタート地点で爆発が起こり、砂煙が朦々と立ち上る。

「すげえ!! ワープした!!」

「なんと、不格好な」

嗚呼、なんて力任せの歩法。縮地というには無駄が多すぎるし、九重の技法と呼ぶには大味が過ぎる。

このようなもの、罷り間違ってあの馬鹿が九重の歩法だなどと口を滑らそうものならば、師として、流派として、末代までの恥となろう。帰ったら、歩法の特練を課すしかない。

「いつになったら、一部分でもアレが完成するのでしょうか……」

まあ、完成しないからこそ、訓練を欠かすことが出来ないのは、私も同じだ。

私たちは力をつけなくてはならないのです、宿願を果たすためにはそれが必要なのである。そして、それと同時に力ある者見つけ出し、道場へと迎えなくてはならないのである。

「はあ……」

零れた溜め息の口直しに、お茶を一口、口許を湿らせる。

今のところは、アレの観察に取り組むとしよう。どの程度まで成長しているかというのは、実地においてしか見て取ることはできないのだから。

まあ、少しくらいはマシになっていると、そう信じることしかできないのだけれども。


…………


『晴子ちゃん、どこ〜?』

少し遠くから、聞き馴染みのある声が聞こえました。

「雪美様?」

そうです、雪美様の声です。

『晴子ちゃ〜ん?』

大変です、晴子さんと逸れてしまわれたのでしょうか。

きょろきょろと辺りを見渡しても、雪美様の姿を見つけることはできません。

晴子様も、どこにいらっしゃるのでしょう、これだけ人がいるとなかなか見つけられません。

「晴子様は、どちらに……」

今、シートには私しか——いえ、弥生さんがお昼寝していらっしゃいますけれど——いません。依子さんはあのまま帰ってしまわれたし、幸久様も先ほど、ひと心地ついたと一度クラスに戻っていってしまいましたし、ここはなんとか雪美様と晴子様のお役に立たなくてはッ……!!

『あ、晴子ちゃん、勝手にどこかに行っちゃダメじゃないの〜』

『母さん! もう勝手に離れないでって言ったじゃない!』

私が見つけるよりも早く、どうやら晴子様が雪美様を見つけられたようです。よかった…、ご無事で何よりです。

しかし、聞こえた声はもう随分と近く…、いったいどこに……。

「も〜、迷子になっちゃうでしょ〜。はい、ちゃんと手、繋いで?」

「いや、母さんがでしょ、それは」

「だから、はい、手。ちゃんと晴子ちゃんがいっしょにつれてってくれないと、ね?」

改めてきょろきょろと、どこにいらっしゃるのかと辺りを見渡して。

「自覚あるなら、大人しくしててよね。別に出店があるわけでもあるまいし」

「雪美様ぁ〜、晴子様ぁ〜、こちらに〜」

ようやくお二人を見つけることが出来ました。

「あ、りんちゃん」

「りんちゃ〜ん、ごめんなさいねぇ〜」

よかった、お互いに居場所がわかったようです。これでお二方にもこちらに来ていただくことができるというものです。

「ほんと、悪いわね、場所取りなんてさせちゃって」

「りんちゃんのおかげで、晴子ちゃんってば今朝からご機嫌なんだから」

「そ、そんなことないわよ、普通よ、」

普通。言いながら、晴子様は雪美様の手を引いてこちらに歩いていらっしゃって。履物を脱いでシートに上がられて。

「ぐえっ!?」

お昼寝していらっしゃる弥生さんのお腹にその脚を、

「うぎゃっ!? なんか踏んだ!?」

そうして、晴子様は跳び上がり、弥生さんは飛び起き、雪美様はシートの広くあいているところにお座りになられました。

「あら、ごめんなさいね〜。晴子ちゃん、足元はよく見ないとダメよ〜?」

「痛ったぁ…、誰さ、人のお腹を踏んづけてさぁ……」

「それはこっちの…! こんなとこで寝っ転がって……!」

先に表情が変わったのは、晴子様でした。

「弥生先輩……!!」

「…落ち着いて聞けば、その声は?」

目が、合いましたね。

「天ちゃん?」

「す、すす、すいません、悪気はないんです!!」

「おー、天ちゃん、数日ぶりだってのに、ご挨拶だねえ」

二人は、お知り合いなのでしょうか。まったく、今日は偶然が続く日です。

「寝起きの機嫌はいい方さね」

「許して、いただけるので……?」

「許すも許さないもないさ、いやだなー、あたしらの仲じゃないかー」

仲が、いいと、言っていいのでしょうか……?

「いやー、楽しいね、まさかこんなところで可愛い可愛い後輩に出会うなんてねー。うれしいね、天ちゃん? うれしくないなんてこと、ないね?」

「ゃ、やった〜、うれしいなぁ〜」

「おや、そこにいるかわいこちゃんは、天ちゃんの知り合い、お姉さんかい?」

「やだ〜、も〜、晴子ちゃんのおねえさんに見えちゃったの〜、はずかしい〜」

「…、母です」

「ばらすの早過ぎよ〜、晴子ちゃ〜ん」

「お母さんなの? え、若、一回り上、…いや、二周りか、え、かわいすぎない? 外法? 魔術?」

「よく食べて、よく寝る。あとは〜、心を愛でいっぱいにするのよ〜、それだけ」

「え〜、え? え、かわいい。すごい、これが愛の力? 科学は? 科学はどこいったの? 現代物理科学で立証できない何かの力こわい」

「ベース以外、化粧してないですよ、母は」

「UMAじゃん、いやもうそれはマジ、研究対象じゃん」

「します? 研究」

「…提出先が分かんない論文は、書かないよ」

よかった、喧嘩というわけではなかったのですね。

「ま、落ち着こ、とりあえずさ」

「てか、先輩、なんでここに?」

「こちらのお宅の、お隣さんだからですけれど、何か問題が?」

「最大の問題は、先輩がここで酒を飲んでいることですけれど」

「これから天ちゃんも飲むから、同じ問題を内包することになるけれど?」

「は? 確定? 私もここで酒を飲むと?」

「あ、そう、はいはい、別にいいよ。あたしは、別にね」

「…ひ、卑怯!! 卑怯な!!」

「あたしは別にね、天ちゃんがそういう選択をするならね、いうべきことは」

「飲・み・ま・す!! いただきますけれどなにか!!」

「あ、そ〜ぅ、いや、いいよ、飲みたいならそこからどうぞ」

「…、えぇ?? 高校の体育祭の観客席にあるまじき、ありえない量の酒が」

「ママも飲む?」

「え〜、誘われちゃった〜。晴子ちゃん、おかあさんものんでいいかしら〜?」

「…、ちょっと待って。ウイスキーはないわね、ハイボールも……。ん、別にいいわよ、母さん」

「え、いいんだ。絶対ダメっていうと思った、甘々護りたくなる系ママだから、護らなきゃ」

「母さん、ワクですから。酒なんていくら飲んでも平気なんです、ウイスキー以外なら」

「ウイスキー飲むとどうなるのさ」

「言いたくないです、これからわざわざ買いに行くのもやめてください。そうしたらあたしは、もうこの瞬間に家に帰りますから」

「帰らないでよぉー」

「ぁ、あの」

言葉の応酬に、私なんかが言葉を差し入れて申し訳ないと思いながら。

「はい、りんちゃん、どうぞ」

「あ、先輩も、りんちゃんって呼ぶんですね」

「しっ、天ちゃん」

「す、すみません、皆様。楽しくご歓談のところ」

しかし、

「思わぬ邂逅にお気持ちが昂っていらっしゃるのかとは存じますが、」

それでも伝えねばならぬことはあるものです。

「もう少し、ほんの少しだけ、お声を……」

「そっか、個室居酒屋じゃないっけ、ここ」

「あたかも個室居酒屋なら騒いでもいいかのような言い草」

「あと、その、」

「…ああ、そっか。先輩、りんちゃんに関係性を」

「あー、そこか。ご高説賜れますか、天ちゃん」

「はー?? 先輩すぐそういうこと!! …それが早いか。えっと、りんちゃん、ケアレスミスを恐れているわけではないのよ、でも一度で理解して。この人は坂倉弥生さん、あたしと同じ大学の大学院の博士課程に通ってる人」

「通ってる人?」

「だ、大先輩!! です!!」

「で、天ちゃんは不肖の後輩、学部の二年だっけ。三年? 忘れちった、ま、いいよね」

「あたしは、晴子ちゃんのおかあさんよ、覚えておいてね?」

「は、はい、覚えました」

晴子さんと晴子様がお知り合いだったと、そう大学というところですね。

知ってはいます、今では誰もが通われる場所だと。

「とりあえず、飲もっか。あ、りんちゃんも飲む?」

「ダメですよ、先輩、そういうのはアルハラっていうんですよ」

「無粋な人間だねえ、まったくもう。ママはどう、こんな天ちゃんで、どう思いますの?」

「お酒はね、ジュースといっしょだから。りんちゃんは、飲んだことないの?」

「ジュース……」

「これなんかそう、ジュースだね、はいどうぞ!」

「はっ!? こんなの先輩が飲むわけ、…最初からそのために……!!」

「口を閉じようか、天ちゃん。察しが良すぎる馬鹿から殺されていくんだよ……」

渡されて、しまいました。ですが、かわいらしい絵柄で、本当にジュースのようです。

私もこれで、ごいっしょさせていただけるのでしょうか……!!

年齢は、問題ありませんが、なんてこと、このようなところで初めてを……。

「ぃ、いただきます……」

「そうこなくっちゃ!」

「りんちゃん、無理しなくていいのよ、無理なら無理って」

「何事も経験よ、晴子ちゃん。成長って、まぶしいものよね〜」

これが、お酒……!

初めての、お酒……!

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