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Prism Hearts  作者: 霧原真
第十九章
216/222

お師匠さんは、ヤバい人

素直な気持ちを、ただ真っ直ぐに言葉にするだけなのに、それってなんて難しいことなんだろう。

「依子さん、こちら、お茶請けにいかがでしょう」

俺はただ、ここで過ごす時間をさっさと終えて、次のスペースへと向かいたいだけだっていうのに。

「おや、申し訳ありません。お煎餅など頂いてしまい」

かりんさんも、頼むから歓待などしていないで、状況を察してほしい。それはたぶん、それほど難しいことではないはずなのだから。

「あたしは〜、クッキーがいいなあ」

「はい、ございます。志穂さん、どうぞ召し上がってくださいね」

意地汚くするんじゃない、志穂、恥ずかしいだろ。あと、かりんさんは、そのお茶請けをいったいどこから出したんです。

「それで、ですね」

ここで少なくとも一つ、俺にとって喜ばしいことを挙げるとしたら、それは間違いなく弥生さんが未だ以て変わらず寝こけているということ意外にはないだろう。

これ以上場をぐちゃぐちゃにするであろう人がいない。それだけのことなのに、それがどれだけ俺の心の平穏を保ってくれるか。弥生さんが日々俺に与えているストレスの多寡が窺い知れるというものである。

「そう、ですね。それでは三木さん、」

しかしそれは、実のところ些細なことであると言わざるを得ないのかもしれない。そう、ここにはもう既に俺の心の平穏を平時の一万倍くらいぐちゃぐちゃにする面子が揃っているわけであって。

「一つ、ここで面白い話をして頂いてもよろしいですか」

「思ったのの十倍くらいフリがキツいな!?」

そこにおいて十倍やそこらの違い、もはや物の数ではないのである。つまり、弥生さんはいつだって俺を助けてはくれないということだ。

許せない。どうして俺は弥生さんの面倒を熱心に見ているんだ。

「そ、れでは、退屈な話ではありますが、一席」

…、それこそ、自が業だ。求められては断ることも出来ない、そもそも断るという発想が出てこない俺自身の性分こそが問題——これもまあ、晴子さんの躾あってこそだけれど——であって、押し付けるべきではないのだ。


…………


「中学時代はやんちゃしたけれど、今は大人しくしている、と」

みっともないなあと、自分で思っていることも、あるいは他の人からしたらそうでもないのかもしれない。しかしそれであっても、自分にとっては永久にそれは変わらずみっともないわけであって。

下らなくもつまらないエピソードだと思って笑い話として提供したにも関わらず、なんとなく真面目な感じで対応されてしまうと困ってしまうのだ。

「そういうことでよろしいでしょうか」

よろしいかと聞かれれば、別によろしくはない。俺が中学時代に学校を〆ていたとか、今でもたまに舎弟たちのメーリングリストが回ってきちゃうとか、ちょっと前に改めて舎弟の一人と出会ってしまったとか、そういうのは俺にとって決してよろしいことではないのだ。

もちろん、過去は消せないし、今さらメーリングリストから俺のアドレス消してとか言いにくいし、もはや悠平をシカトするのは不可能とか、俺にもいいわけはいろいろあるわけだけれど。

「端的に言うとそういうことです」

「馬鹿弟子にも、そうした退屈な話はありましたね」

「ほえ? ししょ〜、なんかいった?」

「言いました。さて、私は今、何と言ったでしょう。三、二、一、零…、罰を与えます」

「え〜、チョップでまきわり〜?」

「馬鹿ですね、ここには薪になる木がないでしょう」

「いや、チョップで薪割りはできませんが??」

「わかった! さかだちトライアスロンだ!!」

「俺には何一つわからないが?」

「今日は、…あー、あれです、あれ」

「きんトレ!!」

「…、では、そういうことで。いつもの通り、息を止めるのですよ、速筋を鍛えるのです」

「いっぱい? すごいいっぱい? ちょういっぱい?」

「今日は、そうですね、いっぱいでいいですよ。嗚呼、何と寛容な師でしょうか!!」

なるほど、美しい師弟愛だ。俺は、師弟愛というものに詳しくはないが、きっとそういうことに違いないと、俺は思うんだ、多分。

「そろそろ介入してよろしいでしょうか?」

「もちろん、」

志穂は、何だかわからないけど急に筋トレを始めた。俺にはもう何もわからない、何もかもだ。

一つだけわかったのは、師匠と弟子っていうのは、やっぱりこういうものなんだなってことだ。

やはり、晴子さんは正しかった。それだけは、兎にも角にも間違いのないことだ。

「して、如何なるご用でしょうか?」

「ええとですね、あの、俺はそろそろお暇しようかと思うんです。ほら、次の競技もありますし? それにほら、他にもご挨拶に伺いたい場所もありまして。いや、もちろん、もちろんですね、名残惜しくはあるんです本当です名残惜しくて堪らないんです。かりんさんのお茶だって…、かりんさんのお茶は、またあとで飲めますね。そこはいいんです、そこは」

「つまり、どういうことでしょう」

これだけ気配をびんびんに出しているんだから察してくれ、大人なんだからと言いたいのを舌の先でなんとか押し止めて、俺は言葉を続ける。

「いえ、そのですね、つまり、いえ、もう、本当に簡単な話で申し訳ないのですけれども、ええと、つまりですね、そろそろ僕はここからいなくなると、そ…ういうことです!!」

「それはなんと。なんとも、残念な話ですね。貴方の話は、どうにもありがちで、退屈でしたが、そうですか、もうお帰りに」

あまりそう、退屈退屈といわれると、少しグッと来るものがある。

学校を〆て番長をしていましたというのは、なかなかの武勇伝ランクを誇る——今や誇りに思ってはいないが——と思うのだが、やはり武道家的には熊殺しとか、ドラゴンスレイヤーとか、それくらいじゃないといけないんだろうか。

そんな人間は、普通の高校に存在してはいけないとは思いませんか。小説の世界じゃないんだから。

「はい、そうなんです、もうお帰りになるんです、すみません。いえ、誤解などなさらないでいただきたいのですが、決してこうしているのが退屈だとかそういうことでは、…僕の、話は、退屈だったかもしれませんが、僕はその、そういうわけでは」

「もちろん、構いません。些か残念ではありますが、こればかりは致し方ありません」

意外にもさっと引いてくれた。志穂と違って狂戦士というわけではないだけのことはある、言葉が通じるってこんなに素晴らしいことだったんだ。

「ですが、その前に一つだけ」

ぽつりと、お師匠さんはそう言って、

「貴方は、この馬鹿弟子のことを馬鹿だと思いますか。思いますね、そう、私も心の底からこの馬鹿は馬鹿だと思っているのです」

決めつけられてしまったが、あまり表立って声高に否定しづらいことだ。言葉を仕舞い込むことで、俺は返答を曖昧に揺蕩わせることしかできない。

「センスは良いが記憶力というものが無い。全てを感覚で理解するため説明に因って修得させるというプロセスを取れない。付きっきりで世話をしないとすぐに気を散らし唐突に消える。私としては、非常に苛立っていると言わざるを得ない」

それは俺が常日頃、志穂に勉強を教えるときに感じていることと概ね一致する。急に親近感が湧いてきてしまった、どうしよう。

「どうしてこんなのを弟子にとってしまったのかと、後悔することの方が多いかもしれません。いえ…、しれませんなどと、後悔の方が多いです、確信しています」

「…あの」

「しかしながら、私とてこの馬鹿弟子の可能性と審美眼を固く信じているのです」

「えと、つまり」

「この馬鹿が、何の根拠もなく物を述べるというのは、つまるところいつものことですから、それ自体は別に構いはしないのです。しかしそこにひと雫であろうと、それが真実であるという可能性が混ざり込むのであれば、それはもう私という判断において疑惑という枠組みを超越し、確信を得るという言葉を用いるに吝かでないのです」

雰囲気が、どうにも悪くなってきた。

お師匠さんの言葉の調子は変わらず、その視線がぶれることも姿勢が揺れることもない。

志穂は息を吸うことも吐くこともせずに、隅っこで静かに、しかししっかりと筋トレを続けている。

かりんさんは背筋をピンと美しい正座でこちらに至極真剣な視線を送り、見守っているのだろうか。

弥生さんはむにゃむにゃと口の中で吐息を転がし、器用にも小さく上半身だけ寝返りを打った。

そして、俺は首筋にじっとりと嫌な汗が浮いてくるのを感じていた。

「動物的な危機探知感覚とでもいいますかね。闘争の内に身を置くものとしての嗜みにも近いそれが、この弟子は究極的に高いのです。本来ならば経験と観察力に因って伸ばすべきそれが、生まれもった異様な能力といいましょうか、肌感覚で察知するそうです。野生動物は、自らよりも上位のもの、強者には本能的に屈服するというでしょう、つまりはそういうことです」

俺が今この瞬間にするべきことは何かと考えると、おそらく一にも二にもこの場から可及的速やかに離脱すること。そのためにはすぐさま立ち上がり、靴を拾って走って逃げる。するべきことも、その仕方も、手順も、なにもかもが理解されている。

「つまるところ、」

しかし、それだというのに、俺の脳裏に浮かんだのは背中を見せて、慌てて逃げてはいけないという言葉だった。思い出す、そう、それは、野生の猛獣に出会ってしまったときの対処法だ。

「試す価値くらいはあると、そういうことです」

お師匠さんはそう言って、それから俺はぞくりと背筋に悪寒が走った感覚を得る。お師匠さんの肩口から、ゆらゆらと陽炎が立ち上ったような気がした。

「全力を尽くすというのは、困難なことです。しかし死の危機に瀕してはその限りではない」

お師匠さんが細く長い呼気に合わせて、イメージを押し付けられた。まるで居合い抜き。正座からの立ち上がり際、抜き打ちで放たれる拳が、俺の顔面にぶち込まれる。タイミングを合わせて首を振って回避、素人のガキの喧嘩にちょっと慣れてるからって、んなこと出来るはずがない。

ぶわっと、身体中から冷や汗が噴き出した。おいおいおいおい、死ぬぞ、死ぬのか、俺。

喧嘩でナイフを取り出した馬鹿野郎を見たときよりも、数百倍、いや数万倍こわい。志穂なんか目じゃない、そりゃ、勝てっこねえってもんだ。

「これから私は、貴方を一撃で以てして死に至らしめる。よろしいですか、貴方を殺しますと、そう言っているのです」

意味が分からない、どうしてそうなる。頭がおかしい人なんだろうなと思ってはいたが、もう間違いなく頭がおかしいとしか言いようがない。

どうして、俺を殺すとか、そういう話になる。どうしてそういう結論が出てくるんだ。もう嫌だ、逃げ出したい、駆け出してしまいたい。今すぐこの場所からいなくなってしまいたい。

「必死におなりなさい、」

しかし、そうすれば、死ぬということなのだろう。そもそも、駆け出すことなんてできない、身動ぎすることすらできなかったんだから。

遁走することは、できなかった。脚が言うことを聞かなかったから。

悲鳴をあげることは、できなかった。呼吸すら、まともにできていなかったから

這い蹲って許しを請うことも、出来はしなかった。脳が、まともに動いていなかったから。

「死にますよ」

その言葉が、つまるところ俺にとっての死神の鎌の切先だったのだ。

しかしどうしてかその言葉が引き延ばされ、歪む。まるでスローモーション——一秒が十倍くらいに引き延ばされているような、奇妙な感覚を覚える。

これが死の直前の、一瞬を永遠に感じるみたいなやつかなんて、そんなことを考えている。まるで出来の悪いパラパラマンガみたいなコマ送りで、お師匠さんの動きが俺の網膜に焼き付けられていく。

そしてふと、気づく。殺すなんて、んなわけなくない?

そうか、寸止めだ。などと現実逃避が早くも出尽くしたところで、ふっと意識が暗転する。

最期は痛くないよう気絶してくれるなんて、俺もなかなか味な真似をしてくれる。助かるわ。

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