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Prism Hearts  作者: 霧原真
第十九章
215/222

たどり着いた、その先で

「どうぞ、粗茶ですが」

などと、そんな言葉を聞きながら。

「あ、なんか、すいません。一言ご挨拶したらもう戻るつもりだったんですが」

とにかく、俺はビニールシートに腰掛けて、差し出された紙コップーー中身はお茶だ、特別なものではないようだーーを受け取った。口に含んでみると、これはペットボトルを水筒に詰め替えただけのものではないような気がする。なんとなく、美味しい気がする。

「そう仰らず、ごゆっくりなさっていってください」

さて、現状、この瞬間はとてつもなく穏やかな時が流れている。しかしそれを既定路線というには、俺は少しだけ抵抗があった。

「まさかご丁寧に、ご挨拶にいらしていただけるなどと」

たしかに穏やかではある、それを否定するつもりは毛頭ない。俺がここで悠長にーー先ほどまでは、待ち受ける状況自体に戦々恐々としていたわけだがーー、どこかそんな空気を受け入れているのは嘘ではないだろう。

つまり俺は現在、当初より目的としていたお師匠さんとの合流を果たしていた。やはりというかなんという、志穂の探知した"気"を辿ることで巡り会うという、奇跡的なのか必然的なのか分からない事態を、しかし俺は未だどう解釈したものかと受け止めかねていた。

「私としましては、あるいはこちらから先にカチコミに伺うべきかと、少々気を揉んでいたものでしたから」

「いや、ご親切にカチコミに伺われても、こちらとしては困ってしまうんですが」

一般家庭なので。お茶をもう一口含みつつ、ため息をお茶に混ぜ込んで飲み下しつつ、俺はちらりとお師匠さんに目を遣った。

そう高そうでもない上背に細身の細面。一瞬線の細い美女の気配を感じさせる。だが、おそらく死ぬほどの鍛錬を長年積み重ねているーー志穂をして絶対勝てないと言わしめる女傑がそうでないわけがない、確信があるーー肉体は、まるで抜身の刃のような鋭利さを背景に吹き散らし、外見からその年齢を推し量ることを難しくさせる。

「…、いつも、志穂のお世話をしています。改めまして、三木幸久です」

「聞き及んでおります。まこと、物好きな御仁だと思ってはいましたが、こちらの想像をひょいと超えていらっしゃる」

「そちらは、良い意味でも悪い意味でも、予想を裏切らなかったです」

印象としては、日本刀の鞭の束のような気配ーー殺意とも害意とも違うが、しかしそこに存在するだけで相対するものを威圧したーーを持った人だった。

やはり、予感は正しかった。来るべきではなかった、このようなところ。ただ一つ、挨拶をしたら挨拶が返ってきたというそんな一点突破の信頼では、俺がここに身を置くに値するだけの安全性は担保されないのだ。

「ふふ、」

笑う。それがどういった類の笑みであるか、俺にはもう理解することはできなかった。

ただその笑顔ーー切れ長の鋭い目線に、細い鼻梁と小さな口唇が、イメージに外れることなく刀のような美しさを感じさせるーーは、どこまでも魅力的だった。

それが俺に対してどういった意味ーー極論、銃口を突きつけているのかもしれないーーを持つかは、容易に理解し得ないが。

「ご心配には及びません。馬鹿弟子は埒外の範疇であるが故、貴方を驚かせましょう。しかし私とて、とうに人の常識に唾を吐いた身、」

しかし、俺には、そんな圧倒的なお師匠さんの存在感を以ってしても、拭いきれない一つの視覚的事実があった。

いや、もちろん、個人的にはとてつもなく頑張ったのだ。それでもどうしようもなく、それは俺の視界の片隅に映り続けていた。

「人の身の為し得る領分は、優に踏み越えました。きっと、貴方を驚かせることもありましょう」

当然のことだが、俺にだって一般常識のようなものは存在する。大人が喋っているときは、とりあえず明け透けな邪魔立てをしてはいけないというのは、おそらくそれに明確に該当するものに違いあるまい。この前、現社の授業で勉強した、儒学における長幼の序ってやつだ。

だがしかし、それをもブチ抜いて、俺の意識を刺激するものが存在することを否定できない。

「あの、ちなみになんですけど、」

そこでごろりと、早起きの代償として差し出した睡眠時間を取り戻すべくお昼寝ーーというにはまだ時間は早過ぎるがーーをしているダメな人に見覚えがあり過ぎたんだ。

周囲の様子を鑑みるに、まだ飲酒を敢行することはしていないらしいが、だらしない格好で寝汚く寝息を立てるその女に、どうしようもなく思い当たりがあり過ぎたんだ。

「そこに転がってるのは…」

「坂倉弥生さんといいます。諸々、ご協力をいただきました」

ですよね、以外の感想は、一つとしてありはしなかった。この女、なんでこんなところにいるんだ。

いや、体育祭にいるのはいい、かりんさんと広太にくっついて来ると言っていたのは間違いのないことだ。しかしなぜ、よりにもよってピンポイントでこの場所にいるというのだ。

それともあれか、実は知り合いなんですとでもいうつもりか。ふざけるな、そんな偶然があってたまるか。

「先刻、偶然にも知り合い、こうしてご親切にも写真を撮ってくださっているのです。もしや、お知り合いですか」

「まあ、その、行きがかり上、そういうことになりますが」

「そうですか。しかし、ふふ、これはどうにも、奇跡的なまでの偶然というべきか。いえ、あるいは、これもまた何らかの導きとでもいうべきでしょうか」

「それは、どういう…?」

「いえ、今のこの状況は、まだそれを開示するに適していません。もうしばらく待つことにしましょう」

涼やかに、お師匠さんは微笑んだ。状況はよく分からない、だから俺はそれに合わせて曖昧に笑う。というか、今現在、けっこう怖いから、それをごまかす意味でも、できる限り軽い笑いを浮かべておいた。

「さて、それでは、私としてはここで目的を果たすに吝かではないのですが」

「目的、と、言いますと」

「極めて単純な話です。この馬鹿弟子の言うことには、三木幸久さん、貴方はこの馬鹿にして勝利し得ないと言わしめる傑物らしい」

やはり、またこの話。志穂がどこまでこの話を広めているのかと、もはや恐怖しかない。

だが、今回はどこかーーいや、これこそが正しい流れのはずなのだーー展開が異なるようだ。

「しかしこうして、直接に視線を交わした貴方に対し、私は疑問と疑惑を禁じ得ない。もちろん馬鹿弟子の言葉でしかないのだからこそ話半分に流し聞きするべきなのは間違いようのない事実」

志穂は、己の思い込みを正すことができないーー何度現実を目にしても、だーー、少し偏執的なところがある女の子だ。しかし世界の常識はその限りではない。

さらにお師匠さんは、いわゆるところの達人というやつに違いない。その証拠に、一瞥しただけで俺の強さのバロメーターの本質を捉えているではないか。志穂の言葉を鵜呑みにせず、きちんと考えてくれている。さすがは大人だ、志穂のお師匠さんだからと、必ずしも狂戦士というわけではない、話が通じるなんて感動だ。

「だがそれであっても、私は一面的にこの馬鹿の動物的な直感を強く信頼している部分が、小指の爪の先程度には存在しています」

あるいはこれこそが、俺にとって一つの大きな分岐点なのかもしれない。いや、分岐などしていない、この先は間違いなく一本道に違いないのだ。

俺の現時点における一つの懸念、志穂に強いと勘違いされていることで時折命の危機を迎えることが解消される。こんなに嬉しいことが、ここ最近あっただろうか、いや、ない。

「ですので、その確認を」

「依子さん、戻りました。すみません、お一人で残してしまいまして」

と、俺が喜びに咽びながら、このあるべき瞬間に言祝いでいる最中、しかしそれは突如として舞い降りた青天の霹靂とでも言うべき事柄だった。否、事柄、などと、そのように言うべきではないはずだ。

それはそう、俺にとっては、もうずいぶんと馴染みと言うべき声音だったから。

「幸久様? どうして、このようなところにいらっしゃるのですか?」

そこには、かりんさんがいた。何故かなんて分からない、それでもそこに彼女はいた。

「いえ、違いますね。おかえりなさいませ、幸久様」

「…、ただいま」

おかえりなさいと、そう言われてようやく落ち着いて辺りを見回して、自分が座っているビニールシートがうちのものであることに気づく。てか、このお茶もかりんさんがいつも用意してるやつだし、なんなら脇に置いてある弁当の包みも我が家のそれだ。

だからつまり、ここはうちのスペースだった。しかし、理解したからこそ新しくわからなくなったこともあった。なんでこの人、こんな我が物顔でうちのスペースに座ってるんだ。

「二見さん、彼に分かるよう現状の説明をしていただいてもよろしいでしょうか」

「はい、お任せください。この方は遊佐依子さん、体育祭へと向かう道すがら行きがかり上ご一緒することになった方です」

「なるほど、さすがかりんさん、分かりやすいね。志穂、見習いなさい」

「は〜い」

で、気になることはたくさんあるのだが。とりあえずそれら全ては置いておくべきだと、俺は少なくともそう理解した。

それは、そう難しいことではない。そう、とりあえず細かいことは後で聞こうと、そう思えばいいだけの話なのだ。

「それで、」

考えるべきは、細かいことではない。枝葉末節は、つまるところ蛇足に過ぎないのだから。俺が考えなくてはならないことは、実のところただ一つしか有りはしない。

それはそう。ここ、つまりうちのスペースがお師匠さんがこれから先に居座る場所なのだとしたら、俺はどんな言い訳でこの場所を離れたらいいのかという、たった一つにして最大の問題だけだった。

「依子さん、ご不便はありませんか?」

「不便などと、まさか、滅相もない。こうして座する場をお借りできただけでも重畳というもの」

かりんさんは、完全に大切なお客人をもてなす態勢についている。俺が何を言っても、それがかりんさんの一般的かつ常識的な範疇の正論を突き崩すものでない限り、その意思を変えさせることは難しい。

そして最初から今まで、どうしてか広太の姿が見えない。いや、どうしてか、ではない。広太はこの体育祭においては徹頭徹尾ビデオ担当ーー庄司の実家から俺の姿を映すことを命じられていることはもちろん、最近はついでに霧子の姿も映すよう天方家からの依頼も受けているらしいーーなので、昼休み以外の時間にこちらに戻ってくることはほぼ期待できない。

「これ以上不躾に、ンンッ! 求めるなどと、そのようなことは」

故に、なんか分からんけど広太がうまいこと話を運んで、気づいたら俺はこの場を脱出していたという流れは期待しづらい。つまり俺はこの、わざとらしく咳払いをして言外にお茶を要求している不貞の輩から、独力でもってして逃亡しなくてはならないということだ。

ここが俺にとっての敵地だったならば、それこそ敵地だ、弱さを露呈させて失望からの解放という路線も期待できた。

しかしながら、現実的に見て、ここはどうやら俺のホームらしい。それでありながら、そんなことができるのか。もちろん挑戦することはできる、が俺にだってプライドのようなものくらいある。かりんさんの面前で無様を晒すくらいならと、下手を踏むと気付いたら挑みかかっていたという可能性すらある中、その挑戦の末、俺は生き残ることが出来るのだろうか。

「ご遠慮為さらずに、お茶でよろしければお好きなだけお飲みください」

「おや、これは申し訳ない。ありがたくいただきます」

あるいはもしかしたら、このまま無言で立ち上がり一心不乱に駆け出したとしたら、この状況自体は解決し得るかもしれない。いや、そのような無作法、このような状況においては看過し得ないーーもちろん、極論命の危機ともなれば世間体など知ったことではないがーーのだ。

俺たちは社会的生物、どうしたってその在り方は世間体というものに縛られる。いや、授業で習ったその言葉は、確かそんな意味ではなかったはずだけれども。俺の場合は、ただの矜持の問題でしかないのだ。

「時間は、まだお有りでしょう。ねえ、三木さん」

挑み掛かる、というわけではない。その気配はどこまでも落ち着いて、どうしようもなく冷静さのようなものを押し付けられているような、そんな感覚を強いられた。

俺はそれに、絶対的な焦燥感を抱いた。この人の視線に、俺はどこか恐怖にも似た不安定な感覚を得ていた。失望は先行していないようだ、その選んだ言葉にしては、どうもこの人は志穂の妄言に少なからず重きを置いている様子があるようだ。

「じっくりと、見定めさせて頂きますよ」

否。あるいは、志穂の妄言は、一つの呼び水に過ぎなかったのかもしれないと、そんなことを思ってしまうことを、止められない。あるいはそう、この愛すべきちびっ子のいつものヤツが、更なる巨大な狂気を呼び寄せてくれやがったのかもしれないと、そんなことを否定することが出来ない。

もしかしたらこれは、俺には対処不能ーー志穂のそれならば、なんだかんだと揉消すことは不可能ではないのだーーなのかもしれないと、俺はそんな事実をどうしようもなく受け入れつつあることを否定し得ないんだ。

「俺は、早めに」

「ゆっきぃ、あたしもおちゃ〜」

貴様、居座ろうとするんじゃない。やめろ、志穂、いくら同門だからって、結託呼んでして俺を追い詰めるな。俺とお前は、友だち、だろう?


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