手を引かれながら、思案
アイサツは全ての基本だ。それを欠くことは許されず、礼を失するものはこの日の本の荒野を生き抜くことは出来ない。すべては古事記に記されたニホン真実であり、古来より引き継ぎ受け継がれた伝統なのである。
ならばこそ、体育祭という本来そうしたものとはまったく関係のない行事の最中であろうとも、保護者が一同に会する場がそこにあるのならば、その機を逃すべきではない。隙あらばアイサツ、それこそがこの日の本の荒野でサヴァイブするための策なのだ。
「そう、それがニンジャ真実……」
「あたしはね〜、にんぽ〜がね〜、かっこいいとおもうな〜」
「えっとね、あたしは、手裏剣とか、いろんな形があっておもしろいと思うよ」
「ええと、三木くん、行かないのですか?」
なんて、そんなくだらないことを考えている場合ではないというのが話の本線なのだけれども。つまりだ、俺はこれからみんなの家族の下へと挨拶回りに赴くわけだけれど、正直行くべきではないところが一軒あるようだな、と声を大にして言いたいのである。
「出掛けると言ってから、しばらく経ってますけど」
「力を貯めているんだ。己の力量を見誤ってはいけない」
もちろん、普段から仲良くしている相手の関係者なのだから、挨拶をするのが嫌だというわけでは決してないのだ。学校で会うだけでなく、遊びに出掛けたり泊まりがけでの外出もなかったわけではないのだし、きちんとお世話になっていますとお伝えするのが筋というものでそんなことは当然重々承知しているのである。
しかし。しかしだ。しんどいものはしんどいし、無理なものは無理だ。だって行った先でやらないといけないのが挨拶ではなく危険な戦いで、行った先で待っているのが家族の方々ではなく危険な戦士なのだから。これなんの冗談と問いたくもなってしまうが、そんなことに意味はない、だってもうそれは確定事項なのだから。
「死ぬわけにはいかない、万難を排し万全を期して向かわないと……」
「三木くんはこれから戦場にでも向かうんですか?」
「だいたい合ってる」
そもそも志穂の家族は来ておらず、いるのは件のお師匠さんだけという話ではないか。いったいこれはどうしたものだろう。だって行っても家族にご挨拶することは出来ず、挙げ句の果てには危険な戦いの渦に巻き込まれる可能性すらあるというのだ。ちょっとなに言ってるか分からないですねこれは。
それならば別に行かなければいいじゃないかと俺の中の理性が叫ぶけれど、でもだからといって行かないというわけにはいかないのである。何故ならば、志穂は俺のことをお師匠さんのところに連れてくるよう厳命されているようだからだ。俺が言われたわけじゃないんだから聞かなかったことにするのは、もちろん容易い。しかしそんなことをしていいのかと、俺の中のやさしさ成分が問いかける。
相手は志穂をして勝てないと言わしめるほどの傑物、そんな人に志穂がお仕置きされるだなんてあまりにあんまりなことではないか。志穂のことをか弱い少女だと思ったことはあまりないが、きっとお師匠さんに比べれば圧倒的にか弱い少女に違いない。ならばこそ、俺はそれを守らなくてはならないのではなかろうか、そう、俺の身一つが犠牲になるだけで済むのならば。などとどうしようもなく考えてしまうのだから、俺も大概破滅的だと笑いたくなってしまう。
「でも、ま、行くしかねぇって。出たとこ勝負だ」
覚悟、完了。行くとなったら、行くしかねえぜ。
「よっしゃ、行くぞ、志穂」
「あ、いくの?」
「霧子はやめとけ、危ないからな」
「にゅ、そうなの?」
「じゃあ、幸村、霧子のこと頼むぞ」
「はい、いってらっしゃい。あ」
と。幸村から声があがり、
「三木くん、くれぐれもうちの兄たちに、お気をつけ下さいね」
俺のミッションに更なる危険が添加されたのであった。
「え、なに、それは、え? どういう?」
「いえ、そのですね、たぶん大したことではないと思うんですけど、」
やめてくれその前振りはヤバすぎる。
「うちの兄たちが、三人揃って体育祭を見に来ているんです。たぶんあの辺りに」
それだけならいい、ここまでは問題ない。
「二人三脚で組むって三木くんのことを少しだけ話したら、見に来るって言い出して」
不穏な気配がしてきた、待ってほしい。
「社会人の兄二人は仕事の関係で来られないと言っていたので安心していたんですが、その話を聞いたら急に来ると」
ヤバい、なんて言葉で済む感じじゃなくなってきちまったぜ。
「うちの兄は、身内のわたしが言うのも妙な感じですが、とにかく頭がおかしいので、何をするか分かりません」
少し流れが変わってきたな。
「嫌な感じがしたら、とにかく身を低くして遮蔽物の陰に隠れてやり過ごしてください。あと絶対に一人きりにはならず、襲われたらすぐにわたしを呼びに行かせてください」
だいたい爆発物系の不審物への対処と同じ内容なんだけど、それはだいじょうぶ?
「大丈夫、身内の恥は、わたし自身の手で討ちます。好き勝手にはさせません、三木くんはわたしが守り、兄たちはわたしが処理します」
なんて。心強い言葉をもらって、俺はクラスをあとにしたわけだ。
「厄日かよ」
としか言いようのない状態に陥ると、逆に以外と落ち着くもので。下手にじたばたしても仕方ない、どうせ死ぬなら潔くみたいな武士感すら出てきかねない様相を呈しつつある俺だったが、しかしやはり死ぬのは嫌だからじたばたとみっともなく足掻くのである。
幸村からの降って湧いた警告の意味を、落ち着いて考える。考えることは大切だ、難解に思えることも、噛み砕いてみたら案外簡単なことだったなんてよくあることで。無理だ無茶だと端から決めつけていてはいけない、まずはきちんと向き合うことだ。
「ゆっきぃ、はやくいこ〜」
志穂に手を引かれるままに、思案。家族が体育祭を見にやってくるというのは、別段おかしなことでもない。もちろん、高校生にもなって三人の兄が揃って仕事を休んでまで見に来るのかと考えれば、多少過剰に感じなくもないけれど、でもまぁ、かわいい妹のことを思えばこそであろうし、そこはいい。
俺だって、仮に霧子と歳が離れていて、その体育祭があると聞かされれば全ての予定をキャンセルしてでも応援に駆けつけるはずだ。それくらいする、普通だ、普通の兄にありがちなことと言っていいはずだ。
というよりも、むしろそういう行事に馳せ参じることがないと言われた方が、俺としては違和感を禁じ得ない。だって妹がそこにいて、がんばっている姿を見ることが出来るんだぞ、そんなの行かないわけないだろ。仕事というのがどれほど人生において重要なものかというのは理解するが、しかしそれは生きていくためのーー突き詰めれば金を得るための手段に過ぎないのだ、本当に大切なことを見誤ってはならないのである。
「あれ〜? ししょ〜、いなくなっちゃった?」
うむ、それは文字通りの本末転倒というやつだろう。手段の目的化は危険な行為だ、生きるために働くのであって、働くために生きてはいけないのだ。広太も以前そう言っていた、俺は三木の当主とされているが、それが全てになってはいけないと。
あくまで主体は俺であって、三木の当主という役割に主体を置いてはいけない。俺自身の頭で考えて、俺自身の心で感じて、その結果として三木の当主であるべきで、今のように流されてその座にいるのではいけない。いや、これはまた、少し違う話なのかもしれない。
「ゆっきぃ、ししょ〜、いなくなっちった」
「なに? それは行かなくていいってことか?」
「おしっこかなあ」
「お手洗いといいなさい、もう高校生なんだから」
しかしそうなってくると、あるいは少しシンパシーを感じなくもない。幸村はあんな言い方をしていたけれど、つまるところシスコンということだろう。それならば同じ穴の狢、シスコン同士理解しあい、誤解を打破し事態を打開していくことが出来るかもしれない。
そうだよ、妹を大切にする人間に、悪い人間はいない。共通の趣味っていうのか? 共通点があった方が会話も弾むってもんだ。お互いの妹の良いところを教え合ったり、昔の写真を見せ合って思い出に浸ったり、そうだ、俺たちには和解しかありえないはずだ。
まったく、いったい何を不安がっていたんだ、俺ってやつは。しかし、そうだ、これまで俺の周りには同好の士と呼べるやつは一人もいなかった。だから必要以上に警戒してしまっただけなのかもしれない、本来ならば喜ぶべき友の登場というものを。
「まったく幸村が怖がらせるようなこというから、柄にもなくビビっちまった」
とりあえず自己完結の安堵に浸りながら、俺は外に向ける意識の割合を少しだけ増やす。志穂に手を引かれるままに歩いて、はて、俺はどこまでやってきたかと思えども、何のことはない、目の前にあるのはいつもの昇降口だった。なんでこんなところにいるのかは分からないが、志穂の辿った気がここへと導いたということなのだろう。
しかしそうなってくると、本格的に校舎内のお手洗いに行ってしまった可能性が出てくる——昇降口からでは校庭の様子をよく見ることが出来ないのだ——わけで、ここでうだうだとしているのは正しいことではないと言わざるを得まい。実際のところ、今ここにいるのは俺と志穂、それから何人かの校舎に入ろうとする学生と、まるで門番のように昇降口の両端に立つ風紀委員だけで、観覧にやってきた保護者の姿はまったく見ることが出来ない。
「なんだ志穂、見失ったのか」
「ここにいたと、おもったんだけどなぁ……」
「しゃあねぇ、それなら戻るぞ」
「あれぇ?」
ふと、疑問のような声があがる。目を遣ると志穂が首を傾げている。
「ん〜?」
きょろきょろと周囲を見渡す、しかしその目はどちらも閉じられている。何もしないをする黄色いくまさんよろしく、何も見ないを見ているのかもしれないが、あるいはこれが気を探っているということなのかもしれないと思い直す。もちろん、意味は全く分からない。
時折、こつん、こつんと、自分自身の側頭を小突いている。もしかしてこれはチューニングのような行為なのかもしれない。もしくは映りの悪い家電を小突く古式ゆかしい作法の方かもしれない。もちろん、そのどちらでもないかもしれない。俺は『気』というものの探り方に明るくはないので、当たり前といえば当たり前だが、まったく分からない。
「……ッ! ……ッ!」
手をつないだまま無言でジャンプ——志穂の垂直跳びのアベレージは80センチ近いので、いくら身長差があってもそんなことをされては振り回されてしまう——し始めたあたりで、俺の不思議許容値が注意域に到達した。俺は断固たる決意を以てして、声をかけることによってその不思議な振る舞いをやめさせることにしたのである。
如何に志穂に向かう先の探索を一任したとはいえ、その方法に口を出すことさえしないと誓約した覚えはないわけであって。危険、あるいは放埓な振る舞いを許容することは出来ない、そう、俺はーー否、俺たちは、文明の最中に生きているのだから。
「暴れるのをやめろ、バカ」
「ゆっきぃ、ししょ〜いた」
「え? やっぱり今ので探せる感じなの?」
「また、きが、みつかった」
「今まで見失っていたのに、急に?」
「たてもののなかに入ると、みじゅくものにはわかりづらくなるって、まえにきいたよ。たぶん、中にいたんだよ」
「やっぱり電波じゃねぇか、それ」
「き、だよぉ」
「ま、電池切れが無い分、便利そうな感じもするけど」
「しゅーちゅーりょくがきれたら、さがせないから、たいへんー」
「…、お前には、電池の方がいい。これからは電波で人を探せ。そうしろ、俺はその方が圧倒的にいいと思う」
お前には集中力が皆無なのだから。最後に言いかけた、舌の先まで出てきてしまった本当のことを呑み込んで、俺は黙ってポンと志穂の頭を雑に撫でておいた。
そうする〜。なんて、その場凌ぎの俺の撫でに喜色満面といった様子の志穂を眺めながら。こいつはこの先どうやって生きていくんだろうなんて、どうしたって分かりっこない思考に脳を浸してお茶を濁して、その場で思案そのものを放り投げた。
そう、本当のことというのはどうしようもなく残酷で、まったくもってやさしくないし、誰一人として救ってはくれない。禿げた人に、ハゲといって、一体全体、誰が幸せになることが出来るというのだろうか。
真実はいつも一つ。しかしそれを言語化して詳らかにすることに意味はあるのだろうか。それにより、誰かが救われるか、善となるのならばあるいは、といったところか。