800メートルは長いようで短い
「ところで三木くん」
クラスの応援エリアに戻って早々に今後の挨拶回りの計画立案に思考を割いていると、ポンと左の肩を叩かれる。
不意のことに、何の気なしに左を振り向いてみて、頰にグサリと細っそりとした指先がめり込んだ。まんまとしてやられて、洒落た真似をしやがってこんちくしょうめと目線を上げてみると、そこには頭の中でいくつか浮かべてみた顔のどれとも違うものがあった。
「あ? 幸村? おお、どうした、幸村」
「いえ、大した用というわけではないんですけど、」
流れるような動きで、気づけば幸村は隣の席に腰掛けていた。一瞥して小さな違和感、次の瞬間には気づく。いつもはヘアバンドでガバッと上げている前髪が、今日は無数のヘアピンを入り組ませ噛み合わせるように使って上げられているということに。
しかしながら、その気付きが会話の俎上に上がることはなかった。本来ならば女の子のちょっとした変化に即応的に当意即妙なコメントをすることが出来ないというのは、晴子さんチェックによる3殴打程度の懲罰対象点なのだけれども、だが次に続いた言葉が決定的にそれを許しはしなかったのである。
「800メートル、紀子さんの組ですよ?」
それはマズいですよ! というわけで思考を中断、数秒のラグさえ惜しんで即座に俺はトラックに向ける視線に意識を乗せた。考え事をしながらとはいえぼんやりと眺めていたのだ、トラック上の状況は分かっている。すぐさま走者の待機場所に目を遣るのは、そう難しいことではない。
スタートラインに立つ七人の少女たち。その中の一人に姐さんの姿を見るのも、また同様に容易いことだ。なぜなら俺は姐さんのことが大好きだからだ。なんというか、こう、リスペクトなのだ、とにかく。
「ゆっきぃ、りこたんいたりこたん。いたいたりこたんいた。りこたぁーーーん」
「わざわざ耳元でるっせぇ!! 壊れたカセットかなにかなのお前!? でもわかる。姐さんがんばれーーーー!!」
「りこたんこっちむいた!! りこたーーーーん!!」
「ばっかやろう姐さんは俺の方向いたんだよお前の方じゃねえし目が合ったッ!! っしゃおら俺の方が気持ち通じてるぅーー」
「なんでお二人とも、そんな勘違いイキリアイドルオタクみたいなノリなんですか?」
「いや、なんとなく?」
意味はない、そう、意味はないのだ。でもレスもらえたらうれしいよね、勘違いもしちまうってもんだ。そうさ、俺たち姐さんガチ恋勢だから。
「ここだけ盛り上がり過ぎてヤバいっすね」
「最前は激アツ、これは摂理だ、脇本」
「陸上競技の盛り上がり方じゃねえって話なんすよ。でも、確かに声援大きいっすね、紀子さん、特にあの辺から」
そういって、脇本が指したのは、なるほど、風紀委員会の臨時詰所のあたりか。風紀委員会に入るとだんだん声がデカくなるという話はよく聞くが、この空気をブチ抜くような、地鳴りのような大声援、ヤバい。
しかしそんな声援も、姐さんがスッと小さく手を挙げた刹那にそよ風に変わる。これが人を統率する人間の力というものなのだろうか。あるいは唐突のレスに多数のファンが気絶したり心肺が停止したりしたのかもしれない。
「はー、すご。やっぱ、小隊長とかになると違うのかねえ」
「ゆっきぃゆっきぃ、あたしもりこたんみたいになれるかなー?」
「お前のどの辺りをどうしたら姐さんみたいになれるかは、俺には皆目分からんが、大丈夫きっとなれる。そう、女の子は誰でもプリキュアになれるんだから」
「つまり、りこたんはプリキュアだった?」
「そうだな、キュア姐さんだ。がんばえーー、ぷいきゅあーー!!」
「がんばえーー!!」
「三木くん、そろそろフォローできなくなりそうですから、その辺で…」
こんな俺のことをまだフォローしてくれようというのか、幸村。なんて優しいやつなんだ。
「と、まぁ、真面目にいこう」
そう、そんなバカなことをやってるうちに、スタートの号砲は放たれてしまうのだから、待った無しなのだ。
「ギャッ?!」
「どうした脇本、屁でもこいたか」
「お、流れるように繰り出されるセクハラ。じゃなくて。なんであの組、800の本職が二人も入ってるんすか?」
「は?」
「いや、マジっすよこれマジな話」
確かに、明らかに速いのが二人いる。目を凝らして見てみると、姐さんは七人中の五番手に着けているから、ぼちぼち先頭からは離されているといったところか。順位的にはうーんと言いたくなってしまうところだが、ある意味でこれは俺たちとしては想定内の事態と言うべきことだったりする。
何でも出来る、というか逆に出来ないことは何なのかと問いたくなっちゃう姐さんのはずなのに、これはどういうことだという諸兄のために姐さんの古参ファンである俺から一つ補足しておこう。どんなことでもそつなくこなすというのは、姐さんの大きな特徴であるように思われるが、実のところそれは正確ではない。姐さんは前に自分でそう言っていたんだから、間違いない。
姐さんの最大の特徴は、その体力にある。つまり、有り体に言ってしまえば姐さんは体力オバケなのだ。俺の考えでは姐さんの運動性能のみならず、学業の成績や考えられないほどの真面目さ、実直さというのもーー怠けるのもズルをするのも、結局は疲れるからで、無限に体力があればそんなことをする必要もないのだーー、結局その無尽蔵の体力に裏打ちされたものなのだ。
「うわー…、御愁傷様っすねこれは…」
「流石の姉さんも、これはキツいか…、いや、しかし姐さんならあるいは…!」
まだほんの二年に満たない付き合いだが、俺は姐さんがへばっている姿というのを見たことがない。ただの一度も、肩で息をしている姿すら、全くもって見た記憶がない。
秋口にある、30キロメートルを走る強歩大会を全校三位でゴールしたあとも、息一つ乱していなかったという情報を、俺はしっかりとキャッチしている。
「そうだ、姐さんならなんとかしてくれる…!」
「紀子さん、がんばってください…」
結論だけ言うと、姐さんの長距離走のタイムは優に志穂のそれを上回る。もちろん志穂がお馬鹿さんで体力の調節が出来ないとか、長距離走をするためのスタミナはつけてないとかいう謎の言い訳はあるわけだが、それにしてもそのタイムはかなりとんでもない。
しかし姐さんの脚はそう速くない、無難に十人並みといったところだ。しかしその無限のスタミナによって、姐さんは長距離を走り続けてもまったくそのペースが変わらない。言ってしまえばマラソンランナーのような感じということなのだろうか。ペースが変わらない、つまりみんなが減速していく中盤から終盤にかけて、結果的に加速し続けていくようなものだ。
「りこたんがんばれーー!! かそくそーちッ!! かそくそーちつかってッ!!」
一人、二人と、地を洗う津波のように、徐々にペースを落とす前の走者を呑み込みながら姐さんは自分のペースで走り続ける。気づけば三位、悪くない位置につけているが、そこから先がどうしても届かない。脇本が本職だと言った先を走る二人が、まったく落ちてこないのだ。
やはり800では短すぎる。姐さんの本領は少なくとも1500からで、5000から10000にかけてはもはや陸上部であろうとその前を悠々と走り続けることはできまい。
「志穂、人間に加速装置はない。加速装置も空を飛ぶのも火を噴くのも、全てはサイボーグになってからだ」
「でもど〜じょ〜でしゅぎょ〜してればできるってししょ〜が」
「お前の通ってる道場はなんなの? 無辜の民を怪人とかに改造する悪の組織的な感じなの? ヤバくない?」
しかしなら、なんで1500に出ないのかって話になるのが当然なんだが、そこにはもうなんとも退っ引きならない事情があって、つまりは姐さんはこのあとすぐにお仕事へ行ってしまうということなのだ。
泣く子と地頭には勝てないとはいえよく言ったもんだが、姐さんはお仕事の要請には勝てないし、俺は行くと言う姐さんの鋼鉄の意思を挫くなど出来ようはずもないのである。ムリ、そう、ムリなのだ、ムリだからムリ、一応がんばったけどムリでした、だってなんて言っても「仕事だ」の一点張りだし、なんだかんだと策を弄した結果なんか怒られて説教からの鉄拳制裁ですよ、もうどうしたもんかって話ですよ。ていうか、なんで怒られるんだろう、まぁ、どうせ俺が知らず知らずに余計なことを言っちゃうからなんだろうけど。
だからその結果、クラスに一つだけある1500メートル走の出場枠は最有力候補を欠いた状態での奪い合いとなったわけだけど、最終的に決勝戦で志穂との一騎打ちーーじゃんけん一発勝負ーーを制した剣道部の須藤志摩が獲得したのである。剣道部だし体力ありそうとかいうふわっとした理由で推薦されてたけど、大丈夫だろうか。
「っだぁ〜、さすがにダメだったか〜」
「タイム的には立派なもんっすよ。あの陸部、二人とも県大レベルっすもん」
「陸部が体育祭ではしゃぐのなんとかなんねえのかよ、サバゲーに実銃持ち込むようなもんだろ。全身に重りでも巻いて参加しろよ」
「それ言われると陸部的に肩身狭いっすけど、まぁ、たまには見知ったみんなから喝采を受けたいと思っちゃいません?」
「分かるけどな、気持ちは。いや、三位は立派だ、俺も三位だし、おそろいだし。…、ふふ…、おそろいだ…」
「たまに三木くん、紀子さんに対してストーカー的で怖いとこありますよね」
「何を言う、純然たる友愛だよ、バカ言っちゃいけねえ」
「信じてますからね…」
「信頼度が高いのか低いのか分からん」
しかしまあ、実のところ三位以内に入るというのは、この体育祭での重要なファクターだったりする。当然だが体育祭なのだから得点を稼いで勝つのが目的で、それぞれの競技には獲得できる得点が設定されている。そしてその得点は、競技によってバラつきはあるのだがけれど、おおむね三位を境にしてグッと落ち込むようになっているのだ。
つまり仮に一位になることができないとしても、三位までに入れればそれなりにクラスに貢献出来るということだ。もちろん一位を狙っているのは誰しも変わらないだろうけど、もう俺たちも高校生だ、己の力量というものがそろそろ理解できてくる頃だもの、三位狙いも恥ずかしくはないのだ。
「ゆっきぃ、ししょ〜いた」
そして唐突に志穂の声が上がる。急にどうしたと思わなくもないが、そもそも志穂が唐突でなかったことの方が少ないと思い直し、無駄な発言は慎む俺である。
「マジ? どのへん?」
「あっちのほう」
「人が多すぎて分からん、服は」
「わかんない」
「分かんないなんてことあるか。えっと、じゃあ、なんか見て分かる特徴みたいなのは」
「みえないからわかんない」
思考を、一時停止。こいつ、いったい何を言ってやがる。見えてもいない人を見つけたとでもいうのか。意味の分からないことを宣うのは志穂の常であるが、これはまた輪をかけてよく分からない。
「さてはお前、適当なこと言ってからかってるんだろ。そんな高等テクニック、いつの間に身につけたんだ」
「そんなことないもん、あんないできるよ!」
「マジかよ。待ち合わせ場所とか、ちゃんと覚えてんのかよ、ほんとに」
「まちあわせばしょ? さがすから、そんなのないよ?」
「は? 待ち合わせ場所決めないで、どうやって探すんだよ。こんだけ人がいるんだから、闇雲に歩いてて見つかるもんでもねぇだろ」
「? さがすのかんたんだよ、きをね、さぐれば」
日常言語から激しく逸脱したワードの気配に背筋が凍る。き、ってなんだ。『気』か? 気配の、気なんですか、もしかして。え、気を探るって、バトル漫画の世界でしょ、現実でやっちゃダメ、というか、やれちゃダメでしょ。
「…、ワンモアタイム、プリーズ」
「ワンワンタイム?」
「…、き、って、なに?」
「わんわんは?」
「それはいい」
「そっか……」
なんで少し残念そうなの。犬がいいの? 犬が大好きなの?
「だれかと会うとき、きをさぐるでしょ?」
「そんなこと、したことないんだよなあ…」
「え〜??」
そんな、目玉焼きには醤油でしょ? みたいに言われても、ソースの人も塩コショウの人もいるんだから。じゃなくて。
本気で不思議そうな顔。やはりこいつ、俺たちとは住んでいる世界、あるいは次元が違うのかもしれない。
「いつもはね、ししょ〜のきはわからないんだよ。でもね、まちあわせなら分かりやすいようにひらいとくっていってたの」
「常時気配遮断に加えて任意解放…、忍者か何か…?」
「ニンジャ! かっこいいよね!」
「それは否定しないけど、今はそこじゃない」
しかしまさか、この情報化社会に気配を探って待ち合わせをする人間が存在するとは。もしかして、気を通わせて遠隔地でも会話が出来たりもするんだろうか。
武道家も極まると、己が身に家電並の性能を宿すということか。でもそれ、過酷な修行をしなくても、普通にお金出したらほぼ同じような機能が手に入るんだけど、などと考えてしまうのは、資本主義という毒に身も心も犯された現代人の悪しき思考なのだろうか。