入場門前にて
「それじゃあ、俺はそろそろ行くぞ、脇本。お前も同じ競技なんだから、行かないとマズいんじゃねぇの?」
志穂は無事に100メートル走で勝利を収め、続く茅場も二位とかなりの好成績。なかなか出足好調と言いたいところだが、なかなかそう楽観的なことばかりも言っていられないのが現状だった。その理由は、まぁ、いろいろあるのだが、うだうだといっぺんに説明するのもめんどくさいので、おいおい小出しにしていくことにしようと思う。
ともあれ、100メートル走は無事に終わり、これから三年生が走り終わり次第選手が退場し、連動するように入場するのは次の200メートル走の選手たちだったりする。うちのクラスから200メートル走に参加するのは、確かメイと高見だったと思うけど、どうだったか。今のタイミングで入場門まで行けば、もしかしたら入場直前のメイと鉢合わせるくらいはできるかもしれない。
「あ〜、そうね〜、んじゃうちも行こうかなぁ」
200メートル走の次の種目は400メートル走、つまり俺の出場する種目だ。選手は二つ前の種目が終わるまでの間に入場門前に集合しなくてはならない、俺たちにもじきに招集放送がかかることだろう。
もちろん招集がかかるよりも前に行っていてもいいわけであって、呼ばれる前に自分で判断して移動を開始するのが暗黙のルールという感じになっているのだ。高校生なんだからそれくらいのことは自分で考えて動いてね、というのが体育祭実行委員会の毎年変わらないスタンスだったりする。
「そういえば、三木くん」
自分の椅子の背に打っ刺しておいた霧子ちゃんお手製の応援旗が、外出中に吹き飛ばされてしまわないように刺さり具合を確認すると、俺はストレッチの代わりに軽く伸びつつ席を立つ。脇本もそれに続くように席を立つと、居残り応援組に軽く声をかけてから二人揃って入場門へと足を向ける。
「今日は、ご家族は?」
てくてくと歩きながら、ふと脇本が俺に疑問を投げかける。なぜそんなことを聞くのかと少し考えて、別にただなんとなく聞いているだけだろうと結論づけた。なんでもかんでもかっちりとした理由があると思ったら、それこそ大間違いというものだ。
まぁ、雑談っていうやつだ、いわゆる。
「ご両親やご兄弟は、観にいらしてるん?」
俺は、クラスの中で自分のことをあまり意図的にしゃべっていない。だからこうして、俺の家庭の事情を知らない人も相当数いるわけで、時折こんなとんちんかんな質問を投げかけられることもなくはない。
もちろんここで正直にすべてを打ち明けることも出来るが、そんなことをする必要があるのだろうか。こんなものはただの世間話だ,その場面でそんな無駄に重い話を投げかけることもあるまい。
「親はちょっと忙しくてな、来てないんだ。そのかわり弟が見に来てるよ」
「へぇ、そうなんだ〜。うちはねぇ、お母ちゃんとお父ちゃんが見に来てるんよ」
「ほ〜、そうなのか。そりゃよかったじゃねぇの」
「それがいまいち、そうでもないんよ。もう高校だってのに、お母ちゃんは重箱でお弁当つくっちゃうし、お父ちゃんは全力でビデオ撮影してるし、恥ずかしいったらないんよ」
「そんなこというなよ、親にとってみたら子どもはどこまでも子どもで、何歳になったってかわいがりたいものなんだろうからさ。それに脇本は一人っ子なんだろ? なおさらってもんだろ」
「いや、分かってるんだけどさ〜、それでもやっぱ、恥ずかしいものは恥ずかしいっていうか?」
「恥ずかしくても、親にかわいがられるのが一人っ子の定めで、仕事みたいなもんだ。諦めるんだな」
「いいんよいいんよ、もうそれくらいのことは慣れっこだから。今さら騒ぎ立てるようなことでもないんだし」
「しかし、お母さんが気合い入れて弁当つくってくれるってのはいいよな。うらやましいぜ」
「え? 三木くんのおうちは、お母さんがお弁当つくってくれるんじゃないのん?」
「弁当は俺がつくって、たんだ、去年までは。今年から、…、姉ちゃんがつくってくれることになったんだ」
「は〜、おねえちゃんが。三木くん家は、お母さんはお料理しない人なのかい?」
「そうだな、ちょっといろいろ、どうしようもないレベルで忙しい人でな。出来ればやってほしいところなんだけど、でもそんなこと言えないだろ?」
「そうだねぇ、無理はさせられないよねぇ。助け合いっていいと思うよ、うち」
「だろ? そういうことなんだよ。うちもいろいろ、それなりに大変でな」
「みんながみんないろんなところで大変なんだねぇ…、大変な世の中だよ。それで三木くん」
「なんだ、脇本」
「三木くんは、話をするたびに兄弟姉妹の構成が変わるねぇ」
「…、おいおい、そんなわけないだろ」
「いやぁ、こないだ話したときは兄と弟の二人兄弟って言ってたはずだよ。うち、ちゃんと覚えてるから」
「いやいや、そんなことないって」
「弟とか妹が増えるのは分かるけど、おねえちゃんが増えるってのはどうかなぁ、いただけないよ、三木くん」
「…、分かった、認める、おかしなこと言ったのは認める! 確かにおかしなこと言った! でも全部まとめて説明するのめんどくさいし、聞いててかったるいと思うから突っ込まないで! 今は俺の中では、姉・俺・弟の三人兄弟ってことで落ち着いてるから、そういうことにして!」
「ん〜、別に三木くんが何人兄弟でも、いいんだけどねぇ。ただうちも、変わってるなぁと思っただけだし」
「うち、けっこう複雑だから、あんまり突っ込んだ話すると、みんな引いちゃうと思うんだよ。だから、あんまり家の話はよそう、な?」
「話したくないことは、無理に話すことないんよ、三木くん。自分が話したいことを話せばいいんじゃないのん? んで、家族のことも、話したくなったら話せばいいだけじゃん?」
ちょっといいこと言ったっぽい? 脇本は、そう言って愉快そうに、あるいは照れ隠しのように二ヒヒと笑った。俺は、これ以上この話を引っ張ってもいいことがないのは目に見えているので、とりあえずお口にチャックで入場門を目指す。
「とりあえず、勝つか、脇本」
「ん? うちは、はなっからそのつもりなんよ?」
「俺は、今何となくそんなつもりになった。負けるかもとか、考えるのやめたわ」
「おぉぅ、男だねぇ、三木くん」
「おぅ、俺は男の中の男だぜ」
俺の家族関係についての話は、実際俺にとっても鬼門であり、決して避けて生きていくことのできない重荷なんだと思う。っていうか、物心ついたときから血縁全滅してるとか、俺はいったい前世でどんな悪いことをしたんだよって話なんだよ。
まったく、こういう嫌な気分になったときは、何かで淀んだ気持ちを発散させなくてはならない。そしてちょうどいいことに、俺はこれから競技に参加することになっている。そこで思う存分発散させてもらうことにしようではないか。
仕方ない、まったく、仕方がないことだ。俺がやる気を出してしまうとなると、このレース、どうなってももう知らないぞ。
…………
入場門にたどり着くと、そこでは多くの人の動きが錯綜し、かなり慌ただしい感じになっていた。
「なんか、去年よりもずいぶん慌ただしくないか?」
「ん〜、そんな気がしないでもないし、そんなことないって感じもする?」
「なんつぅか、指揮系統が乱れてるっていうか? 詳しいこと分からんけど」
「あれじゃねぇのん? 去年は風間ちゃんが体実にいたから?」
「…、あぁ、姐さんか。それは分かる、姐さんは優秀な指揮官だからな、どうしてか異様に集団がうまくまとまるんだよな」
「まぁ、それがほんとの理由かどうかは、うちには分からんけどさね。あとで風間ちゃんに聞いてみるといいんじゃないん?」
「そうだな、そうするか。んで、俺たちはどこに並んだらいいんだろうか」
「たぶんこの列の後ろに並ぶんだろうけど、細かい待機場所まではわっかんないなぁ。体実が声かけるまで大人しく待ってるのがいいんでない?」
「分からないのに勝手に動いて後で修正されるのも、無駄だしな。大人しく待ってるか」
とりあえず、ここに集まってどうしたらいいか分からない俺たちは、この場の責任者である体育祭実行委員会が動き始めるのを待つことにした。それまでは、しょうがない、間もなく入場を始めるであろう200メートル走の選手であるメイと高見を探して激励でもしておこうじゃないか。
もちろん、探すこと自体はそう難しいことではない。入場門の直下に固まって座っている集団が次の競技に参加する選手たちなわけで、その中に含まれているメイも高見も当然この集団の中のどこかに座っているはずなのだ。ちょっと意識して見渡せばあっという間に見つけることが出来るはずだ。
「やぁ、三木くん、直接応援にきてくれたのかい?」
と、俺から声をかける前に、集団の中から声がかかった。声の主は、俺たちのクラスの200メートル走の代表選手の一人、高見順。女子の中では霧子の次に長身で、どことなく中性的な、かわいいとか美人とかいうよりも優しそうとか穏やかとかいう言葉が似合いそうな感じがする。
「半々かなぁ。俺たち、400メートル走るから」
「そうか、なるほど。それじゃあ僕からも応援させてもらわないと」
「いやいや、俺はいいからとりあえず目の前の自分のレースに集中してくれよ。せっかく100メートルが二人とも勝ってくれて勢いついてるんだからさ」
「そう、そうなんだよね。僕は、そこまで走るのは速くないから、申し訳ないな」
「やる前から負けたつもりになってるのはいただけねぇな。やってみないと分からないからレースっていうんだぜ、高見」
「そうなんよ、高見ちゃん。メイちゃんの方には陸上部のスプリンターが入っちゃってるけど、高見ちゃんの方にはいないんだから、とんとんだよ、とんとん」
「え、なんだ、メイの方のレースには陸上部がいるのか? んだよ、きっついなぁ」
「持田ちゃん、がんばってですよな。でも持田ちゃんも速いし、なんとかなるんでない?」
「いやいや、そうそううまくもいかないだろ。メイ、がんばるんだぞ、とにかく全力尽くしてこい、な」
「…………」
メイは、いつもならばもっと饒舌なはずなのに、今ここではただこくりと、一度小さくうなづいただけだった。あれ、どうしたんだろう?
「メイ、どうした、無口だな。…、いや、別にいつもだって一言たりとも口をきくってことはないんだけど?」
なんだこの違和感…。なんだろう、慣れた状況からズラされたというか、外されたというか。何かがおかしい気がするんだけど、何がおかしいのか明確に掴めない。
するとメイは、両手の平が見せるようにパーにして俺に向け、それからグーパーグーパーと手をにぎにぎしている。いったいどうしたというんだ、唐突にダブルじゃんけんか? 俺はチョキとチョキを向ければいいのか?
「…、あぁ、ケイタイがないのか、メイ。そりゃあれだ、無理だわな」
もう一度、メイはこくりとうなづくと、困ったような笑みを浮かべて可愛らしく小首を傾げる。
ケイタイがないとなると、それはもうメイにしてみたら翼の折れたエンジェルに等しく、もはやクイズ番組で一回休みになってしまった状態なのである。そりゃ、何の意思表示もしてこないわけだ、そもそもそれが出来る状態にないのだから。
「それじゃあ、アレだ、とりあえずがんばれよ」
こくり
「スタートダッシュだ、スタートダッシュ。いくら陸上部だって、初っぱなに一発かませばビビるかもしれないだろ」
こくり
「…、体育祭が終わったらいっぱい話そう、な、メイ」
こくりこくり
「もし姐さんに会えたら、ケイタイ返してもらえないか聞いてみるわ、うん」
こくり
…、ダメだ、コミュニケーションが困難すぎる。
くそぉ…、どうしてこういうときまで一言もしゃべってくれないんだ…、まるで俺がデカい声で独り言言ってるイタい人みたいになってるじゃないか…。
いや、もちろん、ケイタイを持っていたとしても、俺がデカい声で独り言言ってる感は取り除かれることは決してないわけで、俺の社会的評価が復活するなんてことはファンタジー以外の何者でもないんだけど。メイと友だち付き合いすることになった時点で、その周りからの一定の白眼視は折り込み済みなのだが。
もうほんと、姐さんにメイのケイタイを返してもらえないか聞かなくちゃいけないな。
「いや、まぁ、メイさんが、自分の口でしゃべってくれればいいだけの話なんだけどね…」
「三木くん、それはムリだと、うちは思うなぁ」
「え、ムリなの? やっぱムリなの?」
「だって持田ちゃん、中学校のときからずっとアレだもんよ。っていうか、中学校のときはケイタイすら持ってなかったし、さらにひどかったんよ?」
「え、まさかの筆談? 筆談しちゃってたの?」
「まさかぁ、完全完璧にシャットアウト、だったんよ。持田ちゃんが口開いてるのなんて、今のとこ中高通して一度もないっしょ」
「あれ、脇本って、中学どこ?」
「持田ちゃんといっしょなんよ、市外だよ。ま、市外っつっても、隣の駅が最寄り駅だけどさ」
「市の境だからな、うちの街は。となると、脇本もバス通学か」
「んにゃ、うちはダッシュ通学だよ」
「お前、志穂みたいなことするなよ…、キャラ被るだろ…」
「えぇやないの、うちがダッシュ通学しても。んでな、持田ちゃんは、小学校のときは知らないけど、中学校ではほんとにまったくしゃべらんかったよ。うち、中学のときも一回同じクラスなったことあるし、確信ありよ」
「高校デビューとかじゃなかったのか……。となると筋金入りだな、ちょっとやそっとでの更正は望めないか……」
「ま、ムリっしょな。中学のときはもう、先生たちも知らんぷりだったから。しゃべらんくても授業受けられるし、テスト受けられるし、別にいっかって感じだったんかと?」
「そんじゃ、中学のときもしゃべらない理由とかはまったく言わなかったってことか。うぇ〜、なんとかして聞き出して話できるようにしてあげたいと思ったけど、それ俺が思ってるよりも茨の道だったり?」
「そうさねぇ…、そうじゃねぇ?」
「ま、俺は諦めないけど?」
「はぁ〜…、三木くん、強ぃ〜…」
「400メートル走に参加する選手は集まってくださ〜い」
「あ、呼ばれたな。行くぞ、脇本」
「あいあいさ〜」
メイのことは、おいおい考えることにしよう。どうせすぐに結論が出るようなことでもないんだし、急いだからと良い結果を得ることができるようなことでもないのだから。
今はとりあえず、招集がかかったのだ、体実と協力して素早く列形成をすることがやるべきことに違いあるまい。