時間だよ、みんな現着
一方その頃……。
「弥生さん、急いでください! もう始まる時間になってしまいます!」
「落ち着いてよりんちゃん、受付の開始から開会式の開始までは一時間もあるんだよ。まだ開会式は全然始まらないんだから、急がない急がない。まだ焦るような時間じゃない、だってば」
「かりん様、あまり急いで走られては危険です。お荷物を持たれているのですから、転んでしまいますよ」
「私の荷物は巾着一つなのですから、転ぶようなことはありません! それよりも弥生さん、急いでください!」
弁当の支度を済ませたかりんさんは、広太と弥生さんを引き連れて体育祭の会場である俺たちの学園に向かっていた。ただしかりんさんは学校に来たことがないので、一人だけ先に大急ぎで会場入りすることはできず唯一道を把握している広太に合わせての移動というわけなのだが。
「広太さん、道はこちらでよろしいのですね! それではあの角をどちらに曲がったらいいのか教えてください!」
どうにも大急ぎで移動したくてたまらない様子であり、頼むから迷子になったりしないでほしいところだ。
「かりん様、あまり急がれますと汗をかいてしまわれます。淑女として、息せき切って移動をするというのはあまりよろしくないかと思われますが。それと、曲がられるのはあちらの角ではなく、突き当たりのT字路です」
「淑女として間違っていても、それでも始まる時間に遅れてしまうよりはマシです! あぁ! 始まる時間まであと20分しかありません!」
「りんちゃん、あたしの計算が正しければだね、その学校まではあと5分とかからずに到着するはずなんだ。ほら、地図もさ、こうしてもう近くだよって示しているんだよなぁ。5分かけて到着したとしてね、まだ始まるまで15分の余裕があるんだよ、分かる? ロジカルに考えて、それはどうしたって動かない事実だよ、20から5を取ったら15、おっけぇ? だからね、おねえさんは比較的大荷物なんだわ、あんまり急がないでくれると非常に助かるんだけれども、どうだろうか?」
「もし受付に20分かかってしまったらどうするのですか! そうしたら、幸久様の体育祭を5分も見逃してしまうことになるんです! どうするんです!」
「受付に20分を要するということは、さすがにありません。昨年度の場合ですと、開会式の10分前に到着して受付に要した時間はおおよそ30秒ほどでした。受付といいましても、特別に何かをするということはなく、受付に立っている教諭に軽く会釈をする程度です。特に手荷物検査などをすることもありませんでしたし、今年度も多くの時間を割くということはないかと思われます」
「だってさ、りんちゃん。心配しなくても開会式から一分一秒だって見逃すことはないよ。なんせ去年を経験しているひろがそういってるんだから。先人の知恵に従って、無用な心配はしない方がいいんじゃないかな?」
「ほ、本当ですか? 本当に大丈夫なんですか?」
「はい、仔細問題ございません。私にも幸久様の体育祭のご様子をビデオに撮影して残すという使命がございますので、遅れて参じることはどうしたって許されないのでございます」
「へぇ、ひろが今日のビデオ撮影係なんだねぇ。がんばってね! おねえさんは、特になんにもがんばらないから!」
「はい、お任せください」
「そういやさ、思ったんだけど、ゆきは別に家なき子ってわけじゃなかったよね。ひろ以外の家族的な人々は体育祭を観に来たりはしないのかい? いるんだよね、身内」
「幸久様のお父様とお母様は、幸久様が幼少のみぎりに亡くなられました。私も当時は子どもでしたので直接の記憶はなく、執事長よりの伝聞なので詳しいことは存じ上げませんが、交通事故で亡くなられたと伺っております」
「いやいや、それは覚えてるよ、おねえさんの記憶力なめちゃいけねぇ。産みの親はいないけど育ての親は、って状況だってところまでは覚えてるから、心配ないよ。りんちゃんは知ってる? ゆきマニアだから知ってるよね? おねえさんが知ってるのに、知らないなんてことないよね?」
「はい、存じ上げております。従者である広太さんのお家が身元引き受けになっているんですよね」
「よくご存知でいらっしゃいますね、かりん様。あまり口外している話ではないのですが」
「広太さんのご実家からお話はよく伺っていますから、知っているのです。幸久様のことですから、どのようなことであろうと知っていなくてはならないのです」
「はぁ〜…、強迫観念的にゆきのことが好きだねぇ、りんちゃんは。そんな調子でゆきに重いとか言われない?」
「幸久様はそのようなことは申されません。仮にそのように感じていらっしゃったとしても、おいそれと口に出されるような方ではありません」
「ということは、思ってるけど言ってないだけっていう可能性も微レ存?」
「私には、幸久様の深遠なるお考えの片鱗も覗くことは出来ません。ですが、幸久様は概ねどのようなことでも受け止める大きな器をお持ちですので、かりん様のことを疎ましく思われるということはないでしょう」
「そうかぁ、それで、ひろの親父さんとか来ないの? せっかくだし見に来ればいいのにねぇ」
「いえ、執事長とメイド長はこちらには参りません」
「へぇ、来ないんだ。別にそりが合わないとか仲が悪いとかいうわけじゃないんでしょ?」
「えぇ、それはもちろん。私が言うのもおかしな話ですが、今も昔も二人は幸久様のことを実の子ども以上に溺愛していますので」
「実の息子的にはそういうのは辛かったり?」
「いえ、特にそのような感情はありません。もともと従者としての敬愛の情が備わっているのですから、それに親の情が重なって肥大したということだと思われますので」
「そっか、別にひがんだりしないんだね、ひろは。大人だねぇ……」
「いえ、執事ですので。畢竟、執事とは家具です、嫉妬や僻みなど必要ありません」
「ふぅん…、そういう考え方ね。いいんじゃない、そういうのも一つの考え方だからね、おねえさんは否定しないよ」
「はっ!? 広太さん、そこに見える大きな建物がそうですか!?」
「はい、その通りにございます。まだ時間にも余裕がありますし、あまりお急ぎになりませんよう」
「えぇ、そうですね。遠目に見たところ入り口に人が停滞していることもなさそうですし、受付に時間がかかるということはなさそうです。これならば急ぐことはありませんね」
「ほらね、おねえさんの言った通りじゃない。ゆっくり普通に行こうね、りんちゃん」
「はい、そうしましょう。あっ、広太さん、少しよろしいですか?」
「なんでしょうか、かりん様。お弁当でしたら丁重に持たせていただいておりますので、特に問題はございませんが」
「いえ、そうではなく、…、あのことなのですが、大丈夫でしょうか……?」
「あのことというと、どのことでございましょうか?」
「もう、そんな意地悪なことを言わないでください、広太さん」
「申し訳ありません。ですが、かりん様のおっしゃられようとしていることをより確実に把握するためとご理解ください。従者の当てずっぽうで主の考えを推し量ることは、出来ることならばするべきではありませんので」
「それは、そうですね。確かに私も曖昧なことを言いました。私が言いたいのは、昨夜のことです。昨夜の、あの方のおっしゃられたことが、どうしても心配で」
「はい、あのことでしたら、私が思いますに、そこまでご心配なされることはないのではないかと存じます。あの方もあれでかなり子煩悩ですので、どのようなことが起ころうとも幸久様を見捨てるということはあり得ません。任せておいても特に問題はないかと」
「そ、そうでしょうか……? 私もできるだけ気をつけたいと思うのですが、むしろ何もしない方がいいのでしょうか?」
「あまりにも状況が大規模だった場合のみ、私は動きます。ですので、基本的にはあの方にお任せしようかと思います」
「広太さんがそうするならば、私もその方針に従うことにします。何も起きない可能性だってあるわけですから、過度に心配するというのもおかしな話ですよね」
「二人してないしょの話なんかして、どしたの? おねえさんにもないしょのお話かい?」
「…、かりん様、あちらに幸久様がいらっしゃいます。入場門で整列して待機しているということは、間もなく開会式が始まるということかもしれません。一言声をかけていらっしゃるならば、今しかないかと思われます」
「ほ、本当ですか! それでは私は少し行ってきますので、お二人はここで待っていてくださいね!」
「…、そんな露骨に話を反らすってことは、おねえさんには言えないってことだねぇ。分かる、比較的察しのいい女だよ、おねえさんはね」
「申し訳ございません、弥生様。機密に当たります故」
「いいよいいよ、無理して聞き出そうってほどじゃないし。さぁて、今のうちに場所取りの見当でもつけとくかねぇ……」
「本日は昼前に合流の予定がありますので、出来ることならば混雑した場所ではなく開けた場所の方が好ましいのですが、どうでしょうか。よさそうな場所はあるでしょうか?」
「そうだねぇ…、ビデオも撮るわけだし、あんまり遠く離れたところに場所取りってわけにもいかないでしょ? となると、あっちの方になっちゃうかな。あそこの、一段高くなってるあたり、どう?」
「あぁ、そうですね、あそこならば撮影もし易そうですし、合流するための目印としても機能してくれそうです。さすがは弥生様、ご慧眼です」
「いやぁ、褒めるねぇ、ひろも。別に褒めても何もでないよ? それで、午後から合流する人って誰さん?」
「幸久様のご友人の霧子様の、ご家族の方です。弥生様と面識があるかどうかは、存じ上げませんが」
「あ〜…、前にちらっと見たことある、気がするけど…、どんな娘だっけ? ちっちゃい娘?」
「いえ、霧子様の身長は、おおよそ幸久様と同程度なので、女性としては身長の高い方ではないかと」
「あ、はいはい、あのでっかい娘ね。覚えてる覚えてる、家族の人ってのは、多分知らないけど」
「お二方とも気のいいお方ですので、弥生様とも気が合うのではないかと思われますよ」
「お二方ってことは、二人なんだ。お父さんとお母さん?」
「いえ、お母様とお姉様がいらっしゃいます」
「そっか、どんな人なんだろう、楽しみだなぁ」
どうやら、三人は無事に学園までたどり着くことができたようだ。時間にも間に合ったみたいだし、よかったよかった。
そして、これから体育祭の幕が開く。さぁ、長い一日の始まりだ。