貴重品没収之事
二年七組の教室に足を踏み入れた瞬間、俺は何か得体の知れない悪寒に襲われた。それが何に起因するものなのかはまったく分からなかったし、別に今朝方から急に風邪をひいてしまったなんてことも決してない。でも、まるで背筋を氷でなぞられたかのような、駆け抜けるような寒気が走ったのだ。
「メイ、おはようさん」
それでも俺は、何事もなかったかのように振る舞いつつ自分の席に向かうと、すでに登校し準備を済ませていたメイに軽く声をかける。俺が手提げを置いた机の隣の席にちょこんと座っているメイは、もう体操着への着替えを完了しており、机の上にはこれから結わくのであろう赤の鉢巻きがきちんと几帳面に折り畳まれて一本、しっかりと置かれていた。
どこか神妙な顔をしてうつむきがちに座っているんだが、もしかして具合が悪かったりするんだろうか? メイは短距離走の主戦力だ、あまり調子を悪くしているようなら心配なのだが……。
『おはよ、幸久くん』
しかし、ポケットの中から滑らかな所作で取り出され開かれ向けられた携帯の画面には、瞬く間に紡がれたそんな文字列が踊る。どうやらメイは今日も元気で調子もよさそうだと、俺はその動きの滑らかさから察することが出来た。だが、それならどうしてちょっと神妙な顔をしているんだ?
「いよいよ体育祭だな、メイ。元気?」
『元気、今は』
「今だけ? これから元気なくなる予定なのか?」
『そういうわけじゃないけど。ただ、体育祭にはケータイ持ってけないから』
「あ〜、貴重品は、預けるんだったか?」
『もうすぐのりちゃんが、袋を持ってあたしのケータイを没収しに回ってくる。幸久くん、守って』
「それは無理だ。俺は姐さんには抵抗できないんだ」
『でも、ケータイ取り上げられたらあたししゃべれなくなっちゃうよ?』
「チャンスチャンス、ケータイ使わないでしゃべるチャンスだよ、メイ」
『それはイヤ』
「でも姐さんはそんなこと言ったって許してくれないぜ? みんなが貴重品を預けてるのにメイだけそれを免除なんてありえると思うか?」
『思わないから、幸久くんに助けてって言ってるの』
「だろうな。まぁ、とにかく俺には無理だ、どうしようもない。メイのケータイを守るためにいろいろすったもんだあった後、けっきょくよくわからないうちに姐さんに謝ることになるだろうな、その展開だけは明確に見えてるわ」
『それでも、幸久くんはがんばってくれると信じてるから、ね』
「まったく、厳しいなぁ、メイのトスは。まぁ、やるだけやってみるから、期待せずに待っててくれよ」
『ムリを承知でがんばってくれるのがうれしいの』
「おぅ、任せとけ、がんばるのは得意分野だ」
「三木、ようやく来たか。今日は体育祭当日なんだからもう少し余裕を持って登校しないか」
「姐さんおはよう、最近は朝練とかあって少しがんばって早め登校してたんだから、今日くらいは勘弁ですよ」
「余裕を持って生活することは、当然のことだ。そうしていれば何事においても焦ることはなくなり、こうして私から小言を言われることもなくなる。また、ギリギリの時間を狙って生活するよりも精神的な落ち着きを得ることが出来、時間的な拘束もわずかにではあるが緩くなり自由にすることの出来る時間が増える。そうなれば勉強や運動など様々な活動に回す時間を増やすことが出来る。となってくれば体力が付いて身体能力が上がり、学力が向上して成績がよくなる。分かるだろう、毎日少しずつだけ時間を節約して余裕を持って生活することで、様々ないいことがあるんだ」
「早起きしただけで学力が上がるんだったら、すべての国民が早起きになって全国的に遅刻数は減少の一途をたどるぜ、姐さん。つまり、姐さんの言ったようにことを運ぶためには早起きをするだけでじゃなくて、早起きした後に勉強なり運動をするっていう強い意志がないと話にならないわけよ。そんな意思がちゃんとあったら早起きできなくて悩むなんてことはそもそもないわけだし、早起きとは関係無しに勉強して運動して学力も身体能力もうなぎ上りだよ。逆に意志がないと早起きはそもそもしようと思わないし、仮に早起きしたとしても勉強することも運動することもせず益体もなく寝転がってだらだらと時間を過ごすことだろうよ。そして俺は、むしろ後者だ」
「つまり、必要なのは早起きをして勉強するという方法的解決ではなく、そもそも勉強をする意思を持つという抜本的解決だということか?」
「ん〜、そういうことじゃね? 事実、俺はどちらかというと早起きだぜ?」
「それならばこそ、三木、お前はむしろ己の振る舞いと自堕落を恥じ入るべきだとは思わないか」
「思わなくはないが、そこまでは。だって朝はいくら早起き癖がついてるからって眠いわけだし、時間になるまで家から出たくはないわけだし、勉強はどうせ学校に行ったらイヤでもやるからわざわざ多めにやりたいとは思わないわけだし」
「そういう自堕落はいけないからまずは今より五分だけ早く登校するように心がけてみるといい。五分くらいならばそう大変ではないだろう」
「まぁ、霧子が五分早く起きてくれたらな。たぶん無理だけど」
「やりもしないうちから無理と断じてしまっては何事もどうしようもあるまい。やってみろの心意気を持つんだ」
「それは、分かってるぜ、姐さん!」
「うむ、いつもながら返事はいいな。ところで三木、今日は体育祭の当日だ。さぁ、貴重品を提出しろ」
「は〜い、ケータイと財布と、あとなんかある?」
「いや、それだけで十分だろう。それとも、それ以外に貴重品を持ち歩いているのか?」
「そんなことないぜ。そもそも貴重なものなんてそう持ってないからな」
「む、三木、財布の中身が少々重いように感じられるが、大金を持ち歩くのは感心しないぞ」
「いやいや、そんな大金なんて入ってないって。慎ましやかに貧乏だよ、俺は。もし重いと感じるんだとしたら、それは小銭が多いんだと思うぞ」
「小銭が多い? なんだ、買い物をしたときに小銭の持ち合わせがなかったのか?」
「いや、普通に昨日ゲーセン行っただけ。…、あ、いや、姐さん、俺はゲーセンなんて、行ってませんよ?」
「三木! 私があれほど口を酸っぱくして言っているにも関わらず、まだゲームセンターなどに行っているのか! そういった場所は非行の温床になっている場合が多く、危険に巻き込まれてしまいかねないのだからと何度…!」
「あ〜、いや、姐さん、えっと、あのね、はい、俺が悪かったよ。うん、姐さんが何度も注意してくれてるのは分かってるんだ、もちろん分かってる、というか記憶してる。それでもね、昨日は仕方なった、あ、いや、もちろん言い逃れをするつもりはないし、姐さんが怒ってるのを理解してないわけでもないから、そこは間違えないでくれ」
「それでは、お前は分かっていながら間違いを犯したということだな」
「そういうことって、よくあると思わない。やっちゃいけないことをやっちゃうとか、やらなきゃいけないことをやらないでいたりとか? ほら、テスト前だから勉強しないといけないって分かっていながら部屋の掃除始めちゃうとか?」
「ない」
「そう…、ですよね……」
「私とてお前が憎くてこのようなことをしつこく言っているわけではないのだ。お前には中学時代から引きずっている良くない人間関係があるのだから、人一倍期をつけなくてはならないと言っているだけだろう。どうして人の言うことを聞くことが出来ないんだ」
「だってさ、昨日は久しぶりにゲームしたい気分だったんだから仕方ないと思いません?」
「お前はそんな気分程度の理由で私との約束を反古にするというのか?」
「バレなきゃいいでしょみたいな感じでやっちゃいましたすいませんでした!」
「まったく…、私は心配しているんだぞ。心配しているこちらの身になってくれ、とは言わないが、少しくらいは察してくれ」
「以後、気をつけます」
「それでは財布と携帯電話は預からせてもらうからな。この袋に入れてくれ」
「はい、よろしくおねがいします」
「さぁ、持田も、いつまでも駄々をこねていないで携帯電話をこちらに渡しなさい」
『助けてくれるって言ったのに、幸久くんの役立たず…』
「いや、姐さん相手なら仕方なくね? ぶっちゃけどうしようもないだろ?」
「三木、当人を前にして陰口を叩くのは止めないか。卑怯なのか一周回って正々堂々としているのか分からなくて反応に困るだろうが」
「か、陰口ではありませんよ?」
「そうか、それならばいい。持田、そうむくれるんじゃない、携帯電話は体育祭が終わり次第すぐに返してやる」
「メイ、どうだ、これを機会にケータイでしゃべるのは卒業して、ふつうにしゃべるようにするっていうのは」
「…………、ヤ…………」
「珍しくしゃべってくれたと思ったら拒絶の一音節じゃねぇか……。まったく、とんだ頑固者だな、メイは」
ケータイを取り上げられてしまったメイは、どうやら俺の役立たずぶりが気に食わなかったらしく、ちょっと不機嫌そうな風に頬を膨らませ俺からぷいっと顔を背けると、席に座って机に肘を突くとぷぇす〜、と頬にためた空気を細く長く吐き出した。まったく、気に入らんと言われても俺は姐さんと論戦の相性が悪いんだから仕方ないではないか、いったいどうしろというんだ。
じゃんけんに例えれば、俺がチョキだとすれば姐さんはグーなんだ。ちなみに言えば霧子はパーに近い。志穂はもはやじゃんけんという枠に押し込めることが出来ず、メイは反則技のグーチョキパーだろう。いや、別にじゃんけんで例える必然性は何もないわけなんだが。
とにかく、俺としては、別にケータイがなくたって俺はメイとコミュニケーションを取るために行動を起こすだろうし、メイがケータイを持っているか持っていないかなんて些細な問題でしかないのである。それならばこそ、当然メイが何をどう考えているかは何も分かりはしないが、俺個人としてはそうそう問題が生じてしまったとは思っていなかったりするのだが。
まぁ、つまり何事も考え方次第ってことだろう。いや、違うかもしれないけど。