朝に聞けなかった話とは
「歌子さん、すいません、来るのがだいぶ遅くなってしまって。というか、そもそも連絡するのも遅くなっちゃいまして、ほんとすいませんでした」
晴子さんのバイト先のメイド喫茶からなんとか無事に帰還した俺は、しかしだからといって晩飯の仕度をして俺の帰りを待っているかりんさんと広太が待っている自宅に真っ直ぐ戻ることはせず、アパート一階の奥の部屋へと向かった。なぜそんなことをするかといえば、それはもちろん今朝のことがその要因なわけであって、言うならば約束を守ることこそがその目的であると言うべきだろうか。
今朝の約束とは、もちろん歌子さんが朝っぱらから我が家を尋ねてきたときに聞くことのできなかった何らかの話というものを、聞かなくてはならないということである。どうもそれなりに重要な話のようだし、実のところ気が向いたときに来てくれと言われたわけなのだが、それであっても速やかにそこへと向かうべきなのだ。
「いえ、構わないのですよ、三木さん。もともとこちらの一方的な用事でお呼び立てしているのですから、こうして三木さんに来ていただくことが出来たというだけでこの上なくありがたいことだと、私は考えています」
「いえ、まぁ、学校から帰ってきたら部屋に来させてもらうって約束でしたから。した約束は、忘れてしまわない限り基本的に守る主義なので」
部屋の前までやって来てチャイムを鳴らすと、部屋の中から鍵を開いて俺を出迎えてくれたのはもちろん歌子さんであって、エプロンをして腕まくりをしていることから、ちょうど夕食の仕度の最中だったのではないだろうか。そして、どうやら未来ちゃんは自分のお部屋でお勉強をしているようで、部屋の中にその姿を見ることは出来なかった。
「…、あれ、なんかいいにおい、しませんか? お香とか、アロマみたいな……」
「三木さんがせっかくいらっしゃったのです、出来得る限りの準備をしてお待ちしていたというだけのことです。この香は、私の実家で伝えられているものの中でも特に素敵な香りのものを、特別に精製しました」
「ご実家は、お香をつくってらっしゃるんですか? 職人さんの家系とか、そういうものなんですか?」
「いえ、そういうわけではありません。まぁ、手習いのようなものです、簡単なものですよ」
「へぇ、そういうのって、簡単にできるものだったんですね。でもなんだかやたらといいにおいだったから、職人のこだわり的なものが詰まった逸品か何かかと思いましたよ」
「簡単な材料でも、工夫次第でいくらでもいいものをつくることはできるのですよ、三木さん。いいものだから高価というわけでは、決してありませんから」
「なんか、どっちにしろそういうのも職人って感じですけどね。ま、いっか、それで、アロマがいい匂いっていうのは置いておいて、歌子さん俺に話って何ですか? 朝はちょっと立てこんでて聞きそびれちゃったんで」
「えぇ、私のしようとしていた話というのは先日の話の続きになるのですが」
「…、先日の話というと、アレの話ですか……?」
「はい、もちろん、アレの話に他なりません。まぁ、私としましては三木さんとお話しすることは数限りなくあるのですが、ここは直近の話ですので、それを優先的に話題として選択するのが正しいと思いましたので」
「あれ? 歌子さん、そんなに俺に興味を持ってるんですか? 俺なんて、別に普通ですよ? いや、まぁ、俺だって雑談とか世間話とか、話の種には事欠かないわけなんですけど」
「えぇ、三木さんに興味がないなどということが、どうしてあるでしょうか。個人的見解ですが、非常に興味深い。もちろんアレのことがあるというのもありますが、それを除いたとしても興味は尽きません」
「え~、そんなに面白いですか、俺。別に変なところとかありませんよ?」
「必ずしも、変なところがあるから興味深いというわけではありませんよ、三木さん。というよりも、三木さんが私たちにしてくださったことを考えれば、必然的に関心を抱かざるを得ないと言いますか、どうしたって関心と親愛を向けるに決まっています」
「…、俺、歌子さんにそこまでのことしましたっけ? もちろんこれは、アレのこともあるんですけど」
「はい、もちろん。仮にそれが三木さんにとってそれほどの大事ではなかったとしても、私たち親子にとっては何物にも代えがたいことだったのですから。それこそ、命の恩人という言葉を選ぶことも間違いではないと考えているほどですよ」
「そりゃ、人それぞれ感じ方はありますけど…、いや、それこそ個人の感性の差ってやつになっちゃいますよね。俺にとっては普通のことで、俺以外の人にしたら普通じゃないことなんて、ザラにありますから」
「そういうことです、三木さん。ですから、それが仮に三木さんが何気なくしたことであったとしても、私たちにとっては福音にも等しいことだったのです。ですから私は三木さんにご恩返しをしたいと思っているのです、それをいらないと言われてしまうと私の立つ瀬がなくなってしまいますよ。ですから三木さんは、私が勝手にやっていることを、ただそのまま仕方ないと受け入れていてくださればそれでいいのです。なんといいますか、私の顔を立てると思っていてくだされば」
「いや、歌子さんがそこまで言うのならば、っていうのはもちろんあるんですけど、でもなぁ……。歌子さん、アレはさすがに、どうしようもないですって」
「あら、そうでしょうか? 確かに三木さんの性格上そういったところもあるかもしれませんが、ですが好きなようにしてくださっていいのですよ。どうしてもいらないというのであれば、私は悲しいですが、捨ててくださっても構わないと言いましたでしょう?」
「俺のせいで女性が悲しむというのは、俺にとってこの上ない精神的負担なんですよ。だからもう、そんなことするくらいだったら俺自身を痛めつけたいっていうくらいの感じでして、もらった以上捨てるというわけにも行かないんですって」
「まぁ、三木さんはそう仰ると思っていましたが。そうなさると分かっているからこそ、私からの感謝のしるしとしてアレを差し上げたのですよ」
「? それは、どういうことで?」
「言うならば、自己保身です」
「自己保身…、っていうなら、そもそもアレを渡すという行為は自らの身を守ってはいませんよ。むしろ積極的な身売りじゃないですか、アレは」
「身売りと言ってしまえば、それはそうかもしれませんね。私としては売っているというわけではなく、あくまでも差し上げているつもりなのですから、あくまでも私個人としての観点から見れば身を損なうということにはならないと思いますが」
「それじゃあ、自己保身っていうのは、何のことについてなんですか?」
「それはあくまでも、私の精神衛生上の問題です。こう見えて私、あまり心が強くはないのです。それと、三木さんと比べて口も上手くありませんから」
「といいますと?」
「差し上げるものが簡単なものだと、三木さんに言いくるめられ、結局はいつの間にか断られ遠慮されてしまうでしょう。それではご恩返しをすることが出来ないではありませんか。だから差し上げるものは出来るだけ重大なもので、なおかつ断られたら出来るだけ私が傷つく物を選んだのです」
「それで、アレですか?」
「えぇ、我が家の鍵を差し上げること、私自身を差し上げることが、それが私が三木さんに贈ることが出来る物の中で私にとって最も大事な物で、受け取ることを拒絶されたとき、それがどのような手練手管を用いて行なわれたとしても、私自身を拒絶し私の人格を否定し、これ以上ないほどに私を心身ともに傷つけると考えましたので、むしろそれを選択しました」
「そんなこと考えてたんですか…、もし俺が断ったとしたら、どうするんです」
「三木さんは賢い方なのですから、そのようなことはなさらないでしょう? あなたは自分の行動が、どのような結果を導くかを考えることが出来る方なのですから」
「いや、でも、やっぱり、アレはもらっても困るっていうか……。っていうか、返しづらいですよ、アレは」
「どのようにして返したとしても、私を傷つけるでしょう? そうだとすれば三木さんは、その過程でどのようにどれだけ言葉を弄したとしても、結局は受け取られるでしょう? それならば、断られたときにどれだけ傷つくとしても、断られることがないのならばリスクになりませんよ」
「計算通りってこと、ですか、つまり」
「えぇ、だから自己保身だと言ったでしょう? 自分の身を守るというのは、自らにとって最も大きなリスクを如何にして回避するかということなのですから、とどのつまりそういうことなのですよ」
「なるほど、それは一本取られたということですね」
「ふふ、そういうことになるかもしれませんね。ですが、そうして計算していたということが一つもないとはいえませんが、三木さんに対する感謝の気持ちは偽りではありませんよ」
「ん~…、そこまで言われると、もう俺もよく分からなくなってきちゃうんですけど…、俺はつまりはどうしたらいいんですか?」
「あら、どうしたらいいなどと、不思議なことをおっしゃられますね。お渡しするときに言いましたでしょう? 如何様にも、三木さんがお好きなようになさってくださればいいと」
「…、それじゃあ、あの、たまに遊びにくるくらいで、いいですか? それ以上というのは、ちょっと良く分からないっていうか……」
「えぇ、かまいません。妾などと言いましたが、三木さんは学生さんですからね、そういったことはまだピンと来ないでしょう。ですから今のところは、別邸くらいに思っていらしてください。未来も、三木さんが遊びにいらしてくれるのを楽しみに待っていますから」
「そういえば、今日は未来ちゃんはどこに? さっきから姿が見えないんですけど、お出かけですか? でももう時間もちょっと遅いですし」
「未来は、三木さんとのお話の邪魔をしないよう向こうの部屋に入れてあります。ご心配には及びません」
「なるほど、あのへ、や……? …、あの、俺の部屋の間取りとこの部屋の間取りが同じだとすると、あそこの小さな扉はちょっと狭いウォークインクローゼットという名の物置ですよ?」
「そうですね、あそこは物置です。それなり以上に狭いので、人間が恒常的に過ごしていられるところではないように思われます」
「だ、出してあげてください!」
「えぇ、話も終わりましたので、もういいでしょう。未来、出てきなさい。もういいですよ」
「ふぇ~、もう物置で静かにしていなくてもいいのですか~? 狭くて暗かったですよ~……」
「み、未来ちゃん、そんなとこに入ってたんだね。暗くて狭かったよね、ごめんね」
「いえ、おにいちゃん、気にしないでください! おかあさんに、おにいちゃんはみくたちのだいおんじんだって聞きました! だいおんじんっていうのは、とっても大事ってことですから、みくはおにいちゃんを大事って思うことにします!」
「べ、別にそんなこと気にしなくていいんだよ、未来ちゃん」
「おにいちゃん、みくは、おにいちゃんのためになにをしたらいいですか? みく、がんばります!」
「ぇ…、…、ぃ、いやいや、未来ちゃんにしてもらうことなんて、だいじょうぶ、平気だよ、ないからね」
「ぇ…、みく、おにいちゃんに何もできること、ないですか……? みく、なにかおにいちゃんのためにがんばりたいって思ったですけど、ダメですか……?」
「あっ!? いや! えっとね! ダメなんてことは、ないよ!?」
「ふぇ? ほんとですか?」
「ほ、ほんとほんと。だから泣かないでね? 泣きそうな感じにならないでね? ちっちゃい女の子に泣かれちゃうと、脈と呼吸が乱れて体調が悪くなっちゃうんだ、実は」
「そ、それはたいへんです! おにいちゃん、苦しいときはなでなでするとおちつくんです! みくがすぐになでなでしてあげます!」
「ぁ、ありがとね、未来ちゃん。でも、今は平気かな、うん」
「ふぇ…、やっぱりみく…、おにいちゃんのためにがんばれないですか……?」
「あっ、ここで無限ループか!?」
そして、どうしようもない無限ループの存在に気づいてしまった俺は潔くそれに屈し、未来ちゃんの気が済むまで四半時間ばかりなでなでと頭やら背中やらを撫でられたりさすられたりしたのだった。まぁ、こうして未来ちゃんの相手をするのもそれなりに楽しいことだし、それ自体はいいのだが、やっぱり小さい子に撫でられるというのはどこか気恥かしいものだ。
しかし、いろいろとこれからどうしたものかと思ったが、けっきょく考えたところでどうにもならないのかもしれない。とにかく、今日のところはそう問題もないようだしいいとして、問題はこれからだよなぁ……。体育祭もあるし、あんまり考えるべきことが立てこまないでほしいんだけど……。
というかけっきょく、歌子さんが俺に感じてる恩ってなんなんだろう。なんとなく聞けずじまいで終わっちゃったんだけど、ほんとに心当たりはないんだよなぁ。