待っているのは師匠
「おかえりなさいませ、ご主人さま♪ 本日はお一人でのお戻りですか?」
「お、お一人です……」
「メイお嬢様は本日ごいっしょではないとうかがっておりますが、よろしいですか?」
「きょ、今日はいっしょじゃないで、大丈夫です……」
「はい、承りました♪ それではあちらのカウンターでお席をお取りしておりますので、どうぞ♪ お荷物お持ちいたしま~す♪」
「あっ、す、すいません……」
学校を飛び出した俺は全力のダッシュでバス停へと向かい、折よくやってきたバスに飛び乗って隣街の駅へ。そして到着するや否や転がり出るような勢いで下車、一度行っただけのおぼろな記憶を頼りに走り抜けること十数分。そしてなんとかかんとかたどり着いたのが、晴子さんのバイト先であるところのメイド喫茶『cafeteria SouthernCross』、絶賛営業中である。
「三木様、おかえりなさいませ。ハルちゃんから本日お戻りになられると聞いておりましたので、お待ちしておりました」
「あっ、いえ、あの、恐縮です……」
入口で俺を出迎えてくれた『メグ』さんの後について店内を進んでいると、スッと店の奥から音もなくやってきたのはメイド長の『キョウカ』さん。今日もスタイリッシュなヘッドセットを装備し、一般メイドと一線を画する雰囲気を醸し出している。
ちなみに今のところ店内の席についている客は、俺の他には主婦風のおばさまの三人組がいるだけで、静かな雰囲気の店内というよりも、リアルに静かな店内といった感じになっていた。そしてその分動き回るメイドの数も少なく、今の二人に合わせてもう二人だけが働いているようである。
そのメイドたちの中にはもちろん晴子さんもいるわけであり、遠目にではあるがその姿を見ることが出来る。メイド長の『キョウカ』さんも案内してくれている『メグ』さんも、一般的観点から見れば美人といって間違いではない容姿をしていて華があるのだが、ごく個人的願望を述べるならば、晴子さんが早くこっちにきてくれないかなぁと思っていたりする。
そうだ、そういえば晴子さん、自分のことを指名しろとか言っていなかっただろうか? これってもしかすると、指名しないと目当ての人がこちらに来てくれないシステムになっているのかもしれない。となると、ここは晴子さんのことを、いや、『ハル』さんのことを指名したいという旨を早急に伝えるべきなのではあるまいか。
「あの、今日は」
「三木様は、本日はハルちゃんを世話係として指名されるという話を聞いておりますが、それで間違いありませんでしょうか」
「は、はい、ぜひそれでお願いします」
「はい、それではただいまハルちゃんを呼んで参りますので、少々お待ちくださいませ。ご注文もハルちゃんが伺いますので、なんなりとお申し付けください」
「ぁ、ありがとうございます」
しかし、前回来たときにも感じたが、やはり店内の調度品は良いものを惜しみなく使っているようで、随所にこだわりが見え隠れしているように感じる。ほら、この椅子とか、向こうのサイドチェストとか、ちょっとしたアンティーク家具じゃないか。こういうところでの、店舗としての初期投資を惜しんでないっていうか、店内で感じるちょっとした高級感が、決して安くないんだよな。
庄司の家でそういう家具なり小物なりに囲まれて育ってきて、それに加えおばさんにそれなりに仕込まれてきた俺としては、どことなく馴染む空間というか、実家に帰って来たみたいな感じが無くはない。まぁ、それこそ変な話なのかもしれないけどな。
「ご主人様、お荷物はこちらに置いてしまってもよろしいでしょうか?」
「あっ、はい、もう床でもどこでも置いちゃってください」
「もぅ、ご主人様、床になんて置いたりしませんよ♪ お荷物は椅子の下に置くことが出来るようになっているんです♪」
「そういえば、前回もそうだったかも。あのときはメイがしてるままに何も考えないで動いてたから、全然覚えてなかった……」
「くすくす♪ ご主人様、意外とお茶目さんなんですね♪」
「いや、いつもそうってわけじゃありませんよ。たまたまあのときはぼぅっとしてただけで」
「ご主人様は、よくぼぅっとしていらっしゃいますよね?」
「あっ、ご主人様、ハルちゃん、いらっしゃいました♪ それでは私は、このまま下がらせていただきますね♪」
「代わります、メグちゃん。ご主人様、長らくお戻りにならなかったので、僭越ながらご心配差し上げておりました。お久しゅうございます」
「ハルさん! 会いたかったです!」
「はい、私も、お会いしたく存じておりました、ご主人様」
そうして恭しく頭を垂れる晴子さん、いや、ハルさんは、メイド長と同様に音もなく俺の座る席の脇に現れ、少なからず俺を驚かせたのである。しかし、やはり晴子さん、メイド服も華麗に可憐に着こなしている。晴子さんのブロマイドを手に入れてからというもの毎日毎日その姿を目に映しているとはいえ、こうしてリアルな存在として目にすることが出来るのは僥倖である。
もはや眼福の域を超え、まぶしすぎて直視することすら困難ではあるが、だがそこは勇気と気合と根性をもってして真っ直ぐにその姿を見据えるのである。もうかわいいとか、美しいとか、そういう尺度で計ることのできる次元ではなく、ただ一言「神」と言わざるを得ないあたり、まだまだ俺の信仰値も伸びしろを有しているようだった。
「そういえばご主人様、先日さしあげた私の写真、どうなさいましたか? 貴重なものですし、もちろん、大事にしてくださっていますね?」
「はい、当然です! キレイにラミネートして、写真立てに入れて、毎朝毎晩祈りを捧げています!」
「とても大切にしてくださっているようで光栄ですわ、ご主人様。でも、こうしてなかなかお戻りになられないのは、メイドの身ではございますが、とても寂しく思っています……」
「こ、これからは週一で来ます! ハルさんは、何曜日ならここにいるんですか?」
「毎週火曜日と金曜日には出勤することになっていますので、そのときに来ていただければご主人様にご奉仕させていただけるかと」
「火曜と金曜だけですか?」
「いえ、それ以外の曜日にも出勤することはありますが、毎週決まってというと、火曜日と金曜日になります」
「分かりました、それじゃあ毎週金曜日は来ることにします」
「はい、それでは金曜日は、お戻りになられるご主人様のために格別のご奉仕をさせていただきますね」
「もしかして、ハルちゃん、実はご主人様とお知り合いなのですか? なんだか、とっても仲良しさんの気配なのですが? それとも私の勘違いです?」
「いえ、もう、そうなんですよ。実は僕たちとっても仲良しでして」
「メグちゃん、そういえば向こうでメイド長が呼んでいましたよ。詳しくは聞きませんでしたが、何か用があるそうです。ご主人様のお世話はご指名を受けた私がさせていただきますので、メグちゃんはそちらの方をお願いします」
「あら、そうなのですか? それではそうさせていただきますね♪ ご主人様、失礼いたします♪」
「こちらは私に任せて、メグちゃんは他のお勤めをお願いしますね。……、よし、行ったわね」
「…、なんか、一瞬にして晴子さんになりましたね、ハルさん?」
「そもそもあたしがハルっていう役を演じているだけなんだから、なったっていう言い方自体がおかしいのよ。もとに戻っただけじゃない、本質的には」
「そう言われれば、そうですね。まぁ、俺としてはメイドさんとしてキャラづくりしてるハルさんよりも素の晴子さんの方が好きですし、元に戻ってくれた方がうれしいんですけど」
「好きっていうの止めろって言ったでしょ、ちゃんと覚えなさいよ、ウザいわね。あんた、師匠の言ったことはちゃんと一言一句記憶していなさいよ。っていうかむしろ、記録してなさいよ、脳内に」
「いや、俺としては晴子さんの言葉は残さず刻み込んでるつもりなんですけど、やっぱりどうしても完璧にはいかないですよ。人間なんですから、そこらへんはどうしようもないですって」
「それじゃあんた、人間やめなさいよ」
「出来るか分かりませんけど、全力で努力します!」
「それで、あんた、何を注文するつもりなの。あたしの労力はより少なく、あんたの支払う代金はより多くなるようなものを注文するのよ」
「…、そういえば晴子さん、質問があるんですけど、いいですか?」
「…、はい、ご主人様、ご注文承りました。一から十までメイドにおまかせセット、お一つお持ちいたします」
「あれ? 何も言ってないのに注文が決まっちゃったぞ? もしかして俺からの質問なんか受け付けるつもりは一切ないぞっていう意志表示ですか? ま、いっか、晴子さん、お願いします」
「はい、それではこちらをどうぞ、ご主人様」
「…、晴子さん、これは思うに、お冷というやつではないでしょうか? というか、あんまり冷たくないからお水って感じです」
「それ以外の何に見えますでしょうか?」
「いえ、お冷に見えます。ついでに言うなら、お冷はさっきメグさんが持ってきてくれたので、着席直後にも関わらず本日二つ目のお冷です」
「は? あんた、あたしの持ってきたお冷が飲めないっていうの? いつからあたしにそんなえらそうな口がたたけるようになったのかしら? ねぇ、いつかしら、具体的に言ってみなさいよ、それがいつなのかを」
「いや、そんな、飲まないなんて言いません、ありがたくいただかせていただきます。もう、感激の極みです」
「ご主人様、あたしのお冷とメグちゃんのお冷、どっちがおいしいかしら? 当然、あたしのよね?」
「もちろんです、晴子さんが手ずから注いでくれたお冷なんですから、甘露も同然です。っていうか、なんかほんとに甘い気がします、美味しい!」
「そうね、あんたはそれでいいのよ」
「ちなみに晴子さん、このお冷、もとい一から十までメイドにおまかせセットというのは、いったいおいくらになりますので?」
「1500円」
「…、あの、このメニューの、コンセプトは?」
「『1500円でご主人様にご満足いただけるよう、しかしそれでありながら店に赤字を出さないよう、メイドが知恵を絞って最高のサービスをお届けいたします』、よ。メニューにそうやって書いてあるでしょ」
「そして晴子さんの最高のおもてなしがこれ、ということですか?」
「なによ、文句あるの?」
「いえ、晴子さんがそう言うなら文句はありませんけど、ちょっとただの水だけっていうのは、寂しいです。水だけっていうことに決して文句なんてないんですが、なんというか、もうちょっとかまってほしい気分で」
「まぁ、あたしもただ水を持ってくるだけで終わらせるつもりはないわ。あんたが喜びそうなサービスを、もう少しだけしてあげるつもりよ。ありがたすぎて死んじゃいそうでしょ、ご主人様?」
「それってもしかして、晴子さんがつくったケーキがいただけるので?」
「言っとくけどあたし、今日はキッチンに一歩も踏み込んでないから。ほら、ちょっとそのグラス貸しなさいよ、特別サービスしてあげるわよ」
「え…、あげたものを途中で取り上げるのがサービスなんて、さすがにひどすぎることはしないでくださいね……? 俺がいくらMっていっても、さすがに凹みますよ、それは」
「そんなこと考えもしなかったわよ、ほんとに変態ね、あんた。あたしがご主人様にしてあげるサービスは、もっと心やさしいことで、少なくともご主人様が喜ばれることよ、よかったわね」
「それは何にも代えがたい光栄です。どうぞ、晴子さん、何の躊躇もなくお冷を持って行ってください」
「最初からそうしてればいいのよ、あんたは。それじゃサービスしてあげるわよ。んくっ…くちゅくちゅ、ぺっ! ぺっ!」
そして晴子さんは、何というべきか、つい今しがた持ってきてくれたお冷を一口含むと、まさにうがいするようにしてからそれをグラスの中に戻し、物のついでとばかりに一切の躊躇なくつばを吐き捨てたのだった。
その一連の流れを眼前で目の当たりにしてしまった俺は、いったいどんな反応したらいいのか分からなくなっていたわけであり、数瞬の思考停止と行動停止を必然的に余儀なくされてしまっていた。もう、あまりにその動きがスムーズかつ自然なものであったので、突っ込みを入れる余裕も暇もないのである。
「…、晴子さん、これは……? いえ、あの、それはそれで、よろこんでいただくわけなんですけど……」
しかし、そうしてなんとか言葉を絞り出したわけなのだが、冷静になってよく考えてみたらそれはご褒美以外の何物でもなかったわけであり、何の躊躇もなく受容するにやぶさかではない状況であったらしい。もちろん晴子さんもそれは百も承知といった様子で、俺の心の動揺などあってなきが如しと泰然とこちらに視線を向け、至って自然にその言葉を発した。
「これをお飲みになれば私と間接ディープキスですわ、ご主人様。どうぞ召し上がれ」
「そ…、そうか!! なんてラッキー!!」
さっきまでとかすかに違う――あえていうならばほんの少しだけ濁ってしまったお冷のグラスは、カウンターに置かれコトンと小さく音を立てる。しかし俺にとって、それはもうただのお冷などではなくなっていた。っていうか、こんな超絶サービスがたったの1500円でいいのだろうか?