少女を目覚めさせるだけの、簡単なお仕事
「霧子、起きてないな~?」
自宅に戻ってジャージから制服への着替えを済ませた俺は、再び全力に近いダッシュで三木家から天方家までの約100メートル弱の距離を走り抜けると、門扉の前でチャイムを鳴らすのもほどほどに大急ぎで玄関のドアに取りつくとドンドンとそれに堅めた拳骨を打ちつける。そして、テクテクといつものゆったりとしたペースで出迎えてくれた雪美さんとごく簡単に挨拶を交わし、それからリビングで優雅にコーヒーなど嗜む晴子さんに挨拶の言葉をかけるのだった。
「まぁ、もしも起きてたら、俺がここまで起こしに来た意味がまったくもってなくなっちまうわけだけど…、それはそれで悪くないよなぁ……」
少しだけ不機嫌そうにしていた晴子さんだったが、霧子の朝食だけはすっかりと用意してあったわけで、たぶんなかなか霧子を起こす役の俺が来なかったから片付けをすることが出来なくていら立っているだけに違いない。まぁ、本当に急いでいるときは片付けは俺に放り投げて出掛けてしまうわけだし、今日はそこまで急ぎの用はないんだろう。つまり、ただ単に俺が来るのが遅くて片付けに取り掛かることが出来ないという事実にいら立ちを感じていらっしゃるに違いないのだ。
「うん、まぁ、だろうな。いや、むしろここで霧子が起きてたりしたら、今日ってなにか特別な用事でもあったかと怪しむべきところなわけだし、逆に安心って感じだよな」
「にゅ~…、すぅ~……」
というわけで、霧子は今日も安らかな寝息を立ててあったかい布団の中にくるまっていたのだった。俺なんかはもう掛け布団は仕舞いこんでしまってタオルケットだけで寝ているわけなのだが、霧子はまだ秋冬用の掛け布団を使っているようだ。いや、もうさすがに毛布は片付けてるみたいだし、だいたい春秋仕様といったところだろうか。
霧子が夏用の寝具をクローゼットから取り出し、布団を夏仕様に取り換えるのはもう少し先の話であり、今のところはその姿を拝むことはないだろう。霧子がタオルケットだけで眠る姿は七月中旬から八月末日までの短い期間――おおよそ夏休み一杯といったところか――でしかないのだ。
「霧子、起きろ~。こんな程度で起きるとは思ってないけど、起きろ~」
お行儀よく仰向けになりながら目の下まで隠すように掛け布団を引っ張りあげていつもの寝方をしている霧子は、そしていつものようにむにゅむにゅと寝言を漏らしつつ睡眠にいそしんでいるわけであり、今のところ目を覚まそうという気概はまったくもって感じられない。それならばこそ、少し肩をゆすって振動を与えたところで目を覚ますなんてことはないわけであり、今日も少しはがんばらないと霧子を起こすという大仕事を成し遂げられそうもなかった。
まぁ、いつもそんなに楽というわけではないが、しかし慣れている俺にすればそこまで大変な仕事ということはないのである。とりあえず、今日も霧子を可及的速やかに、かつ快適に目覚めさせなくてはならず、それこそが今この場で俺に与えられた責務であることは疑いようもない。
というか、今日に限ってはさっさと霧子を起こしてしまい、それからシャワーを借りて朝練でかいた汗を流してしまいたいところである。そこまで派手に汗をかいたわけではないが、しかし全身にじっとりと薄く汗がまとわりついている感覚はあるわけであって、まったく無視してしまうことはできないのである。
こういう細かいことを気にするあたり、俺って体育会系にはなれそうもないなぁと思ってしまうのだ。特に屋外グラウンドで走り回るような部活動は、ご免こうむるといったところだ。汗も気になるけど、それに加えて砂埃とかもそこはかとなく気になってしまう性質だからな、俺は。
いや、これまで一度たりともそういう部活動に入ったことがないから、その実態がどのようなものかということは、まったくもって知りはしないわけなのだが。
「にゅぁん…、にゅぅ~……」
「…、振り払いおったぞ、この娘っ子…、なんだよ、今日も起きるつもりはないってことなのかよ」
参ったな、今日はさっさと起きてくれることをほのかに期待してたっていうのに、やっぱり今日もダメなのか。いや、まぁ、そもそもそんな簡単に目を覚ましてくれるわけがないっていうか、目を覚ましっこないってのは分かってたんだけどさ、でもこう、こんなに分かりやすく起床拒否されると、参るわけだ。
「霧子~、起きてくれよ~、俺は学校行く前にシャワー浴びたいんだって。っていうか、そんなことよりも、さっさと起きないと遅刻だぞ~」
「ふゅ…、ふぃ~……」
霧子が顔の中程まで引き上げている布団の裾を奪い取ると、俺は起きてくれるように心からお願いしながら軽くめくってしまう。すると布団によって隠されていた霧子の顔の下半分と肩のあたりまでが顕わになり、初夏の初めの微妙な温度の空気にさらされる。
しかし、眠っている霧子にはそれがイヤなことだったらしく、少しだけ不満そうな鳴き声を上げると、やけに器用にもぞもぞと掛け布団の中に潜行を開始する。具体的には、まっすぐにのばしていた身体を各所少しずつだけ屈折していく。そして十数秒の後、その全身は再び掛け布団の内の温暖領域に収まっていたのだった。
「相変わらず器用だな、霧子。起きてるときよりも眠ってるときの方が器用っていうのは、どうなんだろうな、実際のところ」
「んゅ~…、んにゃ……」
「そうか、どうでもいいか。そうだよな、そんなことよりも俺はお前の目を覚まさせるぞ。悪いな、こんなことをするのは本意じゃないんだけど、でも目を覚まさない霧子が悪い。少しくらい寒いのは我慢してくれよ。なに、もう冬よりも夏に近い気温だ、寒いっていってもその掛け布団の中よりも少し寒いってくらいだからな、すぐに慣れるさ。ほら、霧子、掛け布団にさよならしような。はい、さようならっと」
それならばこそ、その温暖領域そのものをそこからすっかり取り去ってしまえばいい。そうすれば、もちろんそれによって霧子がスキッと目を覚ますなんて幻想は存在しないわけはのだが、少なからず霧子を目覚めさせるというお仕事は進展を果たすわけである。
「あれ?」
しかし、どうしたことか、そこで俺の前に現れたのは昨日までとはどこか違う光景だった。
「なんだ霧子、少し前にようやく毛布を片付けたと思ったら、どうした。今年の夏はタオルケットと掛け布団の併せ技なのか?」
取り去ってしまった掛け布団の下、本来ならばかわいらしいパジャマに身を包んだ霧子が穏やかに寝息を立てているはずのそこに、あたかも俺の視線から霧子の身体を守るように存在する物が一つ。それは水色のタオル地の布、というか水色のタオルケットだった。
その水色のタオルケットは、霧子の背の高さに比べれば少しだけ丈の足りない感じを禁じえないが、それも実のところ仕方のないことである。なぜならばそれは、実に霧子が小学校四年生のころから使い続けている、あえていうならば、霧子にとっては赤ちゃんのおしゃぶり的なポジションに置かれるべき逸品だったりする。
まぁ、霧子ももう高校生なのであって、ないと眠れないということはないわけなのだが、しかし霧子がいうにはあるに越したことはないらしく、夏になったら毎年毎年使っちゃうんだとか。そういう意味で、霧子もまだまだお子様というか、根本的なところが成長していないというか、でもぶっちゃけそういうところがかわいいとか思ったりするのである。
とにかくそういうわけで、霧子はこの間まで毛布が置かれていた掛け布団の下にお気にのタオルケットを召喚していたわけだ。というか、夏も近づき気温湿度共に上昇の一途をたどる今日この頃、せっかく使っている寝具を一枚減らしたというのに、なぜにまた一枚増やしているのだろうか、この娘は。
「しかし、いくらお気にのタオルケットって言っても、こいつもそろそろボロになってきたよなぁ……。霧子もきれいに使おう使おうってしてるわけだけど、経年劣化は如何ともしがたいからなぁ……。そろそろ買い替えが必要かもしれないけど、晴子さんは霧子が新しくしてほしいって言わないと絶対に金出してくれないし、雪美さんはそもそもそういうことに無頓着だからなぁ……。俺が晴子さんに進言した方がいいのかもしれないな、実際のところ」
「…、にゅふんっ! にゅ~……」
「ん~、やっぱり布団から出るのは夏でも寒いってことなのか? まぁ、まだ布団の中の方が外気温よりも暖かいだろうし、そういうこともないわけじゃないと思うけどさ、でもやっぱり夏も近いんだし、そこまで布団から出るのを寒がるっていうのもおかしくないか? っていうか、ここでくしゃみっていうのもちょっとあざと過ぎるんじゃないかと思うんだけど、どう?」
「…………」
「沈黙で返答か。まぁ、別に俺はそれでもいいんだけどな。でもとりあえず、今日のところはさっさと起きてくれないか? いや、だから、タオルケットに潜ろうとするな、潜るな、潜るんじゃない。もう、タオルケットも渡しなさい、ほら、放して、手を放しなさい」
「にゅ~…、ぃゃぁ~……」
「いやって言ったな、言ったよな。ほら、もう起きてるんだろ、起きてるってことで間違いないんだろ? だからさ、早く起きようぜ、霧子」
『幸久ぁああああああああああ!!! 早く霧子起こしなさいよぉおおおおおおおおおおお!!! 片付けできないでしょうがぁあああああああああ!!!』
「はいっ!! 今すぐにぃっ!!」
やばい、霧子をさっさと起こすとかいっておきながら、けっきょくうだうだと起こさずに時間が過ぎてしまっているではないか。いけない、それではいけないぞ、俺。これ以上だらだらしていたら晴子さんを怒らせることにもなりかねないではないか。というか、もう怒ってる? いや、まだまだこれくらい、怒ったうちには入らないか?
いやいや、もはやそんなことを言ってる場合じゃないか。晴子さんからこうして声がかかるような事態に陥っているだけで、もうピンチといって過言でないのである。それならばこそ、今はもう可及的速やかに霧子を目覚めさせなくてはならないわけであり、そうしないと学校に遅刻するとか、俺がシャワーを浴びられないとか、そういう霧子をさっさと起こすことが出来なかった弊害的なことが発生しかねないのである。
というか、俺は本当にシャワーが浴びたいんだよ。こんな体育のマラソンが終わった直後みたいな状態で一日の学校生活を全うするなんて、どう考えてもできようはずがないのだ。もういいや、手段選んでる場合でもないし、ここは普通に最後の手段に訴えることにしようじゃないか。それが最善の策だよ、もう。
「霧子、晴子さんがキレそうだから悪いな。とりあえず先に飯食ってくれ。まともに起きるのは飯食ってからでも遅くないだろ? それじゃおぶってくぞ、いいな?」
「にゅ~……」
「そうか、そういってくれると思ったぜ、流石は霧子、聞きわけのいい良い子だ」
そういうわけで、俺は最後の手段をとることにしたのだった。まぁ、最後の手段といっても、本当の奥の手はまだまだ隠しているわけで、最後の手段の第一段階を解放したとか思ってくれれば間違っていないと思う。つまり、まだ眠っている霧子をおぶって一階まで行き、眠っている状態のまま食事をさせ、その中での自然覚醒を狙おうという完全に霧子頼りで他力本願な、しかしそれでありながら食事という生理活動を強引にさせることでほぼ確実な覚醒を得ることが出来る策である。
この策の唯一の欠点は、あえていうならば、霧子に食事をさせるという手間がかかることだが、それにはこの際目を瞑ろう。仕方ないではないか、時間はないのに霧子は起きないし、しかも俺にはこれ以上霧子を目覚めさせるために割いている時間は残されていないのだから。シャワーを浴びられなくなってしまうのだから!
あとは、果たして晴子さんが眠っている霧子に食事をさせるという手間を引き受けてくれるかどうかだが、まぁ、それについてもたぶん問題ない。晴子さんは、あぁはいうものの、実のところかなりの妹煩悩であり、霧子のことが大好きなのだから。めんどくさそうにいやがっているように見せながら、心の中ではバッチ来いな感じになっているに違いないのだから。
…、もしもそうじゃなかったらどうするんだって? ははっ、なにいってるの、俺は晴子さんのことなら何でも知ってるんだぜ? 晴子さんについて、いったい何を勘違いすることがあるっていうんだ。…、いや、もちろん、晴子さんが意図的に俺に内緒にしていることについては知るよしもないけれど、晴子さんの心については以心伝心な感じで分かっているのだ。そうじゃないと弟子なんてやってられるかってんだよ。
「よし、霧子、これから身体起こすからな。起こしたら、俺の背中にしっかりつかまれよ。急いで一階まで降りるからな」
「にゅ~ん……」
「いい返事だ、霧子。あぁ、タオルケットもいっしょに持って行っていいから。ほら、行くぞ、せぇの」
ひょいと慣れた感じで――もちろん感じなどではなく、実際に慣れたものなのだが――俺は霧子を背中に乗せる。霧子がどうしても放そうとしないタオルケットが背中にかぶさるようになり、そしてその上から霧子がちょこんと俺の上に乗っている形だ。重さは、やはりそこまで感じない。霧子は身長は高いが体重はそれほどの重いわけではなく、その実たいした重みは感じないのである。
あえていうならば、かわいい妹が俺に体重を預けている信頼の重さというか、霧子のお気にのタオルケットが放つ歴史の重みというか、そういう抽象的な重みが双肩にのしかかってくる予感もするが、しかしそれも具体的に俺に身体的な労力を与えてくるということはないのである。
「今日の朝飯もうまそうだぞ、よかったな。毎食こんなうまいものが食えるなんて、この家の子どもは幸せだぜ、まったく」
未だ、霧子は俺の背中に乗っかってすいよすいよと寝息を立てているが、しかしその眠りは徐々に浅いものになってきているらしく、少しずつ口元からこぼれる寝言がはっきりしたものになってきている、ような気がする。そしてそれに伴ってか、俺がまた今日も起こしに来たということを認識しているらしく、目を覚まさせようとする害敵であるところの俺への抵抗が和らいでいる、ように思われる。
ともかく、霧子を起こすというこの仕事は、何らかの手段を用いて霧子をこの部屋から出すことが出来さえすれば俺の勝ちなのだ。つまり、今日も俺の勝利は目前なのである。
「さて、霧子をリビングに置いたら、シャワー貸してもらわないとなぁ……」
ともかく、これで今日も霧子は学校に遅刻することはなく、そして俺が遅刻をすることもないのである。本日も、まだまだ朝ではあるが、なんとか一段落といったところだろうか。