霧子を起こしに走れ、俺
「幸村、そういうわけだから、俺は急いで霧子を起こすために霧子の家に行くことになった。悪いんだけど今日のところは朝練はここまでってことにしてくれ」
「それは、誠心誠意お願いはしてみたものの、どうにもならなかったということですか?」
「端的にいうと、そういうことだ」
そもそもまともにお願いすることすら出来ていないわけだが、晴子さんとの通話は一方的に言うだけ言われて切られてしまった俺は、当初の想定通りこんな時間だというのに大急ぎで家まで帰らなくてはならなくなってしまったのだった。まぁ、朝練という言葉の響きでテンションが上がってしまい霧子を起こすという大事なお仕事について忘却するという愚行を犯した俺がいけないといわれれば、それはもうまごうことなくその通りであろう。
だからこそ、そんな救いようのない愚行を犯した愚かな俺は、その報いとして霧子を遅刻の危機から救うために全力ダッシュでの全速帰宅が要求されるわけだ。
「じゃあ、俺は帰る。もちろん遅刻するつもりはないから、また後で教室でな、幸村」
「はい、分かりました。そういうことでしたら仕方がないですよね。私は、一人では二人三脚の練習は出来ませんし、一脚先に教室に行ってのんびりしていることにします」
「悪いな、こっちの都合で振り回すみたいになっちまって。明日こそはきっちり時間まで朝練しようぜ」
「明日こそは、ですね。それでは三木君、あまり急ぎ過ぎず、気をつけて帰ってください。急ぎ過ぎて事故にあったりしないように」
「あぁ、出来るだけ気をつける。怪我して体育祭出れなくなりましたなんて、笑えないからな。それに、先生にも申し訳が立たないしな。あっ、それと、悪いんだけど俺の荷物さ、教室まで持ってってといてくれないか? 制服は持って帰るから、このかばんだけでいいんだけど」
「それは構いませんけど、私が持って行ってもいいんですか?」
「別にかまわないけど? 別に盗るようなものが入ってるわけじゃないし、問題はないぜ? まぁ、そもそものところ幸村がそんなことするなんて思ってないんだけどさ」
「も、もちろん、三木君の私物を盗ったりなんて、そんなことしませんよ、当然じゃないですか」
「だろ? なら問題ないって。んじゃ、悪いけど頼むな、幸村。昼飯のときにおかずを一つ分けてやるからさ」
「ほ、本当ですか?」
「あぁ、せっかく荷物をもって行ってくれるんだから、それくらいしないと悪い」
「それでしたら、丁重に運ぶことにします」
「なんだ幸村、腹ペコキャラか?」
「いえ、そういうわけではありません。ただ、そうした方がいいかなと思っただけですので、深い意味合いはありませんよ」
「そうか、それならいいんだけどさ。腹ペコが周りに増えると、俺の物理的な労力負担が大きく増えるからな。俺の周りにはもう二人も腹ペコがいるんだ、三人目は流石にご免こうむる」
「安心してください、三木君、私の食事量は人並です。それに、あまりご飯を食べすぎるっていうのも、かわいくないじゃないですか」
「そうか? 俺は腹ペコもかわいいと思うぞ。まぁ、もちろん度が過ぎればその限りではなくなるわけだけどさ」
「三木君にとって、志穂さんはかわいいんですか?」
「志穂はかわいいペットみたいなもんだ」
「それなら、一般人類は軒並みかわいいことになっちゃいますね」
「…、そうだな、そういうことになるな。なんてこった…、俺にとって相手が腹ペコかどうかは、評価の基準になってなかったなんて……」
「それってもしかして、三木君にとってはショックなことなんですか?」
「いや、ぶっちゃけそれほどでも。でも、志穂じゃない方の腹ペコの人がさ、俺にとってすげぇ大事な人なんだ。だから、俺はいったいその人をどんな点から大事に思ってるのか分からなくなりそうで、ちょっとな」
「それは、別に腹ペコかどうかが問題ではなくて、その大事な人が単に腹ペコな人というだけですよね? その人に対する評価そのものは、そこまで腹ペコっていう性質に左右されないんじゃないですか?」
「確かに、それはそうかもしれないな。それじゃあ俺は、雪美さんは雪美さんとして大切なんであって、別に腹ペコかどうかはそこまで問題じゃなかったってことなのか……?」
「私は、そうなんじゃないかと思いますけど……」
「いや、きっとそうだな。そうだ、俺は別に腹ペコじゃなくても雪美さんのことが大事だぞ!」
「それで三木君、その雪美さんというのは、どなたですか?」
「雪美さんは霧子のおかあさんだ」
「なるほど、霧子さんのお母様ですか。それなら三木君が大事に思うのも納得です」
「俺、ずっと昔に母ちゃんが死んじまってるからさ、雪美さんは俺のおかあさんでもあるんだよ。いや、もちろん、霧子の家に住んでいたことがあるとかではなくてな。雪美さんは俺のことも実の子供みたいにかわいがってくれたってことなんだよ。だから恩人っていうか、まぁ、おかあさんなんだよな」
「三木君…、そんな過去があったんですね……。私、ぜんぜんそんなこと知りませんでした……。それであの、このことは他に誰に言ってますか?」
「他に? ん~、具体的に誰かは分からないけど、そんなに喧伝して回ってる話でもないからな…、みんなあんまり知らないんじゃないか?」
「そ、そうでしたか…、いえ、特に何ということではないんですけれどね」
「そうなのか、ならいいんだけど。まぁ、俺にとっては記憶にも残っていないような過去の話だからさ、そんな深刻に取ったりしないでくれよ。こんなこと言ったら親不幸かもしれないけど、産みの親はいなくてもともとだと思ってるんだ、俺自身。確かに俺を産んでくれた父ちゃんと母ちゃんがいるのは分かってるんだけどさ、でもだからってその人たちのことを俺はまったく知らないわけなんだよ。だからもう、俺にとってはいないもいっしょなんだよな、やっぱり。それならそこで止まっちゃうんじゃなくて、今を大事にした方がいいに決まってる。今いない実の両親よりも、今いる育ての親だし、それと同じくらい友だちが大事なんだよ。…、つまり、アレだ、俺が言いたいのは、この話を聞いたからって、俺に変に遠慮したりよそよそしくしたりしないでくれってことなんだ。出来れば変わらず接してくれ、頼む」
「それは、分かりました。三木君が喜ばないようなことは、したくないですから」
「あぁ、助かるわ、そうしてくれると。っと、そんなこと話してる場合じゃなかったな。それじゃ、俺は一回家まで帰って霧子を起こしに行ってくる。幸村、荷物は任せたぞ」
「はい、任されました。私が責任もって三木君の荷物を教室まで運んでおきます」
そして俺は制服が入っているトートバッグだけ肩にかけると、残りの荷物を全部幸村に託して校庭を後にしたのだった。今から走って帰れば時間的にはなんとか間に合うわけだし、むしろこのタイミングで晴子さんに電話することが出来てラッキーだったということが出来るかもしれない。
まぁ、出来れば晴子さんが霧子を起こしてくれれば御の字だったのは間違いないわけなのだが、しかし晴子さんがそれを了承してくれるとは最初から思ってなかったし、その拒絶はそこまでショックというわけではない。ここで最大の観点は、晴子さんにお願いを拒絶されたということではなく、無理なものは無理ときっちり言ってもらえたことにあるだろう。
ここで変に希望をもたせるみたいな言い方をされてしまうと、俺はその晴子さんの思わせぶりな態度に甘えて霧子を起こしに行かず、八割方霧子は遅刻することになるだろう。だからここは、晴子さんがしっかり拒絶してくれたことに感謝するべきところなのである。
「あれ、姐さん、もう校門に立ってるの?」
「むっ、三木か? 何をしている、早退か?」
「早退って…、まだ学校始まってないよ、姐さん」
しかし、可及的速やかに校門を走り抜け家に向かおうとした俺だったのだが、どうしてか校門の脇には姐さんが立っていたわけであり、どうしてもそんな姐さんに声をかけずにはいられなかった。だって、まだ七時だよ、こんな時間から校門わきに立ってるなんて、どうしたのって思うだろ、普通。
「たしかに、授業が始まっていない以上早退ではないな。しかしそれならば、三木、お前はどうして校門を外に向かって走りぬけようとしている。今朝は真田と体育祭の朝練をしているのだろう。私が思うに、朝練というのは朝のホームルームが始まるまでやるものなのだが、違ったか?」
「うん、それは違ってないと思う。違ってないんだけど、ちょっと諸事情あってね、俺は家に帰らないといけないんだ」
「忘れ物でもしたのか?」
「あ~、そんなとこ。霧子をさ、起こしてくるのを忘れちゃって、急いで起こしに帰らないといけないのよ」
「三木はもう学校に来ているのだから、それは天方のご家族の方に任せるのが筋というものではないのか?」
「そうかもしれないんだけど、でもそうならないのが不思議なところなんだよな、実際。霧子の家族はもう霧子を目覚めさせることを諦めてるんだ、だから俺が起こしに行かないといけないんだ」
「確かにゴールデンウィークのときもなかなか目を覚ましそうになくて不安になったが、もしや家出もあのような具合なのか?」
「まさか、家の自分のベッドで自分の枕に頭を乗っけて自分の敷き布団に寝転がって自分の掛け布団にくるまってる霧子があんな簡単に起きると思ったら大間違いだぜ、姐さん。霧子は本当に、生半可な手立てじゃ起きっこないんだって」
「だからといって、ご家族の方ならば起こせないということはないのだろう?」
「起こせないってことはないだろうけど、でも起こそうっていう気概はない。霧子のことを起こしているのは、中学校のころからずっと俺だ」
「そ、そうだったのか…、それは、なんというか、大変だな、三木」
「まぁ、俺も俺で毎朝霧子のことを律儀に起こしに行くからさ、霧子自身が寝ることに躊躇がないっていうか、俺が絶対に起こしてくれるから自分は起きる努力をしなくていいと思ってる感じなんだよな」
「天方は、自分で目覚まし時計をかけたりはしないのか?」
「いちおうケータイのアラームはかけてるんだけど、そんなので起きるわけないっていうか、マナーモードを解除してないから音がしないんだよな、起きるわけない。どんだけやっても起きられないって諦めてるからこそ最低限のポーズだけ取って、誰にも迷惑かけないようにしてるつもりなんじゃないか? そもそも俺に迷惑かけてるっつぅのに」
「そうだろうな、やはりどのような状況に置かれたとしても毎朝天方を起こさなくてはならないというのは過大な労働だろうからな」
「ウソ! ごめんウソ! 霧子を起こすのが辛いとか迷惑とか、ウソ!! 霧子に頼られるの、めっちゃうれしい!! 姐さん、ウソついてごめん!!」
「そ…、そうか……。それならば、いいのではないか……?」
「うん、いいんだ、ぜんぜん。まったく問題なかった。それで、話は変わるけど、姐さんはなにやってるの?」
「うむ、今日は校門に立つ担当だ」
「いや、早くない? こんな時間に登校してくるやつなんていないよ、あんまり」
「そうでもないぞ。部活動の朝練をする者や朝の時間を利用して勉強する者などが、このような時間から登校してくるのだ。三木もこうして早く来られるようになるといいな、日ごろから」
「それは霧子に言ってくれ。霧子が早く起きないと俺の早朝登校は不可能だ。ちなみに俺は早起きだから、時間だけ考えれば早朝登校は余裕で可能です」
「あぁ、毎日自分で弁当をつくっているのだったな。まったく、三木は女子よりも女子らしいことをしているのだな、まったく」
「姐さんだってすればいいじゃん、早起きなんだから。っていうか、そうしたら料理の練習になるじゃん」
「…、そうかもしれないが、しかしあまり朝早くからキッチンで大きな音を立てては父と母に迷惑がかかってしまうだろう」
「えっ、姐さんの家はみんな早起きで、明け方の三時くらいには活動開始してるんじゃないの?」
「父と母はふつうの時間に目を覚ましている。勤め人なのだ、一般的に規則正しい生活を送らないわけにはいかないだろう」
「それじゃあ姐さん、朝ご飯はどうしてるん?」
「家にあるパンを焼き、バターを塗ってかじっている」
「ぉ、漢らしい……。でも、そっか、キッチンで大きい音をさせられないっていうんなら、弁当はつくれないよなぁ…、仕方ない。…、あれ? 姐さんって弁当じゃなかったけ?」
「あぁ、弁当だ。母がつくってくれている」
「どういうこと?」
「私は、四時頃に目覚め、それから二時間ばかりランニングをするのだ。そのあとに身仕度をして学校に来る。母は私が身支度をしている間に弁当をつくってくれるのだ」
「…、分かった! ランニングの時間を減らせば弁当自分でつくれるぞ、姐さん!」
「ら、ランニングの時間は減らせない。一日の修練の始まりは、二時間走ることと決めているからな」
「姐さん、それ、逃げ口上じゃないの?」
「そ、そのようなわけがあるか!」
「でも、やろうと思えばできることを、別な理由をつけてやろうとしないなんて姐さんらしくないし」
「そのようなことはない! 決してだ!」
「はははっ! 当たらない! 当たらないぞ、姐さん! 俺は朝練で身体が暖まってるからな! そんな大振りのワンツー・フック、当たらないなぁ!!」
とかやっていたわけだが、けっきょく二分くらい経ったらジャブを避けきれなくなってきて、最後はジャブ二つで身体を完全に起こされ、腰の入った正拳突きで10メートルくらい転がされたりしたのだった。姐さんが手加減して肩を突いてくれたからダメージはそれほどでもなかったけど、やっぱり思い切り拳骨を入れられると精神的にきびしいものがある。うん、変なテンションになるといけないな、やっぱり。
こんなことしてないで、さっさと霧子を起こしに走れよ、俺。