アパートまでもう少し
「そういえば、お前の家ってどこなんだ、悠平。中学のときはあんまりいっしょに帰らなかったから知らないんだけど、こっちのほうなのか?」
校門を出たところで姐さんと別れ、真っ直ぐに自宅に向かって歩を進める俺は、そんなふとした疑問を付き従うように後ろを歩いている悠平に向かって投げかけた。再開祝いで買ってやったコーラの500ml缶を、あたかも大事な宝物でも扱うように持っている悠平は、俺の不意の質問を受けて少し考えるようにしてから、あっけなく応える。
「ッス、向こうの方ッス」
「…、なんでお前は、俺たちの歩いている方向と真逆の方向を指させていやがる。帰ってると思ったら家から一層遠ざかってるってどういうことだよ」
「兄貴のお荷物を持つためには、そうしないとダメだったッス。中学のころは、兄貴といっしょに住んでらっしゃる広太さんが荷物持ちの役だったッスから、こうすることはなかったッスけど、でも舎弟が自分しかいないんなら、たとえ家から遠ざかろうと兄貴の荷物を持つッス。っていうか、そっちの方が家に帰るよりも大事ッスから」
自分の言葉になんの疑いも持っていない者に独特の目をしながら、悠平は何のためらいもなくそう言い放った。こういう奴には何を言っても無駄だというのは、長年広太の相手をしている中で分かっているが、しかしだからといってこうなってはこいつをいつまでも俺についてこさせるわけにはいかない。帰宅時間が遅れれば、親御さんを心配させてしまうことになるからな。
というか、こいつはおそらくうちまでついてくるつもりなのだろう。うちまでついてくると、たぶんかりんさんと鉢合わせになる可能性が高い。仮にかりんさんと鉢合わせになったとして、そうなるとかりんさんは初めて会う人には自己紹介をしてしまうだろう。すると、だ。かりんさんが俺と一緒に暮らしているということが知られてしまう。結論、俺が女を家に連れ込んで同棲的なことをしているということが学校で広まってしまう可能性が高まるではないか。
もちろんこいつは、俺が誰にも言うなと命ずればそうするだろう。しかし、こいつは残念ながらバカだ。いつどこでうっかり口を滑らせるか分かったものではない。そんなリスクを、意味もなく犯す必要はないだろう。かりんさんとの同居生活が白日の下にさらされると、きっといろいろ面倒なことが引き起こされる気がするのだ。というわけで、俺はここでこいつから荷物を奪い取り、ぶっ飛ばしてでも帰宅させることに決めたのだった。
「悠平、もう荷物を俺に返せ。そして今すぐ回れ右して自分の家までダッシュしろ。さもないとぶっ飛ばす」
「ッス、了解したッス。それでは兄貴、お荷物をどうぞ」
「あぁ、持ってくれて助かった、さんきゅ」
「そんな、もったいねぇお言葉ッス。そんじゃ、今日もお勤めごくろうさんッした。自分はダッシュで帰宅するッス」
「位置について、よぉい…、ドンッ!!」
「それじゃあ兄貴!! 失礼するッス!!」
「おぅ、気をつけて帰れよ~」
こうして、俺は無事悠平から荷物を取り返すと、かりんさんとの静かな同居生活を守ることに成功したのだった。ようやっと手の中に帰ってきた自分の荷物を肩に背負い直して、俺はいつも通りの通学路をテクテクと進んでいく。今日は霧子がいないから、隣が空っぽで少し寂しいが、まぁ、たまにはそういう日もあるもんだ。
「おろ、ゆきじゃん、どうしたん、一人でとぼとぼと」
しまった、今日は静かでちょっと寂しいぜとか思ってたら、俺の周囲で一二を争う騒がしさんを召喚してしまったようだ。そこに立っているのは、右手に大きなエコバックを、左手に歌子さんにいつだったかつくってもらっていた細長い一升瓶入れバックを提げた弥生さんであった。
「おねえさん、これから帰るとこだけど、ゆきも帰るとこ? それならいっしょに帰ろう、そうしよう」
「まぁ、別にいいですけど。今日は、買い物帰りですか、弥生さん。荷物、酒じゃない方、持ちますよ」
「およ、さんくー。そそ、そうなのだよ。ゆき、おねえさんいっぱいお買いものしてきたからね、晩酌用の常備菜を二三品どっさりつくってちょうだいな」
「またですか、常備菜づくり。っていうか、先週つくってあげたのはもうなくなっちゃったんですか?」
「ゆきのお料理ってば美味しいから、すぐになくなっちゃって、おねえさん困っちゃうのだ~」
「困っちゃうのは俺ですよ。常備菜のレシピだって、無限に持ってるわけじゃないですから、なにつくるかとかけっこう考えてるんですからね」
「いいのだよ、ゆき、毎回違うものをつくってくれなくても。いや、毎回同じとかでも、その実構わないのだ」
「それは、俺の気持ちが許さないからダメです」
「今日はね、蓮根のきんぴらと~、人参のきんぴらと~、牛蒡のきんぴらの三品でよろしく! そのための材料もゲットしてきたからね!」
「なんでぜんぶきんぴらなんですか。違うのもつくりますよ、せっかくですから」
「マジ? やり~、おねえさんうれしいぜ~。お礼に抱きついちゃうぞ~、腕とかに!」
「うわ、別にうれしくない。重いんで離れてください、歩きづらいですよ」
「またまた~、無理してイヤそうな感じにしなくてもいいのだよ、ゆき。おねえさんのおっぱいはね、けっこう大きいんだぞ。だからうれしくないなんてことはないのだよ、間違いない。ゆきはぺたんこ好きのロリコンだけど、でもおっぱいがおっきいのも嫌いなわけじゃないってことは分かってるんだからね。まぁ、役得だと思ってラッキーってことにしとけばいいじゃん」
「別に、俺の腕に胸を押しつけたって、つまみを一品多くつくったり、酌しに行ったりはしませんよ」
「とかいって、お酌しに来てくれるんでしょ、ゆきってば。ほんとツンデレなんだから、ゆきってば~」
「行きませんよ、絶対に」
「フリですね、分かります。期待しないで待ってるからね、おねえさん」
「そうしたらいいんじゃないんですか。俺は、そんなにサービス精神旺盛な方じゃないんです」
「またまた、そんなことないくせに~。でもおねえさん、そんなゆきのことが大好き!!」
「うゎ!? ちょっと、弥生さん、荷物重いんですから、おぶさって来ないでくださいよ。危ないじゃないですか!!」
「役得役得、おねえさんも帰り道でたまたまゆきに会えたんだから、これくらいしたって罰はあたらないのだ。っていうか、背中が幸せでしょ、ゆき?」
「…、別にそんなこと、ないですが」
「あれれ、ゆきってば、前かがみになってどうしたんだい?」
「弥生さんがおぶさってきたから直立不動の状態じゃバランスが危ないんです、他意はありません。えぇ、他意はありません、まったく」
「うっふっふ~、どうかなぁ? まぁ、触ってみればすぐに分かることですよ、はっはっは」
「ちょ!? 俺の股間に手を伸ばすな、この変態!! 背負い投げするぞ、マジで!!」
「っとと、コンクリートに背負い投げは、勘忍してね。背骨が砕けちゃったら困っちゃうし」
「イヤなら、黙って静かにおぶさっててください。おんぶは慣れてるんで、別に降りろとは言いませんから」
「うふふ、そうやっておねえさんに甘えさせてくれるとこも、好きだよ~。年上なんだから、とか言わないでくれるし、いい歳して、みたいなことも言わないし、ゆきってばほんとやさしいね~」
「まぁ、そういうときもありますよ、人間なんですから。どうしても話したいっていうなら、別に話を聞いてあげないこともないですよ。どうせなにかあったんでしょうからね」
「ん~、話さないと潰れちゃうほどのことじゃないから、ないしょ~。あっ、男に振られたとか、そういうのではないから、心配しないでね」
「そもそも心配してません」
「そういう気づかいが、実は少しうれしかったり。ゆきは、お兄ちゃんだったりお父さんだったり、いろいろ大変だねぇ、よしよし」
「弥生さんが迷惑かけるのやめてくれたら、俺ももう少し楽になりますよ、ほんとにね」
「ダメダメ、おねえさんはゆきに迷惑かけるのがアイデンティティなんだから、自分のキャラは守らないと。だんだん自分を保つのが難しい感じになってきたからね」
「なにわけの分からないことを言ってるんですか、弥生さん。発言の意味が分からないですよ」
「ゆきが節操なしに女の子を引っかけてくから、ゆきの中でのおねえさんの立ち位置がだんだん曖昧になっていってるような気がするんだよねぇ、最近。ほら、あたし、都ちんとかりんちゃんほど濃くないし、がんばらないと忘れられちゃうかなぁって」
「どの口ですか、自分のキャラが薄いとかぬかしてるのは。弥生さんは非常識なくらいキャラが濃いですよ。もう、迷惑ですよ、濃すぎて」
「むむっ、失礼な、おねえさんはまだ本気を出していないんだよ。だから今は少しキャラが薄いけど、でも本気を出せば百万倍パワーだよ」
「今の百万倍キャラが濃くなったら、もう迷惑とかいう次元の騒ぎじゃないですよ。俺はがんばって、少しでも遠くに逃げますよ」
「あ~、ゆき、逃げないで~」
「あ~、弥生さん、さらに強く抱きつかないでください、危ないです。首が締まりますって」
「おねえさんの愛が重いかい?」
「今の場合、重いのは愛よりもウェイトですよ」
「確かに、ごめんごめん、テンションあがっちゃった。さぁ、ゆけ、ゆき、まっすぐゴーだ!」
「まっすぐゴーじゃねぇよ、降りろ。自分の足で歩け」
「うはは~、降りない~」
「酒飲んでなくてもめんどくさいですね、弥生さん」
「実はね、もう少しだけ飲んでたり。いや~、実は肉屋のおっちゃんって下戸でね、知り合いからいい日本酒もらったのに飲めなくて困ってるっていうのよ~」
「あぁ、その酒、買ったんじゃなくてもらったんですか」
「そそ、それでさ、おっちゃん、一口も飲んでないからほんとにいいものか分からないっていうのね。で、一口飲んで気に入ったら持って帰っていいっていうから、グラスで二杯くらいススッと飲んで、もらって帰って来たってわけなのよ!」
「よかった、酒飲んでないのにこんなにめんどくさいのかと焦っちゃいましたよ。酒飲んでるんなら、まぁ、これくらい面倒でも仕様ですよね」
「ゆきはよく分かってるねぇ、よしよし」
「撫でないでくださいよ、くすぐったい」
「にゃはは~、ゆきはやさしいから、ごほうびごほうび。たまにはいいじゃないの~」
「はいはい、そうですね。…、あっ、弥生さん、聞いていいですか?」
「にゃ? なにを?」
「弥生さん、高校のときってなにか部活、やってました?」
「部活? 部活か~。えっと、高校のときはね~…、うん、やってたよ~。おねえさんは、物理部だったよ」
「へぇ、物理部ですか。実験とかしてたんですか?」
「うんうん、そうそう。衝突実験とか振り子の運動実験とか、よくしてたよ」
「おもしろそうですね、なかなか」
「そう、だね。楽しかったなぁ、あの頃は。やっぱり物理好きだったんだよ。まぁ、今もやってるんだけどね」
「弥生さん、大学で物理の研究してるんですか?」
「あり、知らなかった? 言ってなかったかぁ」
「そうですね、聞いてなかったです」
「も~、聞いてないんなら、聞いてよぉ」
「いや、そこまで興味ないですよ」
「おねえさんのことならなんでも知りたいお年頃じゃないの?」
「そんなことないですよ」
「そっかぁ、まぁ、いっかぁ。およ、都ちん、発見」
「えっ、陽が出てる時間の屋外ですよ、そんなわけないじゃないですか」
「都ちんは吸血鬼じゃないんだから、たまには太陽浴びたくなったんじゃないの?」
「そんなまさか、灰になりますよ」
「本格的に吸血鬼だね、都ちん」
「あっ、ほんとにいますね、都さん。どうしたんでしょうかねぇ……」
「お~い、都ち~ん」
「? あら、やよちゃん、三木くん、白昼堂々若い男女が何やってるの。もう夕方だけど、まだ陽は出てるわよ」
「弥生さんが急におぶさってきまして、困ってるんです」
「やよちゃん、歳を考えなさい。いい大人が、そんなことするもんじゃないわよ。ほら見なさい、三木くんだってこんなに前かがみになっちゃって、かわいそうに、困ってるじゃない。そんな猛りを抱えて帰って、どんな気持ちになるか考えてみなさい」
「都さん、前かがみなのはですね、バランスを取らないといけないからでして、必然的に」
「という体よね。いいの、分かってるから、隠さなくても。恥ずかしいことじゃないわ、それが若さってものなのだから。迸って、なんぼでしょ、少年!」
「個人的にはその迸りがひろに向けばいいなぁとか思ってるのが見え見えだよ、都ちん」
「そ、そんなこと思ってないわ!?」
「頭の中で同人誌のネームが飛び交ってるのが見えるよ、都ちん。いや、18禁オリジナルショタ×ショタオンリー同人サークル『ホームラン・キング』主宰、バッチ来い乃介先生!」
「やめて!? 18禁同人用のペンネームをどうしてやよちゃんが知ってるの!? っていうか、そういうのどこから探ってくるの!? やよちゃんの情報力怖すぎ!?」
「ふふっ、情報化社会、だよ、都ちん。新しいのから三冊は同人ショップで平積みだったぜよ。一冊ずつ、買っといたからね、あとでみくちゃんに見せちゃおっと」
「いーーーやーーーーーーーーーーーーーーーー!?」
「都さんも弥生さんもやめてください、公衆の往来ですよ。ほら、迷惑になるんで、部屋入りますよ」
俺は弥生さんをおぶったまま、しゃがみこんだまま絶叫する都さんを立たせると、引きずるように部屋へと連行したのだった。おそらくその絶叫は、向こう三軒には響き渡ったに違いなかった。