身の振りよう、とは
『急に許嫁などと言われても、幸久様はお困りになられるかもしれませんが、いちおう本当のことなのです』
彼女――部屋付き仲居三枝弓子改めいいとこのお嬢様二見かりんは、あまりに衝撃的な話の展開を受けて軽い虚脱状態になっている俺に、苦笑しながらそう言った。そして、きれいに掃除されたソファーに腰を落ち着けると、ぽつりぽつりと、まったく何も分かっていない俺のために事情を説明してくれた。
『ですが、幸久様にとっては寝耳に水の話だとしても、私にとっては大事な、とても大切なことなんです』
そもそものところ、俺とこの人との許嫁の約束っていうのは俺のじいさんであるところの三木幸信とこの人の祖父であるところの二見啓蔵の間で交わされたものであるらしい。なんでも二人は、俺も以前おじさんから聞かされたことがあるからぼんやりと記憶していたのだが、無二の親友で竹馬の友で、まぁ、マブダチだったんだそうで、おそらく『孫同士、許嫁にしちゃう? しちゃう?』『あ~、それも面白いかもねぇ~』くらいの軽いタッチで交わされてしまったものなのではないだろうか、と俺は思っている。
二人がどれくらい親友だったかというと、それはもう一言二言で語り尽くすことは出来ないほどのものらしいのでここでは割愛するが、しかしたとえそうだったとしても、彼らが駆け抜けた過去の時ならいざ知らず、現状だけを考えれば三木の家と二見の家は釣り合うものではない。というか、釣り合うかなぁ、と考えることすらおこがましいほどの広大な差が、両者の存在としての価値の間には、厳然たる事実として横たわっているのである。いくらじじい同士の仲が良かったとしても、それはあくまでも昔々に交わされた約束であって今現在のことにまでは当然考えは至っていない、至っているはずがない。
ぶっちゃけていうと、金だ。けっきょくそういうことに話がたどり着いてしまうのは、つまりは世界は金を中心に回っているということの証明なのであるが、しかし現実問題として両家が保有してる金の高が、あまりにも違いすぎるのだ。許嫁という契約は、基本的にその結婚をすることによって双方――ここでは家だろうが――が何らかのメリットを得ることを前提とされているもののはずだ。つまり、もし俺とこの人がその約束の通りに結婚をすることになったとすれば、その結果として三木の家と二見の家に同等程度と思われる利潤が発生しなくてはおかしいのだ。
しかし、順当に考えて、三木の家は二見の家と直接的なつながりができるわけだから家としての存在価値とそこから派生的に発生する莫大な金を得ることができるのだが、それでは二見の家はなにを得る? 答えは簡単極まりない。何も手に入らないのだ。冷静に考えるまでもなく、三木の家の生き残りはただ唯一俺のみであり、滅亡のカウントダウンももう残り一桁くらいまで来ているに違いない、と思わずにはいられないほどである。金だって、当然そんなに持っていないだろう。
そんなあり様の、有体に言ってしまえばもう滅びという終着点に指がかかっているようなカビが生えかけの三木の家と、飛ぶ鳥落とす勢いで年々成長を続けていて日本国内はおろか世界に目を向けても数えるほどしか比肩する者のいないような大企業である二見の家を、どうして比較してみようかなぁ、などと思うことができるだろうか。
そしてそれは、金以外にもいろいろ理由は挙げられるに違いないが、俺でもパッと思いつくことなんだから二見の家の人たちが気付いていないわけがない。それならばこそ、はて、この人はどうしてここにいるのだろうか。いや、どうしてと言ってしまえばそれは許嫁という約束を果たすために違いないのだろうが、そんな身のない結婚がどうして許されるだろうか。二見の家の人たちにとってこの人は大事な大事な娘なのだろうし、こんなわけのわからない許嫁の約束を娘に押しつけることなんてできるはずがないし、やろうとするはずがない。どれだけ隠居しているじいさんが恐ろしいとしても、そんな若かりし日の過ち的な戯言をごり押しさせるとは思えないのである。
しかし、現にこの人はここにいる。許嫁として、じじいどもの間で交わされた理由がないうえに意味も分からない(いくらなんでも、さっき言ったこととは真逆だが、かわいい孫をポイ捨てするじいさんはいないだろう、と俺は思う)その約束を履行すると言っている。俺の聞き間違いの可能性を大いに考慮して何度も聞きなおしたのでそれは間違いのない事実であって、そしてそれと同時に夢ではない現実らしいのだ。
『なぜ? 難しいことをお聴きになるのですね。どうしてこうしているのか、というのを一言で言うことは、無理です。だって、それは私のこれまで生きてきた年月の全てを語るようなものですから。私は、こうしてあなたの下に嫁ぐために今まで生きてきた。理由はあります、想いもあります。でもそれは、幸久様が相手であっても、いえ、あなたが相手だからこそ、簡単に口に出すことは出来ません』
彼女は、少し困ったように笑うと、申し訳ございませんと本当に申し訳なさそうに言った。
というか、俺が親だったら間違いなくこんなことは止めさせる。止めて、相手の家に『この件はなかったことに』とか連絡を取るはずだ。だって、それじゃ娘が幸せにならない。政略結婚みたいなことをさせるっていうのに、でも家に利益は生まれません、なんてまったく意味が分からないではないか。家のため、と娘に涙を飲ませるのが政略結婚のそもそもの定番であり、それがないと政略結婚ではない、と言ってもいいくらいのお約束のようなものだ。そういうお約束がないのに、どうして娘を放り投げるようなことをするだろうか。あり得ないではないか。
いや、この人によれば、どうもほぼすべての家の人間がが賛成してくれなかったらしいのだ。つまり、この人のこの行動はほとんど誰にも祝福されていないということなのではないだろうか。家族から祝福されない結婚――俺はそもそも、まだ受けるとも受けないとも言っていないのだが――は上手くいかないもの、というのがドラマとかの定番だ。けっきょくそういうのは、駆け落ちとかの一瞬の勢いに任せた、現実にやってしまえばバッドエンド直行の結果を導くことが多いらしい(テレビっ娘の霧子がそう言うのだから間違いあるまい)。
だから、俺は冷静でいることが求められている、そう感じた。当事者そのものでありながら、しかし第三者でいるような、そういう立ち位置こそが俺のいるべき位置なのだ、となんとなく感じたのだ。
『知っています、あなたの思い遣りを。知っています、あなたの慈悲深さを。知っています、あなたのやさしさを。だからこそ私は、あなたに惹かれたのですから。あなたの知らないあなたを、きっと私は知っている。あなたは私を知らないでしょうが、ですが私はあなたのことを知っているのです。気味が悪いでしょうが、本当のことなのです。幸久様、あなたが私からこんな話を聞いて混乱なさるのは当然のこと。ですが、これだけは信じてください。私はあなたの味方です、何が起ころうと裏切ることはありません。だって、私はあなたを、愛しているのだから』
彼女は、二見かりんは、あまりにまっすぐだった。それは俺にはないものであり、また俺には荷が重すぎる生き方だった。俺が重責から逃れるために、無意識のうちに性格と生き方を傾斜させていったのとは真逆だろう。彼女はすべてを負って、たわむことも折れることも厭わずにまっすぐに、誰よりもまっすぐに生きている。
強いんだろうなぁ、きっと。というか、許嫁がいるなんて言われて動揺してたけど、でも動揺したのが俺だけってことは絶対ないんだ。彼女も、もはやこの段階に至っては動揺も何もなかっただろうけど、その話を聞かされたときにはきっと今の俺と同じように動揺したに違いない。そりゃそうだ、自分の人生が自分の知らないところで決定的に決められていたなんて、驚かないわけがないじゃないか。でも彼女はそれを受け入れている。まったく、俺だけがオタオタしているなんて、みっともないったらありゃしないぜ。
俺がしないといけないのはそういうことじゃない。状況を適切に判断したうえで、どういう風に受け入れていくのが最も上策かを判断しないといけないのだ。一番初めのところで、こんな風にみっともなく狼狽している余裕なんて、まったくないのである。
『幸久様が落ち着かれましたら、すべてお話いたします。今は、あまりに唐突なことに驚いていらっしゃいますが、落ち着かれれば適切な判断をなさることが出来る方ですからね、幸久様は。ですので、待ちます、すべてをお話できる時を』
どうしてか分からないが、そこまで信頼されているんだ、それにきっちり応えるのが男ってものだろう。少なくとも、俺はそういうことに関してだけはまっすぐであるように、晴子さんによって矯正されているんだから。
…………
とか思っていたのが、今日でちょうど一か月前。
「…、朝か……」
ゴールデンウィークが終わってからちょうど一ヶ月が経過した、梅雨の予兆を感じさせる六月初頭。けっきょく俺は、『しっかりしないと……!』とか思っていたあの時の気持ちはウソではないが、しかしだからといってどうすればいいのかは分からないわけで、なんだかんだと何もせずに、あるいは何もできずに無為に一ヶ月という時を浪費してしまった。
「あっ、おはようございます、幸久様。今朝は大根と豆腐のお味噌汁と、牛蒡と大根の皮の金平と、新巻鮭の切り身です」
「…、おはよう、かりんさん……」
「コーヒーをご用意しましたので、眠気覚ましにどうぞお召し上がりください。ミルクは一つ、砂糖はさじ半分だけ入れておきましたので、そのまま召し上がってください。あっ、その前に、顔を洗ってらしてくださいね」
「…、はい……」
一ヶ月、三十日もの間、俺はなにも出来ないでいた。むしろ、逆に何ができるのか聞きたいくらいだ。いや、今の俺の状況が男らしくないってことくらいは分かっている。分かってるんだ。分かってるんだが…、でも、だからって何ができるのだ。
「幸久様、おはようございます。制服はこちらに用意しておきましたので、顔を洗われましたらお着替えください」
「あぁ、広太、おはよう。今日もかりんさんに仕事取られたのか?」
「いえ、取られたなどとは。かりん様は本来家事などをなさる必要はないのですが、ですがどうしてもとおっしゃられますので」
「うん、知ってる。いい感じに分担しろよ」
「はい、気をつけます」
「俺も、料理の機会を取られっぱなしってわけにもいかないしな、きっちり分担していかないと」
しかし一ヶ月という時がもたらしてくれたものも、ないわけではない。少なくとも、別に状況を展開させる手立てとかを思いつくことはなかったけど、この状況には馴染んだ。少なくとも、別に行動を起こすきっかけみたいなのはつかめなかったけどこの環境には慣れた。慣れたことによって、一歩だけ前に進む勇気を得られた。…、一歩じゃなくて、半歩かもしれないけど。
「広太、かりんさんのこと、晴子さんに紹介する」
「…、そうですか、それがよろしいかと存じます」
「いつまでも止まったままは、ダメだよな」
「はい、そのように、わずかずつでも進んでいくのが肝要なのではないでしょうか」
「まぁ、一ヶ月かかったけどな」
「一歩一歩です、幸久様。それに今日の一歩は、とても大きな一歩になるのではないでしょうか」
「…、そうだな。かりんさんをアパートの外に連れ出すのは、初めてだからな」
「はい、一歩一歩です」
とりあえず、俺は一つの決断をすることにした。かりんさんを許嫁として認め、結婚するかどうかという最大の問題はまだ触れることすらできないが、だがしかし、とにかくかりんさんの存在くらいはしっかりと認めなくてはいけないのだ。俺にとって、晴子さんに紹介するということは、つまりそういうこと。少なくとも、問題をまっすぐ見る決意だけはするという決意を、しようと思う。
「一歩が、ちっちぇんだけどな……」
そんな些細な決意をした俺だったが、しかしその前に学校に行かなくてはならないわけであり、そしてかりんさんを紹介するためではなく霧子を叩き起こすために天方家を訪れなくてはならないのだ。しかし…、あぁ、そうか、晴子さんに紹介するってことは霧子にも会わせないといけないのか。あいつ、実は俺に許嫁がいたんです、とか言われて、どんな顔するだろう。ショックを受けるだろうか? それともこの世の終わりみたいな顔をするだろうか?
まぁ、霧子がどんな顔をするにしても、俺はそれをしないといけないわけで、もはや口に出して言ってしまったことに対して違えるということをするつもりはない。あとはただ、霧子のショックが出来るだけ少なくなるように気をつけるだけなのだが。