ただいまの、そのときに
「ふぅ、ようやくみんなにお土産配り終わったぜ……」
最初は広太が掃除を終わらせるための時間稼ぎのつもりでし始めたお土産配りなのだが、しかし実際にやってみたら思ったよりも時間がかかってしまって、もしかしたら広太と美佳ちゃんを無用に心配させてしまったかもしれない。まぁ、心配しているとしても事情を説明すれば納得してくれるだろうし、問題があるかと言えばそうでもないのだが。
「しっかし、ちょっとみんなの世話焼きすぎたな……」
もともとはお土産を渡して少しおしゃべりして、というのをするだけのつもりだったのだが、しかしなかなか事は上手く運ばないわけで、けっきょく都さんのところでは料理を一食、歌子さんのところでは大量の段ボールの運搬、弥生さんのところでは散らかりきった部屋のお片付けと、旅行帰りとは思えないほどの仕事をこなしてしまった。骨休めの旅行だったのだからへとへとのふらふらで帰ってきたというわけではないのだが、しかしだからといって疲労感が全くないかと言えば、それはウソだ。二泊三日も家を離れていたのだ、いくらいい旅館だったとはいえ、少なからず疲労感はある。
普通に考えると、俺がこんなにみんなのために身体を動かしたりしないといけない道理はないわけで、別に知らんぷりしてしまってもいいに違いない。社会が冷たく冷え切った近年だ、ちょっと困っている困った隣人たちから目を反らしたって、とやかくなにを言われるわけではあるまい。でもそれが出来ない。出来たらきっととても楽に違いないが、しかしそれはとても悲しくさみしいことだから。
困っている人がその困っている状態から解放されて楽な気分になることができるというのは、それはもちろんいいことだ。そしてそれの手助けをすることができるというのは、それ以上にいいことだと俺は思う。つまり、困っている人を助けるのはいいことなのだから、どうしてやらない理由があるか、ということだ。そりゃもちろん、それを助けることによって俺が何らかの負担を負うことになるのは当然のことだ。労力を割くということは、つまるところそういうことなのだから。
でも、俺が思うに、その労力っていうのは心地よいものなのだ。自分が誰かの助けになっている、いや、自分は自分が思ういい行ないをすることができている、という感覚は、俺にとっては何よりも喜ばしい感情だった。まぁ、それも晴子さんにすり込まれた感覚の一つであり、持って生まれたものではない。
しかし晴子さんがそういう考え方を俺に与えてくれたのには、本心で言って感謝している。…、しかし、よく考えると俺の考え方ってかなり晴子さんに矯正されてるんだよな。それは基本的に晴子さんが自分に利するためにしたことで、別に晴子さんとしては俺がフェミニスティックで博愛主義的な性格になることを望んでいたわけではない。そういう風になったのは、けっきょくのところ晴子さんの望みを過度に拡大解釈した幼き日の俺の考えに因るのであり、ある意味では晴子さんはただの根本原因でしかないのかもしれないが、でもそうだとしても、やっぱり今の自分の一番底のところをつくってくれた晴子さんには感謝なのだ。
「…、いや、晴子さんはそういうのウザがるし、あんまあからさまにはしない方がいいか。感謝を示すとかよりも、きちんと役に立った方が喜んでくれるしな、これからも精いっぱいがんばらせてもらうことにしよう」
そして、それはとても大事なことなのだが、しかしようやく二日ぶりの我が家の扉の前だ。家の中に広太がいることはほぼ間違いない――もちろん俺が三軒の家を廻っているうちに入れ違いで外に出てしまっていなければの話ではあるが――ことなので、ここはさっさと帰って安心させてやるのがいいだろう。広太は心配性だからな、今もきっと俺がなかなか帰って来ないとか、表情に出すことは決してないのだが、心配しているに違いないんだ。
あっ、それに、今日は美佳ちゃんも帰ってるのか。まったく、美佳ちゃんに会うのは三年ぶりくらいなわけで、まったくの別人ってくらいに成長していてもおかしくない。実は、美佳ちゃんがどういう感じに成長してるのかっていうのはけっこう楽しみだったりする。
だって霧子は一夏で筍のようににょきにょきとあれだけの上背まで成長したのだ、美佳ちゃんにだってそれと同じ現象が起こってもおかしくないではないか。美佳ちゃんは普通の子に比べてちびっこい方だったが、しかし霧子だって、もともとは背の順で並べばクラスでもかなり前の方になるくらいおチビだったのだ。ということは、美佳ちゃんが霧子ばりの巨大化を遂げていてもおかしな話ではないだろう。
まぁ、あんまり別人になられちゃうと、俺の中で昔の美佳ちゃんとつながらなくなって寂しいから、あんまり変わってないといいなぁ、というのが偽らざる本音だったりするのだが。
「まぁ、いいか。部屋に入っちゃえば分かることだし」
そしてピンポンとチャイムを押す。広太が部屋の中にいることが明らかな場合、俺は必ずチャイムを鳴らすようにしているのだ。
別に鍵を持っているんだから扉を開けてしまえばいいではないか、とも思うのだが、しかしなんというか、俺が自分で鍵を開けて入ると広太がものすごく焦るのだ。別に大仰に出迎えなんてしなくていいと常日頃言っているのだが、広太はそれを聞こうとはしないわけで、どうしても俺が帰ってきたときには玄関で控えていたいらしいのである。
というわけなので、俺がチャイムを鳴らさずに部屋に入った場合、広太は気配か何かを察知すると、コンマ一秒でも早く玄関へと俺を迎えに出なくてはいけないという強迫観念に駆られるらしく、手に持っているものを放り投げてでも全速力で玄関に走ってくる。
そんな感じに急いで来てくれるのは、ある意味で俺への親愛の情みたいなものなのかもしれないからうれしいはうれしいのだが、しかし手に持っているものが壊れものだったりするとめんどくさいことになる。どんな風になるか、などというまでもないことなのだが、広太は手の中のものが壊れものか否かなど関係なく投げ出してしまうので、壊れものを持っていたら必然的に壊れるのだ。
うっかりチャイムを鳴らさず入ってしまい、広太が出迎えを急いだばっかりに俺の愛用の湯のみが粉砕されるという悲しい事件が、以前発生したことがある。あのときは、とても大変なことになったので詳細を思い出したくもないのだが、まぁ、簡単に言ってしまえば広太が腹を切って詫びようとして――広太がそうしようとしただけであり、俺は当然阻止したのだが――、それを俺が種々多様の手練手管を駆使してなんとか収めたのだ。この事件を受けて、俺はそれ以降、自宅であるにもかかわらず帰宅すると必ず一回チャイムを鳴らすという習慣を自らに課したのである。
待つこと数秒、中からパタパタとスリッパを鳴らす音が聞こえる。おや、これは異なこと。広太は、部屋の中でスリッパを鳴らすような歩き方をしない。こう言ってしまうと気味が悪いかもしれないが、広太は、というか庄司の人たちはみんな一様にまるで空中を滑るような謎の歩法を用いて移動するので、歩いていてもまったく音がしないのだ。気配を完全に断ったままそれをやられてしまうと、長年いっしょに育ってきた俺であっても姿を見失ったり、気付いたときには後ろを取られていたりすることがたまにある。
「ってことは、美佳ちゃんかな。よっぽど俺に会えるのがうれしいと見える。くぅ…、うれしいじゃねぇの、久しぶりに再会を、こんなに喜んでくれるなんてよぉ……!」
そして中から鍵が開かれ、扉が開かれた。開かれた扉の裏から間をおかずに飛び出してきたのは、当然俺の思った通り広太ではなく、
「おかえりなさいませ、幸久様!」
どうやら美佳ちゃんでもないようだった。
「えっ!? あれ!? 美佳ちゃん…、じゃない!?」
「幸久様、お待ちしておりました! こうしてまたお会いすることができて、とてもうれしいです!」
中から飛び出してきた人は、そりゃ美佳ちゃんのことは三年間見てないんだから断言はできないんだけど、でもなんとなく美佳ちゃんじゃないような気がした。それは、その身体が、いくら成長期の真っただ中だとしても三年程度でつくりあげることができるそれではなかったことと、それから身にまとっている服が和服だったことによる。美佳ちゃんは常にポリシーを持ってメイド服を着ているのだから、いくら久しぶりに俺に会うことになったからといって和服を着るなんてありえないのだ。
そしてそれ以上にひとつ、フッと鼻を掠めたその香りを最近、いや、ついこの間、…、ついさっき、数時間前に嗅いだような気がしたのだ。それはもちろん気のせいかもしれないし、あるいは勘違いかもしれない。でもなんとなく、直感的に、俺はこの人が美佳ちゃんではないと確信していて、そして同時に、この人があの人だと確信していた。
「…、三枝さん?」
数時間前、時間になったため旅館からチェックアウトした俺たちが別れを告げたはずの部屋付き仲居、三枝弓子が、どういうわけかそこにいて、部屋から飛び出してきて俺に抱きついていた。
「…、三枝さん、ですよね?」
「いえ、三枝弓子ではありません! ですが、幸久様のおっしゃっろうとしている人間で、間違いございません!」
「…、広太~。ちょっと、広太~?」
「おかえりなさいませ、幸久様。長旅お疲れさまでした。お荷物を、お預かりします」
「その前に、ちょっと待て。この人、誰だ」
「この方は、二見かりん様でございます。本日より、こちらにいらっしゃいました」
「二見、かりん……? この人は、三枝弓子だ」
「恐れながら、二見かりん様で間違いございません。七天星家の紋を許されるのは各家の本家筋の人間だけにございますれば」
「へぇ、そうなんだ…、…、じゃなくて! この人は、えっと、仲居で……!」
「幸久様、三枝弓子というのは、あの旅館で働くための偽名なのです。私は二見かりんで間違いありません。ですが、一時とはいえ幸久様を欺くような真似をしてしまったことは、どのような言葉によっても償うことのできないことだとわかっております。ですが、どうしてもそうせねばならぬ事情があったのです。平にご容赦くださいませ……」
「えっ? 偽名? ってことは…、どういうこと?」
「改めて、ご挨拶を申し上げます」
そして、ドアから飛び出してきてからずっと、ひしと俺を抱きしめていた三枝さん――いや、二見、かりんさん、か?――はその腕を放すと、脚に引っ掛けていたつっかけを脱いで玄関へと上がって流れるような所作で膝を折ると、シュッと伸ばした背筋の美しさをそのままに三つ指を突いて深々と頭を下げた。
「七天星家が二の星、二見家当代当主、二見周蔵の娘でございます、二見かりんと申しあげます。当年取りまして21歳、不束で無学な女ではございますが、三木幸久様、あなた様の妻となるべくこちらに馳せ参じました。どうぞお見知りおきを、よろしくお願い申し上げます」
「…、広太、俺、頭悪いから状況つかめないんだけどさ、手短に今俺がどういう感じになってるのか教えてもらっていいか?」
「一言で端的に、かつ簡潔に申し上げますと、こちらの方は幸久様の許嫁でございます」
「へぇ、いいなずけ、…、いいなずけ? なぁ、いいなずけってなんだっけ? ど忘れした」
「許嫁とは、親同士が婚姻の約束を交わした二人のことを指します。この場に即して言いますれば、二見のお家と三木のお家が過去に、幸久様とこの方の婚姻の約束を交わしたということになりましょうか」
「俺、それ、初めて聞いた」
「ご安心ください、幸久様、私もつい先ほど執事長から連絡を受けたばかりです。それまで、そのような話があるということは欠片も聞いたことはありませんでした」
「だよなぁ? あっ、あの、二見さん、でいいんですよね、頭をあげてください。いつまでもそうやって這いつくばっていられると、非常に申し訳ない気持ちになってきますんで」
「はい、それでは失礼いたします」
「…、広太、俺、今、どうしたらいいと思う?」
「…、いま思われていることを、素直に言葉になさるのがよろしいかと存じます。何をおっしゃりたいかは、私もおおむね分かっておりますので」
「そうか、そうだよな…、そうだよな~?」
というわけで、広太に促されたこともあって、俺は今、心の中で強く思い描いている言葉を声に乗せてみることを決意したのだった。それはおそらくありふれたリアクションで、特に珍しいものでもなく、あるいは言葉として発声する必要なんてないものかもしれない。
でも、言おうと思う。言わないとダメなような気がするから、言おうと思う。
息を吸い込んで、一度大きく吐き、そしてもう一度大きく吸い込んだ。
「どないやね~んっ!!」
その声は、アパート中に響き渡り、軽い近所迷惑だったという。