ごろごろする、しかない
「あれ? なぁ、姐さん、チェックアウトの時間って、何時だったっけ?」
「チェックアウトの時間は11時だ。あと一時間ほどで時間になってしまうな。出発直前にあわただしくならないように荷物の整理はもう済ませてしまえよ」
「あぁ、俺の荷物はもう片付いてるだろうから、気にしなくていいよ。っていうか、そういうことは志穂にこそ言うべきであって、俺じゃない」
まるで魔術師のように、瞬く間に霧子を目覚めさせた俺は、その後朝飯までの時間をのんびりと散歩して過ごし、平和に朝食を済ませて今この時間に至る。時間はおおよそ10時ころ、無駄に豪勢な朝食の腹ごなしもちょうど済むころで、あとはもうチェックアウトまでただひたすらにのんびりするくらいしかやることがない、という状況であった。
現に今、俺はただただ床にゴロゴロと転がっているだけであり、姐さんはピッと背筋を伸ばして座椅子に座り淹れたての番茶をシバいている真っ最中である。ちなみに志穂と霧子とメイはどこかに行ってしまっていて、部屋の中には俺と姐さんの二人きりなのだが、まぁ、だからと言って何があるわけでもない。部屋には風情を守るためテレビも設置されておらず、出来ることと言ったら本当におしゃべりをするくらいしかないのだからな。
「っていうか、その志穂はどこいった? あいつの荷物がそこかしこに散乱してて目も当てられぬ惨状が展開されているんだけど。…、姐さん、あれ、あの下着だけはなんとか俺の目の届かないところに追放してください、お願いします。脱ぎ散らかされた服の上に乗ってる、あの白と水色のストライプのやつを、どうかお願いですから山の中に埋めてしまってください」
「…、まったく…、あいつはどういう神経をしているんだ……。服を脱ぎ散らかすのは、万歩譲って見逃してやることはできるが、しかし下着は…、デリカシーというものが、あいつにはないというのか……?」
「か、片付いた……? もう目を反らしてなくてもいい……?」
「少し待て、とりあえずここに山積している洋服は私が畳んでしまう。…、いや、皆藤の荷物は、私がまとめてしまうから、三木はしばらくの間部屋を出ていろ。20分ほどかかるだろうから、また散歩に行っていてもいいし、向こうの部屋に戻っていてもいい。とにかく、少しこの部屋から出ろ」
「おっけ、了解。で、志穂はどこ行ってるの? またお土産コーナーか? それとも地下の遊技場で卓球でもしてるのか?」
「いや、裏の森に散歩らしい。なんでもまた忍者に会いに行くとかなんとか言っていたぞ。まったく、またそういうわけのわからないことを…、三木、お前がしっかりと皆藤を人間としての正道へと導いてくれないと困るのだぞ」
「いや、俺は志穂のお母さんでもお父さんでもないんだよ、姐さん。そういう根本的なしつけに関しては、学校でしか関わり合いになれない俺ではなかなかすることは出来ないんだよ。むしろ、そういう女の子の有りようみたいなことについては同性の姐さんから頼む」
「む…、確かに言われてみれば、その方が効率的で効果的かもしれないな。よし、分かった、皆藤には私からも一言言っておくことにしよう」
「マジで頼むわ。女の子として、そういう恥じらいのない態度はやっぱりマズいと思うからさ。っていうか今マズいっていうよりも、将来的にマズい。やっぱさ、こういうことは異性が言うよりも同性に注意された方が気にすると思うし、そういうことは俺も流石に言いづらいんだよ」
「あぁ、分かった、それではそのことについては私から二三注意をしておくことにしよう。実際のところ、私としても少なからず…、多分に、気になってはいたのだ、任せておけ」
「マジ助かるわ。いっしょに志穂をしっかりとした新人類に更生させような、姐さん」
「その物言いはどうかと思うが…、言わんとすることは理解した、共に力を合わせよう。それでは私は皆藤の荷づくりの作業に入ることにする。またしばらくしたら戻ってこい、三木」
「あぁ、それじゃ俺は、邪魔しないように外出てるわ。終わったころに戻ってくるからさ、また後で」
「残り少ない時間だ、有意義に使うことができるように気をつけろ。お前は常日頃でさえ変な時間の使い方をしているんだ。こういういつもと違う状況に置かれているときは、特にそういうことがないように気をつけろよ。今という時は、今しかないのだからな」
「ははっ、は~い、気をつけます」
そういうわけで、俺は志穂の荷物の片づけを始めた姐さんの邪魔をしてしまわないように部屋を出ると、とりあえず一度大きく伸びをして、それから考えを巡らせるのだった。それはつまりこれからどこに行こうか、とかこれから何をしようか、といったようなことであるのだが、しかし今のところプランはまったくもって何もなく、とりあえず言われるまま部屋を出てみた、という状況でしかないのだ。
「と、言われても、有益な時間の使い方なんて思いつかないっつぅの。まぁ、とりあえず部屋に帰るか」
まぁ、何も考えていなかったというのに、そんなやることなんてすぐには思いつかないわけで、ここで「とにかく自分の部屋に帰ってから」という保留と何も変わらない結論にたどりつくのは、ある意味で自明の理的なものなのかもしれない。
「荷物の片付けも、きっともう済んじゃってるだろうしなぁ……。部屋に帰ってもやることがないのは間違いないんだよなぁ……。あっ、こういうのが、前から姐さんの言ってた無駄な時間の使い方か。なるほど、ようやく分かったぞ」
テクテクと、そしてぼんやりと部屋に戻ると、すでにキレイに片付けられたそこには三枝さんがお茶の準備をして俺のことを待ち受けていた。どうしてこのタイミングで俺が戻ってくるのが分かったのかは知らないが、しかしまぁ、こうしてちょうどいいタイミングでお茶を用意してくれるなんてうれしいではないか。この人は、俺にはその基準がよく分かっていないからきちんと言うことは出来ないのだが、おそらく本当に有能な仲居さんなんだろう。
「おかえりなさいませ、三木様。お茶の用意がととのっておりますので、よろしければどうぞお召し上がりください。あと、勝手で申し訳ないのですが、お荷物の整理はしておきましたのでご確認くださいませ」
「ありがとうございます。ほんとに何から何までやらせちゃって、すいませんね」
「いえ、そのようなことは。全て私が勝手にやらせていただいたことですので、むしろ私の方が申し訳ありません。いまさらですが、ご迷惑でしたらはっきりと言ってくださいませ」
「いや、迷惑だなんて、そんな。まぁ、この旅行の間いろいろとしてくれて、…、い、いろいろと、ですね、してくれたのは、とにかく、迷惑なんかじゃありませんでしたから。そりゃ、いくらか驚いたりはしましたけど、迷惑ではありませんでしたんで、誤解のないように」
「そう、ですか…、それならば、よかったです……。御迷惑でないなら、それで……」
「迷惑なんかじゃありませんよ、どれも三枝さんが、俺たちのことを思ってしてくれたことばかりじゃないですか。それを迷惑だなんて、思うはずありませんって。むしろありがたかったですよ、あんなに世話を焼いてもらって。あんなにしてもらって、それを迷惑だなんていうやつがいるようなら、そんなやつ、俺がぶっとばしますよ」
「そのように言っていただけるならば、幸いです……」
「あぁっ! だから泣かないでくださいってば! ほんとに涙もろいんですから……」
「すいません…、もうしわけございません……」
「いや、別に涙もろいこと自体は悪いことじゃないんで、気にしなくてもいいと思うんですけどね。でもほら、俺の前で泣かれちゃうと、それはそれで、ね?」
「うぅ…、すいません……」
しかし、今日が旅行の最終日で家に帰る日だということは、それってつまりこの人とも今日でお別れってことなんだよなぁ。飛び込みでここに働きに入ったっていうし、来年までここで働き続けてる保証もないよな。ん~、そうなると、なんとなく名残惜しかったり?
っていうかこの人、なんでか分からんけどいろいろ俺のこと知ってたし、いろいろ聞かなきゃいけないことがいっぱいあるような気がしてたけど、けっきょく何も聞いてないし。おいおい、どうするんだよ…、もしかしてここを逃したらそういう諸々は全部闇の中みたいな、そういうトラップ? でもだからって、今ここで尋問を始めるわけにもいかないし…、え~、どうしたらいいの?
どういう流れで話を切りだして、不自然じゃないように話を展開させて、どういうタッチで深いところに話題を持っていけばいいっていうんだい。おいおい、俺にはそんな高等な会話術のストックはないぜ?
「三木様……? 難しい顔をして、どうなさいましたか……?」
「…、いえ、なんでもないですよ?」
というわけで、諸々諦めることにした。
そりゃ、そうだろう。人間には様々な知識、あるいは経験を得る機会が人生の中でポツリポツリと存在しているものだが、しかし全ての知識を得ることは出来ないし、ありとあらゆる経験を積むことも出来はしない。つまり、知ることができることや経験できることがあるのと同様に、知ることができないことや経験することができないことも存在しているのだ。
いや、確かに、ここで強引に一歩を踏み出せば何らか核心に近いことに触れることができるかもしれないが、だからといってそれがどうしたというのだ。その強引な振る舞いによって、もしも誰かを傷つけたりしたら、そんなことを俺は望まない。具体的に言ってしまえば、当然俺はここで彼女、三枝弓子に詰問することはできる。胸倉をつかみ、壁に縫い付け、知っていることを全て吐き出せと、暴力を笠に着た脅迫を、することが出来ないわけではない。そういうことを今まで一度もしたことがないというわけではないから、適切で効果的なやり口も知っている。おそらく、彼女の握っている何らかを聞きだすだけにはとどまらず、彼女についてのあらゆる情報を聞き出すことは、そこまで難しいことではないだろう。
しかし、そんなことをして何になる。そんなことをしてしまえば、彼女は傷つくだろう。俺が、傷つけるのだ。そんなことをするために、俺はここにいるんじゃない。
知らないことを知るためにそんなことをしないといけないなら、俺はなにも知らなくていい。言ってしまえば、そんなことをしないと知ることができないことならば、それは俺が知る必要のないことなのだ。
そもそもなんだ、たった一つのことを知らなかったからといって、俺が俺でなくなるわけでもあるまいし。女の人を傷つけないと知ることのできない、知らなくていいことなんて、知ろうとも知りたいとも思わないっつぅの。
「三枝さん、この後暇なら、ちょっと散歩でも行きませんか? 友だちみんなに振られちゃって、これからしばらく暇なんですよ。あっ、もちろん、忙しいっていうなら、強要は出来ませんけど」
だから俺は、ここで出来ることのうち、一番良さそうに見えることをするべきなんだ。さっき考えたみたいのはランクで言ったら下だ。そんなこと、する必要なし、時間の無駄だ。それならば今はこっち、出来るだけ楽しい時間を、残りわずかな旅行の一時を出来るだけ楽しんで過ごすこと、これに尽きる。しかもそこでするのが美人のお姉さんとの散歩というなら、それはもう言うことなしだ。
「裏の森に、忍者が出るらしいんですよ。忍者ですよ、忍者。バカらし過ぎて、ちょっと見に行きたくなっちゃいまして。でも一人で行くのもマジっぽくてアホらしいでしょ? だから出来ればいっしょに来てくれないかなって。どうです?」
いっしょに散歩をするにしても、誘いだすための理由なんて、それこそどうでもいい。大真面目に真面目な理由で真面目くさって誘われて、女の人がどうして楽しんでくれるだろうか。こういう真面目そうな人が相手なら、特にそうだ。出来る限りバカらしくて、可能なだけアホっぽくて、誰が考えても下らない。そんなどうしようもない理由であればあるほどいい。
むしろ、俺がバカだと思われるくらいでちょうどいい。人間、なかなか本気でバカになれるものではないのだからな。人に楽しんでもらおうっていうとき、そういう風に思ってもらえるってことが、その人に楽しんでもらえてるってことの証明みたいなもんだろ。
一番下らなくて、一番バカらしくて、それから一番楽しいこと。そういうどうでもいいことこそ、今この瞬間に追い求めていたい。人間、いつかは真面目にならないといけない時が来るものなのだ。バカでいてもいい時くらいは、精いっぱいバカでいたいではないか。