起きない娘
なんとか三枝さんを部屋から脱出させることに成功した俺は、とりあえず何の用事があるのかは分からないが、姐さんの呼び出しに応じて女子部屋へと足を向けたのだった。その用事を済ませたら、まだ朝飯までは時間が少しあるわけだし、それこそさっき言ったように、誰かを連れて散歩に行くのだって悪くないだろう。
「姐さ~ん、入っていいか~?」
『三木か、入ってくれ』
「はいよ~」
そして俺はコンコンと扉をノックすると、すぐに中から返ってきた姐さんの言葉を確かめて、それから引き戸を開くのだった。こうやってノックとかの確認をしっかりしないと姐さんに怒られるからな、気をつけないと。前にノックなしで部屋に入ったときは、いくらただの不注意だといいわけしても信じてもらえず、覗こうとしたに違いないと断定されて制裁を加えられたからな。二の轍を踏まないためにも、注意はいくらしてもしすぎということはないのだ。
まぁ、とりあえず今回は、こうしてすぐに入っていいと返事が来たのだから入ってしまって問題がないわけで、迷う必要もないのである。許可が出た以上こんなところでぼんやりと待っているのは不自然なわけで、さっさと入ってしまわなくては。
「姐さん、来てって言ってたみたいだけど、どうかした? もしかして、何か問題でもあった?」
「いや、問題があるというわけではないのだが、何と言うか、少なからず困っている」
「困ってるのは、そりゃ問題があるってことじゃね?」
「いや、問題というほどではないのだ。ただ少し、心配事とでも言えばいいのだろうか、そういうものがあってな」
「心配事? それだけじゃなにが言いたいのか分からないんだけど……。せめて、もう少し分かりやすくヒントみたいな感じのものをくれると助かる」
「…、あの、だな。これは私の杞憂でしかないのだが、天方がだな……」
「霧子? 霧子がどうかした?」
「ぐっすりと、眠っているんだ」
「ぐっすり寝てるんなら、いいんじゃね? 昨日は少し眠りが浅かったみたいで早起きしてたし、ぐっすり寝てしっかり睡眠時間を確保してくれたら、むしろ一日しゃきっと過ごしてくれるし、俺としてはそっちの方が数段助かるんだけど?」
「いや、ぐっすりと眠っていて、目を覚ましそうな気配が、まったくないのだが……」
「…、たった一日で適応したのか……。徐々に図太くなってきてるな、霧子……」
自分の部屋からつっかけてきたスリッパを脱いで部屋に上がると、中には布団が四つ、几帳面に角が揃えられた状態で並べられていた。そしてすでに目を覚ましていたらしく、昨日寝る間際まで着ていた浴衣から洋服に着替えを済ませた志穂と姐さんが、窓のそばに置かれた籐の椅子に、机を挟んで向かい合わせに座っていたのだった。
すでに目を覚ましている二人がそうしていうならば、それ以外の二人はどうしているかというと、もちろんまだ布団にくるまってぬくぬくと眠っている。それは四つ敷かれた布団のうち二つがいまだもこっと人の形に膨らんでいるのを明らかだった。一つは小さく、一つは縦に長く大きい。当然それはメイと霧子なのである。
「昨日の様子を見る限りメイはもう少し寝てるのが普通っぽいし、まだ起きてこないのは分かるとして、霧子はちょっとマズいな。霧子は、眠りが浅かったり眠れてなかったりするときはこのくらいの時間に目を覚ますのが普通だから、ここで起きてないとすると完全に熟睡してるのかもしれないぞ」
「私が言いたいのは、つまりそういうことだ。三木、お前は天方を目覚めさせることに関してはプロなのだろう。私たちではどうしたらいいのか分からないが、しかしお前ならその術を心得ているのではないか? 朝食まで時間があると言っても、しかしそれまでに私たちだけで起こすことができるかと言えば疑問だ。頼む、お前以外に出来る人間はいないんだ、天方を起こしてくれ」
「いや、俺もそんなに大層なことをするわけじゃないんだけど……。普通に起こせば普通に起きてくれると思うけど。まぁ、確かに少し他の人よりも起こすのが大変かもしれないけど、眠りの呪いをかけられているわけでもあるまいし、起きてくれるって」
「去年の旅行では二日とも簡単に起きていたから、こうなることは予想していなかったんだ。私もお前からの伝え聞きでしかないからはっきりしたことが分かっているわけではないが、しかし少なくとも、聞く限り私たち素人が易々と起こすことは出来ないと、私は判断した。頼む、三木、簡単だと言うならば私たちに代わって天方を起こしてくれ」
「まぁ、そういうことなら、別にいいんだけどさ。じゃあ、少し早いけどとりあえず起こしちゃうか」
「あっ、メイメイおきた」
「ん? あぁ、メイ、起きちゃったか。うるさくしちゃってごめんな」
『おはよ』
「おはよう、メイ」
そして俺たちがこれだけ普通の声量でしゃべり合っていると言うのに微動だにしない霧子とは対照的に、眠っている人間にとってみればやはりこれくらいの物音も気になるものなのか、メイはもぞもぞと布団の中で数度身もだえした後、スッと目を覚ましたのだった。霧子もこんな風にすっきりと目を覚ましてくれれば、俺が霧子を起こす手間も少しは軽減されるわけで、すこし見習ってほしいところだ。まぁ、俺が日々霧子を起こしているのはある意味で趣味みたいなものだし、もはやライフワークの域に達している、と言うことすらできるかもしれないほど俺の生活に密着した日常的イベントである。もしこれが、何の前触れもなくある日突然なくなってしまったならば、それは少なからず寂しさを伴って俺へと打撃を与えるのではないか、と思う。
まぁ、霧子が俺の手を借りることなく毎日自分の力で目を覚ますことができるようになるということは、ある意味で一番分かりやすい自立の形であり、霧子が俺の庇護下から飛び立つための第一歩であると言いかえることもできるかもしれない。確かにもしそんなことになれば、ある日突然大切なものを失ってしまった俺の心にぽっかりと大きな穴が開くことにもなりかねないが、霧子が自立への第一歩を踏み出すという意味では喜んでしかるべきことなのだろう。
でも、確かに霧子が俺から自立して己の力で世間の荒波を渡っていけるようになるというのは非常に理想的ですばらしいことではあるだろうが、しかしそれとこれとは話が別だ。そういう机上の空論的な理想論を抜きにして話をするとすれば、霧子は自立なんてしなくてよろしい。俺がいつまでも、それこそ必要のあるなしにかかわらず半永久的に、霧子の面倒は見るのだ。考えてもみろ、霧子みたいなかわいいのが、誰の庇護下にもない状態で一人でほっつき歩いていてみろ。どうしたって目を引いてしまうに決まっているし、ややもすれば不逞の輩が声をかけてくるかもしれないではないか。そんなことがあっては、霧子が危ない目にあってしまう可能性が、あろうことか飛躍的に上昇してしまうではないか。それはいけない、ダメ、許すことは出来ない。だから霧子は俺が守る、いや、守らないといけないんだ。
『みんな、今日もはやい』
「俺はこれくらいがいつもどおりだ」
『はやおき、えらい』
「まぁ、いつも朝飯と弁当をつくるために早起きしてるだけだからな。別に偉いってわけでもない」
「私もこれくらいに起きるのが普通だな。まぁ、私の場合は朝食も弁当も母がこしらえてくれるので、することといったら早朝訓練くらいのものだがな」
「あたしは~、おきちゃっただけ~」
「姐さん、気になったんだけど、早朝訓練って何をするんだい? ジョギングとか?」
「ん? 朝の訓練に何をするかだと? それはもちろんジョギングもするぞ、朝は10キロほどだがな」
「10キロ? 朝っぱらから10キロも走るの?」
「10キロしか走らないのだ」
「…、まぁ、単位は人それぞれだよね、うん。しかし、朝から10キロも走ったら、俺なんかへとへとになって何もやる気しないけどなぁ…、そのあとちゃんと学校に来てる姐さんは偉いよ」
「そして10キロ走った後は、シャワーをして朝食を済ませ、学校に行って武道場で型稽古だ」
「えっ? 10キロ走った後に、そんな余裕あるの?」
「そうだな…、ジョギングはほんの20分ほどだから。起きてすぐに着替えて、ジョギングをして、シャワーをして、朝食を済ませて、というところで一時間もかからない。となると、家を出るのはいつも六時前だ。始業時間まではもちろん、風紀委員会の朝の任務にも余裕を持って間に合わせることができるぞ」
「…、ジョギング10キロを20分って、それどんなスピードなの? 単純に時速換算すると時速30キロだよね。ってことは…、100メートル走なら12秒で走り切るペースなんだけど、えっ? 全力疾走じゃね?」
「全力疾走で100メートルならば私は、わずかではあるが、11秒を切るぞ」
「女子の世界記録は、確か10秒49だったし、えっ、ワールドクラスじゃん。っていうか、全力疾走よりは確かに遅いかもしれないけど、でもそんなスピードで10キロも走り続けられるなんて、人間のやることじゃないよ。姐さんもたいがいだよ。実は志穂よりも姐さんの方が身体スペックヤバいんじゃないの?」
「皆藤の100メートルは、あくまでも上手に走ることができればなのだが、世界記録よりも早いぞ。きちんとした大会に出て、きちんと申請をすれば今すぐにでも世界を塗り替えることができる」
「何者だ、お前!?」
「? かいど~しほ、です!」
「うん、知ってる。まぁ、お前は、そうやってボケっとして生きてればいいよ、うん。それで世界は平和を保たれるよ。っていうかさ、姐さんはそうやってサラッと言うけどさ、よく考えたら10000メートルの世界記録って、姐さんの記録よりも遅いんじゃない?」
「詳しい数字は私も知らないな。まぁ、特にそういう名誉がほしいとは思わないし、言う必要もないのだろうがな。私には学園の風紀を守るという使命がある」
「学園の風紀を守るよりも、学園の名を高める方が使命としては高等だと思うけど…、まぁ、姐さんがそれでいいっていうならいいか。それで、姐さんはそんな早い時間に来て型稽古をしてるってことなのかい?」
「そうだな、無心で稽古をしていると、それこそ光陰矢のごとしという言葉の通り、時が矢のように過ぎ去っていく。気付いたときにはいつも風紀委員会の集合時間の間際になってしまっていて、よくあわててシャワーを浴びることになるぞ」
「そうなのか…、姐さんもいろいろ大変なんだな……。それで、メイはいつもこれくらいの時間に起きるのか?」
『いつもは、もう少し寝てる。今日は起きちゃった』
「そうか、ゆっくり寝るのはいいよな。寝る子は育つって言うし、メイもまだまだ成長するかもしれないぞ」
『だといい』
「志穂は、これ以上寝てもきっと成長しないから授業中の居眠りはほどほどにしろな」
「? ねてないよ?」
「寝てるよ!! お前はどう見ても寝てるよ!! むしろお前が寝てないときの方が珍しいよ!!」
「それには賛成だ。皆藤、お前は授業が始まるといつも眠ってしまうが、しかし授業というのは睡眠を取るべき時間では、本来ないのだぞ。それはしっかりと理解すべきだと、私は考えている」
「ん~、でも、ねむいからねちゃうの」
「本能に忠実なのも考え物だな、ほんと。暇だからって遊びだすし、腹減ったからって飯食うし、眠くなったから眠るし、ほんと家猫みたいに自由なやつだよ。お前には世界の常識ってやつを、やっぱり一から学び直してもらわないといけないのかもしれないなぁ……」
「確かに、それには私も同意させてもらう。皆藤には、やはり学ぶべき常識が足りていないように思えてならないからな」
「だよなぁ、やっぱりそう思うよなぁ」
「あぁ、そのとおりだ。こうして一日でも二日でも、いっしょに生活してみるとよく分かるものだ。皆藤、お前は常識を学び直す必要があるぞ」
「え~、そうなの~?」
「でもまぁ、今はそれも後でいい。今はとりあえず、霧子のこと起こしちゃうわ。こうしてぐっすり眠ってるのを叩き起こすのは罪悪感なんだけど、まぁ、いつものことだからな。そこまでの精神的ダメージはない」
「プロである三木の目から見て、この後天方が自力で目を覚ますことができると判断できるようならば、今むりに起こすことはない。もう少しの間だけでも、ゆっくりと眠らせておいてやってもいい。しかしそれが出来ないと判断されるようならば、今ここで起こしてやってくれ。起こすのに手間取って朝食に間に合わないというのでは、様々な方に面倒と迷惑をかけることになってしまうからな」
「だいじょぶだいじょぶ、この息遣いからして、自分では絶対に自分一人じゃ起きられないから。俺がここで、サクッと起こしてやるって。確かに、慣れてない人がやるには少し面倒だからな、霧子を起こすっていうのは」
そういうわけで俺は、これだけ騒いでもまったく起きそうな気配を見せない霧子のことを、とりあえずさっさと起こしてしまうことにして行動を開始するのだった。
霧子は起きないとなったらそう易々とは起きないやつだから、ここはプロであるところの俺が出張っていくのが適切な対処に違いあるまい。俺にかかれば、それはもう立ちどころに、眠り姫を目覚めさせる王子のように見事に、霧子の目を覚まさせることができるだろうからな。