目覚め、最終日の朝
「……、おはようございます……」
はてさて、いったい今日は何日かと言えば、それに的確に返答するならば旅行の最終日だよ、といった具合に応えるのが最も分かりやすい感じなのではないだろうか。
「おはようございます、三木様」
おそらくこういうことを他意なく、立て板に流す水のごとくサラッと言ってしまうと諸兄にあらぬ誤解を与えてしまいそうで非常に遺憾なのだが、しかし言っておかなくてはならないと思われるので、ここはあらん限りの勇気を振り絞って言っておこうと思う。
「…、おはようございます、三枝さん」
いつもの起床時間を迎え、身体に染み込んだ習慣に従って布団の中で緩やかに覚醒した俺の隣には今日も、昨日目を覚ましたときと同じように三枝さんが横になっていたのだった。けっきょく、これで俺は二日連続で三枝さんと寝所を共にしたということになるのだが、しかし心配しないでほしい、もちろん何もしていない。
というか昨日の夜は、正直に言ってしまうと、まともに眠ることが出来なかった。一昨日の夜は、俺に降りかかっている状況と俺の精神力を考えれば、それこそ信じられないくらいスパッと眠りの世界に落ちていったのだが、しかし昨日は俺のそもそもの想像を裏切ることなく、まったく眠ることができなかった。まぁ、本来の俺の心の力なんていうものはそんなものでしかなく、一つの布団で美女と同衾などということになればやたらと緊張して目が冴えてしまい、眠ることなどままならないというのが一つの着地点としては妥当なのかもしれないのだが。
それゆえに、昨日はそのようなことは全くなかったのだが、しかし今はどうしようもなく極限的に、眠い。そりゃそうだ、俺がようやくどうにかこうにか眠ることができたのは、体力的にどうしようもない限界が訪れてしまった深夜三時過ぎ。そして今は、身体に染み込んだ習性というのは恐ろしいもので、朝の六時。睡眠時間は、正味で三時間にも満たないのである、そりゃ眠いに決まっているではないか。
窓から差し込む朝の日差しが、寝不足で弱っている俺の身体を貫いていく。今までに徹夜を一度もしたことがない、というわけではないし、徹夜明けの身体が朝日によって大ダメージを与えられるということも、それなりに知っているつもりだ。いや、知っているつもりだった。
情け容赦のない日差しが、窓から差し込んでくる。いつもだったら爽やかな朝だなぁ、なんてことをうすぼんやりと考えたりするのだろうが、今日は流石にそんなことを考えている余裕すらないのが現実である。おそらく、それだけの果てしない心労がたった一晩で俺の身にのしかかったということであり、また俺が思っている以上にその心労は俺の肉体と精神を蝕んでいる、ということなのではないだろうか。
「お茶を入れましたので、どうぞ」
「…、ありがとう、ございます……」
「飲みましたら、お召し変えのお手伝いをさせていただきます。今日も昨日と同じように、朝食の前にお洋服に着替えますでしょう」
「えぇ、そうですね、そうします……」
昨日は、一日目に行った湖とは逆方向にある山の方に、ちょっとしたトレッキングみたいなことをしにいったりした。やっぱり身体を動かすのは楽しくて、たまにはこういうのもいいなぁ、なんて思ったりしたものだ。
「三木様、本日で、当館へのご宿泊はおしまいですね」
「そう、ですね。二泊三日って、長いようで短いですよね」
「本当に、あっという間の三日間でした。これほどまでに充実した日々を過ごしたのは、今までの人生で初めてです。これもひとえに、三木様のお世話をさせていただいたからにほかなりません。本当に、快くおもてなしを受けてくださり、ありがとうございました」
「いえ、こちらこそ、何だかいろいろとお世話になりまして、本当になにからなにまで、ありがとうございました。それに俺にだけじゃなくて、女の子たちの世話も何かと焼いてくれて、ほんと助かりました」
「いえ、そのようなお言葉を賜るほどのことは、出来ていません。どうにも至らぬ点ばかりで、恥じ入るばかりです」
「そんな、恥じ入るだなんて。俺はすごいと思います。ここにきてまだ間がないっていうのに、他の仲居さんと変わらず、いや、それ以上にしっかりとやってくれていたじゃないですか。見劣りするなんてこと、ぜんぜんありませんでしたから、自信持ってください」
「三木様……」
「百点満点ですよ、三枝さん。また来たときも、部屋付きをお願いしたいくらいです」
「本当、ですか……?」
「はい、あとで番頭に言っておきます。今度来るときも、あなたを部屋付きにするよう頼む、って」
「そう言っていただければ、幸いです…、これで、心残りはございません……。この三カ月は、無駄じゃなかったと思うことができます……」
「? それって、どういう……?」
「あっ…、いけませんね、こんなことを話している暇はありません。早く着替えて、まだ朝食の時間には早いですが、向こうの方々と合流しなくてはいけませんからね。本日の朝食も、あちらのお部屋に五人分ご用意させていただく、という形でよろしいでしょうか?」
「あっ、えと、はい、そうしてください。部屋は別でも食事はいっしょに、って決めてたので」
「はい、承りました」
そういうわけで、一人で着替えられるから少しの間部屋から出ていてくださいと何度言っても分かってくれなかった三枝さんにとうとう折れてしまった俺は、昨日の朝もそうだったのだが、三枝さんに着替えの手伝いをお願いすることになってしまったのだ。まぁ、着替えの手伝いとか言ったって俺が着るのは普通の庶民的な服でしかないので、そもそもからして手伝いをしてもらうところなんてほぼないわけで、なんというか、けっきょくは手伝いをしてもらっている体でしかないのだ。
そうして、三枝さんに微妙に手伝ってもらいながらパパッと着替えを済ませた俺は、しかしすぐに部屋から出るような愚は犯さず、引き戸の陰から外の様子をうかがって誰かがこの部屋の様子をうかがっていないかどうかを確認する。もし朝早くのこんな時間に、俺が部屋から三枝さんを連れて出てくるところなんて姐さんに見られようものならば、それこそまさに危機以外の何ものでもなく、きっといい感じにしばかれてしまうに違いないのだ。もちろん、俺は三枝さんに対して姐さんが危惧しているようなことはしていないのだが、しかしそれをしていませんと明確に証明することは出来ない。なぜなら、俺が何かをしていないと証明するための証拠が、実際のところ、なに一つとして俺の手元にはないのだ。そんな空手の状態で姐さんを説得、もとい論破することが出来るほど、俺は弁舌に長けていない。
まったく、姐さんもあぁ見えてむっつりだからな、ちょっとしたことですぐに俺が口に出すのがはばかられる猥褻行為を行なっていると思いこむんだ。俺はそういうことはしない、というか出来ない性質だから、そういう可能性が零ではない、という状況が発生するたびに逐一制裁を加えようとしなくてもいいと言うのに、本当に律儀なんだからなぁ、姐さんは。
それとも、あるいは俺のことを心配してくれているのだろうか。…、いや、そういうわけではないか。姐さんが心配しているとしたら、それは俺の毒牙にかかる可能性があった女の子なのであり、俺によって被害をこうむったのではないかと姐さんが危惧する相手の方なのだ。本当に、姐さんはいつになったら俺がそんなことをするやつじゃないってわかってくれるのだろう。…、まぁ、俺が三枝さんと同じ布団で寝ていたという事実を姐さんが知ったとしたら、それは間違いなくアウトなのであり、俺が何らか秘密な感じの行為に及んでいるとか、そういうことは全て抜きにしても、即座に処断対象にされるだろうことは疑いようもないのだが。
「よし…、いける……!」
「あっ、ゆっきぃ。ゆっきぃ~!」
「んっ? あぁ、志穂か。昨日は朝飯の直前まで眠りこけてたってのに、どうした、今日は早いな」
姐さんの視線を感じなかったので勇気を持って部屋を出ようとした俺だったが、しかし驚いたことに、さっきまでいなかったはずの志穂が、どうしてかこっちの部屋に向かって歩いて来ていた。志穂のことだから気配を断って壁に張り付いて擬態していたとか、気配を断って天井に張り付いて擬態していたとか、そういうわけの分からんことをしていた可能性もあるが、まぁ、とりあえず、今この瞬間にこっちに向かって来ていることだけは確かなのである。
とりあえず俺は、心中穏やかというわけにはいかないのだが、まったく狼狽していない風を装って志穂の呼びかけにこたえる。姐さん相手なら確実に通用しないだろうが、しかし志穂にだったらこういう演技は通用する。ここはとりあえず志穂を穏便に部屋へと戻らせ、完全に人目がなくなってからこっそり部屋を出るのが適策だ。
大丈夫、基本的に志穂は俺が問題ないと言えば引き下がるし、俺の言葉の裏に何かがあるのではないかと勘繰ったりもしない。あいつのいいところは、なによりもその素直さにあるのだから。
「えっとね~、おきちゃった」
「あぁ、そういうことってあるある。別に起きようと思ってないのに早い時間に目が覚めちゃうのな。っていうか、どうしてこっちの部屋に向かってきてたんだ? 起こしに来てくれたのか?」
「うんそうだよ~。りこたんがね~、ゆっきぃおこしてきて~、って」
「そうか、姐さんが」
おそらく、直感的に何か起こっていると勘づいた姐さんが、斥候として志穂を送ってきたに違いない。ふふん、読めてる読めてる。姐さんの思考なんて読めてるぞ。志穂が相手なら俺が油断して尻尾を出すと思ってるんだな。ところがどっこい、そうはいかない。俺だって学習するんだ、いつでも無為無策で姐さんにシバかれているわけにはいかないからな。
なぁに、こんなところに来てまで姐さんにボコられる俺ではないさ。とりあえず、志穂にはサクッと帰ってもらうとするか。
「でも俺はもう起きてるからな、起こしてくれなくてもいいぞ。ほら、志穂はもうお部屋にお帰り、俺もすぐそっち行くからな」
「ほぇ? いっしょにいかないの? ゆっきぃ、なんでおへやからでてきたの?」
「…、それは、あれだよ。ちょっと朝飯の前に散歩でも行こうかなって、思ったんだよ」
「おさんぽ? やままでいく?」
「行かないよ? 散歩なんだから、裏の林とかをちょっと歩いてくるだけだよ?」
「そうなんだ~。う~ん…、じゃあゆっきぃ、まだいっしょにこれないね~」
「なんだ、姐さんには起こすだけじゃなくて、連れてくるように言われてたのか。それを先に言いなさいよ。連れて来いってことは、何か用事があるってことだろ。ほら、そういうことなら、さっさと行くぞ」
「うゅ? ゆっきぃ、おさんぽは?」
「散歩よりも姐さんが呼んでる方が優先だ。メールしてこないってことは急ぎの用事じゃないんだろうけど、用事があるっていうなら早く行った方がいいだろうからな。散歩なんて、そのあとでも出来るだろ」
「そうなんだ~」
「…、まぁ、別に納得してくれたんなら何でもいいけどな。あっ、忘れ物した。志穂、すぐに行くから先に行っててくれ」
「うん、わかった~。ゆっきぃ、またあとでね~」
「おぉ、またあとでな~。……、ふん、ちょろいな」
そして志穂は、特に深く何かを考えることもなく部屋へと、すたこらさっさと帰っていったのだった。しかし、志穂相手だから理由自体は適当でいいといえ、忘れ物をしたっていうのはどうだろうなぁ……。そもそも俺は朝飯を食いにあちらの部屋の面子と合流するわけであり、持っていかなくてはならないものなど何もないではないか。まったく、志穂は本当に何も考えていないな。ここまで頭の中身空っぽでは、一人で生きていかなくてはならなくなったとき、本当にそうすることができるのだろうか。
いや、俺の目が届く間はいいんだよ、俺が面倒みてやるから。でもいつかは、いつまでもこのままで、というわけにはいかないのだから必ず俺の目が届かなくなるときは来てしまうわけで。なんかほら、志穂ってすぐに騙されるからさ、心配なんだよ。悪いやつに騙されて食い物にされてたりしたらと思うと、すっげぇ不安になるんだよなぁ。
そういえば、こういう心配は、志穂以外に対してはあまりしないんだよな。基本的に全般が心配な霧子には、俺よりも近い家族の位置に晴子さんがいるんだから、実のところ一番心配する必要がなかったりするし。メイは、まだあまり知らないけど、でもそんな心配をする必要はない気がする。なんとなくだけど、そういう悪党から狙われなさそうというか、狙いづらそうというか、なんとなく大丈夫そうな気がする。そして姐さんは、もはや俺ごときでは心配するという行為自体が、そもそもからしておこがましいだろう。むしろ、俺が姐さんに心配されたいくらいだ。
「三木様…、お部屋から出ても、よろしいでしょうか……?」
「はい、だいじょうぶですよ、志穂のやつは追い払いましたから」
「そうですか…、それでは、私もここで失礼いたします。また、朝食を準備させていただくときに」
「えぇ、また」
よし、これで波風立てずに三枝さんを部屋から出すことができたわけだ。まったく、俺はなにも悪いことはしていないと言うのに、いろいろと難儀だよな、本当に。まぁ、大事な友人との間に面倒は起こしたくないという俺の気持ち、分かってくれる人は多いと思う。
…、いや、確かに俺が流れに流されないで、現状を回避することができれば最高だろうけどさ、でもそれは出来なかったんだから。出来なかったことをいつまでもぐちぐち言ってちゃダメだよ、前向きに行かないと、前向きに。