ジョーク・イン・USA
「暗い場所を、俺たちは二人で歩いていたんだ。二人っていうのは俺と、それから子どものころからの親友のジャックさ。あいつとはいつでもどこでも、どんなときもいっしょだった。いっしょじゃなかったのは、それこそ生まれたとき入ってたおかあさんの腹の中くらいのものさ。それでね、長いトンネルみたいなところを抜けた後、パッと開けた場所に出たんだ。そこでね、ジャックは言うんですよ、『急に懐かしい場所に出たぞ。ほら、昔、いっしょに遊んだあの場所じゃないかい?』って。それでですね、そこで俺は言ったんです。『おいおい、ジャック。お前が言ってるのは、そりゃ故郷のミシガン川のことかい?』ってね」
そしてけっきょく、俺は今目の前にある状況をどうすることもできなかったわけで、三枝さんが当初思い描いていたであろうプランと同じように、一つの布団で身を寄せ合うようにして二人並んで横になっているのであった。いや、確かに、こんな結果以外にも何らか他の解決策があったのではないかと言えば、逃げるとか逃げるとか逃げるとか、まぁ、いろいろあったのではないか、と思うわけなのだが、しかしいったい、ここからどこに逃げればいいというのだろうか。
仮にこの場所が、俺の家まで徒歩圏内に位置しているとして、それならば俺だってここから駈け出して我が家へと滑り込むことだろう。しかしここから自宅までは、電車ですら数時間を要する遠く離れた場所であり、自宅へと逃げ帰ることは出来ないのである。それならばこそ、俺はどこへも逃げることができないのだ。
それに、この場所におけるもう一か所、俺が逃げ込めるシェルターとでも言うべき場所は、しかしこの時間は営業時間外であり、おそらく入れてもらうことは出来ないだろう。くそぉ…、きっと姐さんがいなかったら何の問題もなく逃げ込めるだろうに、げに難しきは友情というものなのかもしれない。
「『そういえば久しぶりにマミーに会いに行くのも悪くない。ミシガン川を渡ってすぐのところに家があったのは、お前も覚えてるだろう?』なんてジャックが思いついて言いました。しかし俺は『いやいや、ジャック、やめておこう。ここはよくないぜ』と返します。それでもジャックが、どうしてもとゴネるんですよ。まぁ、やつも強がってるやつですけど、ニューヨークに出て五年も家に帰ってないですから、なんだかんだとやっぱり寂しかったんじゃないですかね、お母さんに顔を見せて行くんだって聞きませんよ。困ったもんだからね、俺はすかさず、冗談めかしてこう返した。『落ち着けジャック、この川を渡っても、会えるのは天国のグランマだけだぜ』ってね」
「そのようなことをおっしゃったのですか……? くくっ、おかしいです……」
俺の、俺自身もどこがおもしろいのか若干分からなくなってきている似非アメリカンジョークが、どうしてかツボにはまってしまったのか、三枝さんは布団の中で、身もだえするのを必死にこらえるようにぷるぷると小刻みに震えていた。彼我の距離、おおよそ20センチほどか。手を伸ばせば届く距離どころではない、ただこうしておしゃべりしているだけで互いの息遣いを感じるほどの、少なくとも気心知れた相手でなくてはやりたくない、というか出来っこない、超至近距離。
この超至近距離で、もう30分。まるで単独お笑いライブのように、俺はずっと小噺のようなものを延々と披露し続けているのだった。俺としては、おしゃべりなどと言われても実際のところ、この密接距離でするような話はあまり思いつかないわけで、すぐにネタ切れを起こした。そして仕方ないから、もう最後の手段としてお笑い方向に走ったのである。つまり、今の俺はもうすでにいっぱいいっぱい。なんというか、すぐにでも寝てしまいたい感じでいっぱいだった。
「『この川を渡るとグランマに会えるのかい?』なんてジャックは言ったさ。あぁ、俺は忘れてたんだ、あいつがひどいおばあちゃんっ子だったってことをね。『グランマに会うなんて10年ぶりだよ』なんてやつはうれしそうに言った。そしてジャケットとバッシュを脱ぐと喜び勇んでその川に飛び込んだんだ。そのときは、何ていうか、文字通りやつとは永遠のお別れだと思ったよ。だからぼそっと、こんな風につぶやいた。『おいおい、そっちはジャパンだぜ、ジャック』ってね」
しかし如何せん、さっきに比べたらまだマシかもしれないけど、俺はあまり眠くない。眠ってしまうまで、ぽかぽかの布団にくるまれているからそこまでかどうかは分からないが、きっとまだ数十分を要するのではないか、と思われる。この状態を、まだ数十分続けなくてはならないと考えると、それはおそらく思ったよりもだいぶ辛いのではないだろうか。
もちろん辛いと言っても、状況そのものが苦痛というわけではない。それはむしろ、苦痛というよりも天国なのだろう。どういう流れかは分からないが、こんな美人のお姉さんと床を同じくしているのだ、男として、これが苦痛でそのあろうはずがない。しかし辛い、やはり辛い。ここまで状況がキレイに整えられているというのに、しかしそれらすべてを見て見ぬふりをして我慢一徹、心を無にして過ごすことのなんと辛いことか。おそらく、これが真の苦行。苦行なのである。きっとこの先に、何らかの悟りが待っているのではないか、と思わせるほどの苦行ぶりなのである。
「でもね、ザバザバと見事なクロールでその川を渡っていくジャックだったんだけどね、しかしその川を渡りきることはなかったんだ。いや、やつの泳ぎがマズかったわけじゃないよ。あいつは、何と言ってもこと水泳に関してはエキスパートさ。なんたってやつはハイスクール時代、州代表に選ばれるまでの腕前だったんだからね。じゃあどうして渡り切れなかったかって? ポリスさ、ボートに乗ったポリスが、ジャックの首根っこを捕まえてこっちの岸まで連れてきてくれたんだ。『悪いが、外人は管轄外だ』なんて言ってね。まったく、ジャックを連れ戻してくれたのはよかったんだけど、ひどいお役所仕事さ。拳銃の代わりに物騒なデカイ鎌を持ったその男は、ジャックをこっちに放り投げるついでに『隣の窓口に行け』なんていうんだから」
しかし、俺はどうしてこんなわけのわからない話をしているんだろうか。焦っているからといって、なにもこんな話をすることはないじゃないか。もう少し建設的な、ばかばかしい話をするにしてももう少し分かりやすいようなジャパニーズジョークが、あるだろう?
「『おかえり、ジャック』と俺は、預かっていたジャケットとバッシュをジャックに手渡しながら言ったさ。だってあいつ、砂浜に打ち上げられた海月みたいになっていたんだからね。せめてお気に入りのジャケットとバッシュを返してやって、元気を出してもらいたかったんだ。『ただいま、ジュード』って、ジャックはぐったりしながら応えた。きっと、会えると思ったおばあちゃんに会えなかったのが心にでっかいダメージを与えたんだと思って、俺は慰めてやろうと思って言ったよ、『ジャック、グランマに会えなくて残念だったな。でも元気出せよ、俺たちが行くのは向こう側で、あっちにはお前のグランマの若いころにそっくりの、美人のおねえちゃんがいっぱいいるみたいだぜ』ってね。でもなんとか自力で立ち上がったジャックは、そんな俺の言葉にそっけなくため息を吐くだけだった。なんでかって? 俺はすっかり忘れてたんだけど、やつはゲイだったんだよ。グランマとマミー以外の女には興味がないんだ」
しかし、どうにもこうにも、話し始めてしまったんだからしょうがない。ここはきっちりオチをつけるところまで持っていかなくては、芸人としての名折れだ。もちろん、俺は別に芸人というわけではないのだがな。
「そして、すっかりぬれ鼠になったジャックを連れて、俺は自分たちの進むべき道を進むことにしたよ。そうしたらその先に何が見えてきたと思う? それは何と言うか、大きな門さ。そしてその前には長机が置かれてて、二人のおっさんが座っていた。『ジュード、なんかでっかい門だな。まるでパリの凱旋門だ』なんて、バカなやつには珍しくまともなことを言ったわけだが、しかしそこはもちろん凱旋門なんかじゃないのさ。『ご新規でしたらこちらで登録をおねがいしま~す』なんて声が、俺たちにかけられた。声をあげたのは長机に座ってる男のうちの一人だ。どうもこの中に進むには登録が必要らしく、仕方ないから俺とジャックは二人して会員登録をしたよ。『それでは、週末までのご宿泊になりますので、ごゆっくりなさってください』と、長机の男は言った。『宿泊? ところで、いったいここはどこなんだ? 週末まで泊まってたら、俺の仕事はどうなるんだ?』と、ジャックは心配そうに言った。そして長机の男は応えたね、『楽園へようこそ。全てを忘れてお休みください』なんて。ジャックはその言葉に、働きすぎの自分に上司が有給でもくれたんだろうって納得してたよ。そこで思わず、俺は男に言ってしまった『自分はキリストを裏切ったユダの名を持った男だ、ここには入れない』と。しかしそれを聞いたジャックは言った。『なにを言ってるんだ、お前は裏切りのユダじゃないだろう、親友。お前は俺の親友じゃないか。今までずっといっしょだった、そんな親友だ。お前がいけないなら俺もいけない。お前が誰も裏切ったりしないし、ウソだって吐いたりしないってことは俺がよく知ってる。それでも行けないっていうならしかたない、有給は上司に返上しようぜ』なんて言うんだ。『死ぬまで、いや、死んでもいっしょだぜ、相棒』なんて、いいやがったんだ。もちろんうれしかったさ、言いながら、俺に熱っぽい視線を向けさえしなければ、それは最高の言葉だったさ。でも、最高の相棒からそんなうれしい言葉をかけてもらっても、俺はやっぱり裏切り者だったんだよ。だって、なぜなら、俺たちがこれからくぐるこの門の先は本当に文字通りの楽園で、それから俺たちの宿泊は週末までじゃなくて、『終末』までだから。つまり俺はジャックに言えなかったんだ、俺たちがもう死んでいるってことを。あいつはまだ気づいてないけど、俺たちがもう死んでるんだってことを。『相棒、俺、お前といっしょでよかった。こうして、死んでもいっしょで、よかったよ』俺は、ただぽつりとそう言うことしかできなかった。きっとキリストを裏切ったときのユダも、こんな気持ちだったんじゃないかって、俺は思ったよ……」
よく分からない不条理オチをつけて、一通り満足した俺だったが、しかし話し終えて息を吐いた瞬間に、どうしようも抗いがたい猛烈な睡魔に襲われた。まるで睡眠薬を嗅がされたドラマの登場人物のような勢いで、俺の意識はスパッと刈り取られてしまうのだった。
眠気、来い! と思っていたのは確かかもしれないが、なにもこんなに急速な眠気が襲ってくるとは思わなかった。まぁ、これはこれでいい。とにもかくにもさっさと眠ってしまいたいと思っていたのは確かなんだから……。
…………
「さて、幸久は知らないだろうが、しかし俺様は、お前のことを知っているぞ、女」
幸久を強制的に眠りにつかせ、その意識の支配権を俺様が奪い取った。これで幸久は、俺様が権利を返すまで目を覚ますことはないし、何よりもその間は、この俺様が主人格になるのだ、この女にどのような手を使われようと流れに流されることはあり得ない。
「ふむ、驚かんか。さては女、すでにあの伝承を聞かされているな。まったく、星家の嫡男にのみ伝承せよという教えを守らんとは、やはり今も昔も変わらず二の星は問題児のようだな。仕方ない、教育してやる必要があるらしい」
とにかく、我が息子同然である幸久に、おかしなちょっかいを出させるわけにはいかない。幸久の両親は死んだが、しかしまだ俺様がついているのだ。俺様の目が届くところでおかしなことをさせるわけにはいかない。
「…、あなた様は、平穏という安定を破壊する凶兆の星、我らが星家の守り神」
「左様、その通りだ。まぁ、それはお前が知っていていい話ではないのだが、な。さて、このようなことを幸久にするとは、なにが望みだ、女。いや、ここは二見の小娘、と言っておいた方がいいか?」
どのような目的があるにせよ、幸久に手を出させるわけにはいかないのだ。こいつは、生まれたときからずっとに俺様のものなのだから、どうして他の女が手を出すことを許すことができるだろう。
このまま、この女の思うままに幸久が手篭めにされてしまう様など、どうして俺様が手をこまねいて見ていることができるだろうか。悪いが俺様は、俺様のものが奪われていこうとするのを黙って見ていられるほど、温厚には出来ていないぞ。