ボッチの夜
「あ~…、なんで風呂入ったのに疲れてるんだ……」
俺の人生の中でも最長記録に違いないほどの入浴時間を経て、今こうして部屋に戻ってきたのだった。
「っていうか、みんなとっくに風呂からあがってたなんて、ばれちゃいけねぇってがんばってた俺のなんたる道化振りか……」
現在時刻は、かばんにつっこんでいたケイタイを取りだして確認するに、今まさに十時になろうかという、だいたいそんな感じ。そろそろ時間的に霧子と志穂はお眠だろうなぁ、なんてことに思いをはせブツブツと独り言を漏らしているのだが、しかし今現在俺は部屋に一人きりなわけで、そんな独り言に返事が返ってくるようなことはないのである。
あぁ、いつの間にかこんな時間になってしまって…、これじゃあもう部屋でのんびりしている以外にやることがないじゃないか。布団の中でごろごろしながら夜が更けるまでおしゃべりしたりするのが旅行の夜の過ごし方の定番なのだから、やっぱり不手際として姐さんにシバかれる可能性があったとしても去年と同じで一つの部屋でみんな雑魚寝状態が良かったのかなぁ、なんて今となっては完全に手遅れすぎることを思ったりするくらいには、暇な状態が極限に達していた。
「もぅ、寝ちゃおうかなぁ……」
きっと、そんなこと思ってるならみんなが眠くなるまで女子部屋に遊びに行けばいいじゃん、別にいっしょの部屋で寝るわけじゃないんだし問題ないんじゃね? とか軽いことを考えている人が多いのではないかと思うが、しかしそんなことをしてみろ、その先に待っているのは明確に命の危機だ。我らが風紀乙女、姐さんの貞操観念を甘く見ても舐めてもいけないのである。
そもそも去年、あんな感じ(第35~45話付近を参照)に俺が部屋の中で睡眠することを許されるに至るまで、それはもう筆舌に尽くしがたい苦労があったのだ。あの瞬間、間違いなく俺の人権は存在せず、少なくとも日本人として最低限保証されるべき生存権と社会権がはく奪される一歩手前であることは疑いようもなかった。
実はあのとき、最初の時点では、俺には廊下で寝るかあるいは完全に目張りした戸棚の中で寝るかの二択が突きつけられていたのだ。間違いなく人間として扱われていなかったが、まぁ、姐さんの潔癖性と鉄壁の貞操観念を考えれば、それもまた致し方なしと言うしかないのかもしれないが。実際のところはなんとか俺の説得に応じてくれて、俺がソファーで寝るというところで妥協してくれたわけで、同じ部屋で夜に男女が空間を共有して寝るというところについてはしぶしぶ、本当にしぶしぶ認めてくれた。そんなわけで、去年は俺が毛布一枚かついで部屋から出て、廊下でミノムシのように寝るという事態に陥らなかったのである。
そして、そんなこんなのすったもんだがあったのが去年。その労苦を二度と味わってなるものか、と徹底した管理によって去年と同じようなミスを犯すことがないように広太には厳命し、俺自身もそんな不手際が生じていないかを自分の目で確かめるといった二重チェックの体勢を築いてまで迎えた旅行が、これなのである。俺のたゆまぬ努力によって、確かに去年のような大変な事態は訪れなかったが、しかしまさかこんなことが副作用的に発生しようなどと、誰が予想することができただろうか。
「いいんだいいんだ…、今年は暇なだけで、大ピンチが発生したりはしてないんだし……。暇なくらいで、むしろちょうどいいんだ……。男一人なんだから、仕方ないんだもん……。不可抗力だもん……」
ちなみに、すでに部屋係の三枝さんが、俺が風呂に行っている間にパリッとノリのきいたシーツを被せた布団を敷いてくれていて、部屋はすでに完全に睡眠可能領域と化しているわけである。ここまできていれば、もはや俺が思い立った瞬間に布団へとダイブすることができ、眠るための準備は完璧なのだ。
しかし、見るほどに気持ちよさそうな布団である。真っ白く洗い上げられたシーツに包まれた、よく太陽の光を浴びているだろう布団は、どうしてか今なお暖かそうであり、寝転がれば優しい太陽のぬくもりに包まれてあっという間に眠りの世界へといざなわれるだろうことは明白だった。おそらく、大して眠くない今でも、布団に入ってしまったが最後、数十分の後には、すやすやと寝息を立ててしまっている俺がいるに違いない。
…、実は一つ気になることはあるけど、ここはあえて触れないのが吉! ほら、触れちゃうと、俺が気付いたってことでそれに関する話が展開しちゃうかもしれないじゃん? 気付かなきゃいいんだよ、こんなの。うん、俺はなにも見てない。見てないんだから、ここには気になるものなんて何もないんだ。何もないんだから俺はなにも気になってなんかいないぞ!
「あ~…、もう寝ちゃおうかなぁ……。ぶっちゃけ、ぜんぜん眠くないんだけど、することもないし。メールでもしながら布団に寝っ転がってたら、じきに眠くなってくるんじゃね?」
というわけで、風呂上りということでとりあえず着ていた浴衣から寝巻用のジャージへと着替えようかな、と思い立った俺は、とにかく着替えるためには脱衣だよな、というわけで適当に結っていた腰の帯――なんか名前があったように思うけど、俺は覚えていない。だから帯としか言いようがない――を解く。和装というのは便利なもので、基本的には一枚の布で全てが構成されているわけで、洋服に比べてこんなに脱ぎやすいのだ。いやはや、洋服の複雑さに比べてこの簡素な感じ、たまりませんな。
はっ!? 脱ぎやすいということは……、逆に言うと、脱がせやすい……!? ど、どっちだ……? 昔の日本人は横着だったのか……? それとも、エロかったのか……? どちらにしても、昔の日本人ってばもぅ…、っていう結論になりそうだからどっちでもいいのかもしれないけど、これは和装という存在自体の意義に深くかかわることのような気がしてならないぞ!
…、少なくともこの話題、言葉に出さず頭の中で考えているだけだとしても、ビックリマークをいくつも使ってするような話題じゃなかったね。いかんなぁ…、やっぱり一人でいると、どうにも変な方に思考が流れていっちゃうなぁ……。
「バカなこと考えてないで、健康的に寝るか。しかし…、いつもは十二時ごろに寝て六時に起きてるんだから、十時に寝たら明日起きるの四時だよなぁ、睡眠時間的に……。それこそ、そんな時間に起きてもすることねぇよ……。今なら姐さんとか起きてるかもだけど、でも朝のそんな時間じゃ確実に誰も起きてないって。あぁ、もう、姐さんにシバかれるの覚悟であっちの部屋行こうかなぁ。ほぼ間違いなく一発はもらうけど、でもけっきょくなんだかんだ言っても姐さんは俺にかまってくれるからなぁ。それに、寝起き特攻かますよりも、寝入る前の時間潰しでちょっとお邪魔する方が許されそうな気もするし。うん、やっぱりそうしたほうがいいんじゃないかな?」
浴衣はどうせ明日も着るだろうからしわにならないようにハンガーにかけて、それから俺はトランクス一丁の状態からTシャツを着て、そしてジャージの上下を見につける。いや、別に浴衣のまま寝たっていいのかもしれないけど、でも何が起こるか分からない世の中だ、寝るときもキチッと服を着ていた方がいいだろう。何が起こるかなんて、知らんけどな。
白と黒の、いかにもスポーツします、みたいなジャージを身にまとい、しっかり首元までジップアップして完全防備となった俺は、いままさに、いつでも睡眠可能な睡眠戦士にクラスチェンジしたといって過言でないだろう。きっと、今ならあっという間に眠れる。ぜんぜん眠くないけど、でもたぶん眠れる。眠れるに、違いないんだ!!
「それじゃあ…、おやすみなさい!!」
『三木様、失礼いたします……』
俺が、いつもよりもずいぶんと早いが、睡眠への決意を固くし、今まさに布団の中に入るぞ!! と思いを新たにしたところで、コツコツと扉がノックされ、そんな声がかけられたのだった。身体を敷き布団と掛け布団の間の隙間に滑り込ませようと、掛け布団の角に手をかけようと手を伸ばした瞬間の出来事だ、言うならば、俺の睡眠への決意は出鼻をくじかれたようなものであり、第一歩を踏み出し損ねたのであった。
「…、どうぞ……」
「夜分遅くに失礼いたします。お約束の通り、参上いたしました」
そして、開かれた引き戸の向こうに立っていたのは、他でもない、三枝さんだった。その格好は昼に見た仲居の制服ではなく、かといってさっき露天で見たあられもない格好でもなく、なんというか、浴衣というか、長襦袢というか、俺はその辺の分類が詳しく分からないから口をつぐむしかないが、そういう和装の中でも薄着って感じの格好をしていた。
っていうか、そうだよな、こういうところで仕事するってことは常に和装を強要されるんだよな。イメージって大事だもんな、やっぱり。従業員がジャージとかパジャマでうろついてる旅館って、なんかヤだもんな。
「…、あ~、そういえばそんな話があったようななかったような……」
「ありました」
「ありましたね、はい。あったあった、十五回くらい前にありましたよね、そんな会話、うんうん」
「ですので、こうして遅いお時間ですがお邪魔させていただきました。ですが、本当にお邪魔でしたら下がらせていただきますので、どうか正直におっしゃってください。三木様のお邪魔をするのは、私の本意ではありませんので……」
「邪魔では、別にないですよ。確かに、ちょうど暇していたところですし、いてくれたって別に一向にかまいません。でも、せっかくのお休みの時間に、こんなところにいてもいいんですか? こんなところにいたら仕事の延長みたいに気が休まらなくて、疲れません?」
「いえ、そのようなことはありません。確かにこうして三木様のお傍にいさせていただくのは、お仕事としての時間とそう変わらない状況であるかもしれませんが、ですが苦痛などではありませんから。そもそも、こうして三木様とともに時間を過ごさせていただくために、今まで二ヶ月ほどですが、ここで働いてきたようなものですから、お気になさらないでください」
「? それってどういう……?」
「あっ、えと、それは、ないしょ、です……。失言です、忘れてください……」
「いや、別に、それはいいんですけど……。…、まぁ、いいか。それじゃあ、何しますか? 俺、トランプくらいだったら持ってますけど、何ができます?」
「と、とらんぷ……?」
「あれ、トランプ苦手ですか? まぁ、二人でやるトランプゲームなんてたいがいはそんなに面白くないし、違うのがいいっていうなら別のがいいか。う~ん…、それ以外で遊びっていうと……」
「ぉ、おしゃべりなど、どうでしょうか……? こうして旅行に出られたとき、若い方は夜は眠くなるまでおしゃべりをしてお過ごしになるものなのでしょう?」
「まぁ、そうですね。っていうか、三枝さんも若い人のカテゴリですよね?」
「部屋を暗くして布団を寄せ合って、好きな人のことなどを打ち明け合う様子は、学生の方が行くという『修学旅行』ではよく見られるものだとか」
「一昔前の学園青春物とかだと、もはや定番みたいな光景ですよね、それは。いや、今でも定番なのかな。実際、俺も向こうの部屋に行ってそれに近いことをしようかと思ってたくらいだし」
「ですからそのように、おしゃべりをして時を過ごすのがよろしいのではないかと、私は思いました」
「…、そうですね、それじゃあ、少しおしゃべりでもしましょうか。とりあえず今、お茶いれますね」
「あっ、いえ、ですがお布団に入ってのことですので、お茶は……。こぼしてしまっては大変ですので……」
「いや、おしゃべりは座ってですよ、はは、なに言ってるんだか。ちょっともう机はしまわれちゃってるんで、向こうの板張りのテーブルの方で、ね?」
「ですがこうして、準備も整えておきましたのに……」
「やっぱりあなただったんですねこれやったの!? 一つの布団に枕二つ並べるとか、そういうことやっちゃダメですよね!? あぁっ!? 思わず突っ込んでしまった!? なにがあっても触れるもんかって思ってたのに!?」
「こうしておけば、お布団が一つでも二人でいられます。いい考えだとは、思いませんか?」
「どうかなぁ……。こういうの、どうかなぁ……」
「それでは、失礼します」
「早い!? 決断早い!?」
「さぁ、三木様もいらしてください。布団を暖めておく機械を使いましたので、もう暖かいです」
「ちょ、ちょっと心の準備するから、待っててくださいね!?」
パパッと、着ている着物を一枚脱いでより薄着になった三枝さんは、俺が動くよりも先に布団をめくってその間に身体を入れた。そして左側の枕にポスッと頭を置くと、ここまで状況を強引に進めてきた人とは思えない、少し恥ずかしがるような仕草で掛け布団を口元まで引っ張り上げて、目と指先だけを出して俺を無言のまま呼ぶのだった。
なんだこれは、いったい俺はなにを試されている。こういう状況においてどう動くのがよりよいのか、俺にはよく分からないのだが、しかし据え膳食わぬは男の恥とも言うわけでありまして、ここは男らしくスパッと決断するのがよろしいだろうことは明らかなのであります。
えぇ…、とりあえず、まずは深呼吸でもすることに、いたしましょうか。