表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
Prism Hearts  作者: 霧原真
第九章
118/222

曰く、バカの考え休むに似たり、と

今現在、いったい俺がどういう状況に置かれているかというと、とりあえず一言に全てを集約させて言ってしまうとすれば、たぶんピンチだった。いや、状況的に見ればあまり危機という感じはしない、というかむしろこの上なく極楽じみた何かしらに見えるのではないか、と思う。もちろん俺としてはそれが危機であると声高に主張したいところなのだが、しかし声を高くしてしまっては隣の女湯で絶賛入浴中の姐さん以下四名、俺の友人たちに俺が置かれている状況がバレてしまう可能性が生じてしまうわけであり、そんなことはどうしたって出来はしないのだが。

「かゆいところはありませんか?」

「…、左の耳の、裏のあたりが少し……」

「このあたりですか? このくらいの強さでいいですか?」

「…、いいです……」

具体的に何をされているかと言えば、どうしてかは分からないが頭を洗われていた。ぼんやりしている間にどういう展開が発生したのかはよく分からないが、しかしとにかく、シャンプーは俺の頭の上であわあわと泡を発生させているわけで、髪の中でわしゃわしゃと、ほっそりとした十本の指が動きまわっているのはどことなくこそばゆく、自分で頭を洗っているときには感じない感覚がそこにはあった。

俺は基本的に床屋とか美容院とか、そういうところには未だかつて行ったことがないわけで、こんな風に誰かに頭を洗ってもらうなんて、物心つく前に生きている両親か、あるいは庄司のおじさんおばさんあたりにやってもらって以来の経験かもしれない。自分でやっている分には、もちろん全ての動きが俺の思いのままに為されるのであって、不意打ちみたいなことはどうしたって発生するはずがないのだが、しかし自分以外の人にやってもらうとなると、そういうのがしばしば発生して微妙にびっくりさせられたりする。

ちなみに、俺が髪を切ってもらいにお店に行ったりしないのは、以前はおばさんが見事にカッティングしてくれていたからであり、また今は俺が自分で見事にカッティングしているからなのだ。以前に人の髪を切るのはけっこう上手いといったが、それと同じくらいに自分の髪を切るのが上手いのだ。少なくとも、上手く出来なかったからやっぱり床屋に行かないと、とかいう状況になったことは一度もなく、ミスらしいミスも、実はしたことがなかったりする。

「そういえば、三木様は、トリートメントはなさるのですか?」

「えぇ、まぁ…、あんまりする意味はないんですけど。それにトリートメントっていうか、シャンプーした後のついででリンスをするくらいで」

「そうですか、それでは後ほどそれもさせていただきますね。これはトリートメントですので、リンスとは違ってすぐに洗い流さないものなのですよ」

「へぇ、そうなんですか……」

「はい、トリートメントは毛髪の中に成分が浸透するので、そのための時間が必要なのだそうです。ですので、トリートメントを馴染ませている間に身体を洗ってしまいましょう」

「…、そうですね」

しかし我がことながら、どうしてこんなことになっているのかさっぱり分からない。だって、なんだこれ。こんなの、完全に俺の理解の範疇の外側だ。意味が分からない、と言い捨てるしかないような気がする。

果たして、この状況はどうしたら理解することができるのだろうか。少なくとも、俺が通常の思考で思いつくようなんらかでは、ないだろう。俺のたどり着くことのできない何かが、少なくとも一本、この状況の裏側に屋台骨として建てられている。それが何かということは、もちろん、俺の知らない何かだろうし、俺の思いつきもしない何かに違いない。だからこそ、今ここでそれにたどり着くことは出来っこないのである。

つまり、俺は論理的かつスマートな方法でこの状況を解決、あるいは解消へと導くことは出来ない。だってよく考えたら前提条件が分からないのだ、そんなことが出来るはずはがないじゃないか。いってしまえば、俺にはそもそもの一歩目が見えないのだ。さっきは現状を捉えているつもりなんて思ったけど、俺がようやく捉えることができていたのは現状ではなく、ただの事実認識でしかなかったのだ。ただ目の前にある事実を事実として見ることは、そこまで難しいことではない。しかしその一歩前、その具体的事実がどういうことを前提にして発生しているのかが分かっていない。事実という建物は見えているが、前提という土台が見えていない。今はつまりそういうことなんじゃないだろうか。

「それでは流しますね。目を閉じてください」

「はい……」

くっ、とコックが捻られ、シャワーヘッドからちょうどいい温度のお湯があふれ出す。泡だらけの頭に当たったそれは、その水流によって髪についた泡を洗い流していき、流れ落ちる泡は水の流れに乗って排水溝へと流されていく。そしてやわやわと、髪に差し込まれた指がゆっくりと動き、髪の毛に乗っている泡を流す手助けをしている。自分で髪を洗うときは、こんなに丁寧にやらないわけで、そのゆっくりゆったりとした動きがくすぐったくて、やっぱりどこかこそばゆい。

う~ん…、よく考えたら、物心ついてから今まで、こんな風に他人にいいように弄ばれたことはなかったかもしれない。だからこそこんな風に、どうとも言いようのない違和感のようなものを感じているのかもしれないな。まぁ、頭を人に洗われているくらいのことでここまで言うのも、もしかしたらおかしなことなのかもしれないけど。とにかく、なんかもう、変な気持ちなのだ。別に人にやさしくされることに慣れていない、とまで言うつもりはないが、しかし身の回りの世話を過剰にされるような環境で生きてきたわけで、だからこそ逆に、今まで出来るだけ人に迷惑をかけたりしないようにと気をつけて生きているつもりなのだ。いきなりこんな風にされたら、どうしたらいいか分からなくなるじゃないか。具体的には、どうやってここから脱出すればいいのか、分からなくなるだろう。

「目には沁みませんか?」

「だいじょぶ、です……」

「それではきれいに洗い流せましたので、トリートメントをしますね」

「…、お願いします……」

「それにしても三木様の髪は、とても芯がしっかりしていらっしゃるのですね。ですが、だというのに柔らかくて、髪型のつくりやすい髪です」

「そうなんですか? 俺は、あんまりそういうおしゃれな感じではないんで、髪質とかぜんぜん気にしたことないんですけど」

「素敵だと思います」

「そうですか……」

しかし、どうやってここから脱出するかといってもそんなことは思いつかないわけである。とにかく、少なくともこんなところで、こんな風にシャワーをかぶっている場合ではない、ということだけは確かなのだが、だからといってここからどう動いていけばいいのかは、さっぱりわからない。

たぶん一番分かりやすいのは声をあげて仲間を呼ぶことなんだが、しかしそんなことをしてしまえば、当然真っ先にやってくるのは姐さんなのだから、大惨事は免れない。きっと姐さんは、俺が困っているとなれば真っ先に飛んできてくれる。そういういい友人なのだ。いい友人なのだが、しかしこの俺の置かれている状況を目にしてしまえば俺が困っているという危機はとりあえず置いておいて、俺がまた破廉恥なことをしているとお怒りになるに決まっているのだ。

姐さんにとってみれば、俺が危機に置かれていることよりも、風紀的によろしくない事態が発生していることのほうがより重大な危機として重視される。そして、男の危機よりも女の危機の方がより重大な危機として認識されるのである。つまり、姐さんがここにきてしまうと、意味も分からず三枝さんに頭を洗われている俺よりも、裸で、男湯で、俺の頭を洗わさせられている三枝さんの方がより危機的状況に置かれていると判断され、それによってその危機の元凶である俺が始末されてしまうに違いないのだ。

いや、ここでは俺が助けを求めたこととか、三枝さんが声を上げようとしなかったこととか、まず何が起こって次に何が起こってここまで状況が進展しているのかとかいう事実の前後関係とか、そういう細かいことが想定に置かれることはない。ただここ、この瞬間に、今までどういう経緯をたどってきたのか、とかは関係なく、姐さんの目に映る光景が是か非かという判断が生じるのみなのである。そしておそらくこの光景、姐さん的にはアウト、超アウト。どう考えてもセーフになど、なりようがあるまい。

姐さんが見たらこの光景、俺が部屋付き世話係である三枝さんに、客としての立場を笠に着て無茶な要求をして風呂場まで連れてきて、辱めると同時に奉仕まで強要していると思われるに決まっている。そうなったら俺はやられる。ボコられるに決まっている。だって、そうにしか見えない。姐さんが見たからそう判断されるんじゃない、誰が見たってそう見られる。俺が鬼畜プレイをしていると思われるに決まっているじゃないか。

だから、バレてはならないのだ。姐さんたちにバレたら終わり、仲間内での俺の評価に大打撃が与えられるに違いないのである。つまり、ここから逃げるとしたら一人で全てを打開しなくてはならない、ということだ。

「お背中、お流しします」

「…、はい……」

「痛くはありませんか?」

「だいじょぶ、です……」

しかし、いったい何の目的があってこの人はこんなことをしているんだろうなぁ。だってこんなの、全然この人にとってメリットがない。恥ずかしいだけじゃないか、こんなことしてても。別にこうしてくれたからといって俺が彼女に対して何か有益なことをしてあげられるわけではない、ということは三枝さん自身分かっていることだと思う。

いや、むしろ逆に考えるんだ。これをすることによって三枝さんが何かを得られるとしたら、どうだろう? しかし、それならば何が? 俺はタオル一枚で財布を身につけてないから泥棒ということはないし……。もしかして、色仕掛け? …、何のために? そりゃ、色仕掛けっていう意味でいうなら効果は抜群かもしれないけど、でもその必要性も必然性も見えない。行きの車の中で、俺のことはあらかじめ知っていたと言っていたから、それってことはつまり三木の現状も知っているわけで、俺なんかに色仕掛けをしたって金を引っ張り出すことができないことも知っているはずなのだ。あと、マンガとかでは色仕掛けの定番である玉の輿狙いも線としてなくはないけど、それも同様の理由によってなさそうだ。金を持っていない相手の玉の輿に乗ろうなんて、そもそもからして玉の輿という言葉の意味をはき違えているとしか思えない。故に、却下だ。

あるいは、目的は金じゃないのかもしれない。となると、名誉か? 俺の背中を流して、いったい何の名誉を得ることができると言うのだろうか。それとも、隙を窺っているのか? 何のために…、命、か……? ほら、うちは、実は伴ってないけど、家の名前だけはすごいらしいから、そこらへんを狙った殺し屋とか? 別に俺が今まで命を狙われたことがある、とかいう事実はないんだけど、でもそういう可能性がないとは限らない。まぁ、あくまでも可能性というだけで、無限に存在する可能性の中の毛一本ほどの瑣末なものの一つでしかないけど。だって当然だ。現に、完全に後ろを取っている。今なら殺し放題だというのに、しかし殺さないじゃないか。プロならもうとっくに殺してる。でも殺されてない。だからその可能性は考慮に値しないほどの些細なものでしかない。

…、うん、意味が分からなくなってきたぞ。しかし、この行動には何か意味があるに違いないんだ。人間はおおむね意思と意味を持って行動するものなのだ。もちろんその限りではないこともあるが、そういうときはもっと無難な、見るからに意味のなさそうな行動を取るはずなのだ。だからこそ、ここには何か裏がある。あるに決まっているのだ。そうでなかったら、納得できない。何の意思も、意味もなく、こういうことをされては困るのだ。何でもいい、俺の納得できるような理由をつけてくれないと、腑に落ちなくて気持ち悪いじゃないか。

「…………」

「どうか、なさいましたか?」

「いえ……」

「もう少し、強くした方がよろしかったですか?」

「いえ…、あっ、前は自分でやるんで」

「? 前も後ろも、もう終わりましたが……?」

「えっ? でも今、もう少し強くとか何とか」

「明日のためです。よりよくするために、教えて頂いた方がいいと思いまして」

「…、あぁ、ちょうどよかったです」

「そうでしたか、それでは明日も今くらいの強さで洗わせていただきます」

「……、明日は、別にやってくれなくても」

「明日も、やらせていただきます」

「…、はい……」

なんなんだ、この押しの強さ。俺が押しに弱いと知っていて、こうも強気の姿勢で来ているというのだろうか。まったく、女の人に強く出られると反抗する気概をまったく失ってしまう俺もどうかと思うが、しかしこう、もう少し押しの弱い女の人がいたっていいではないか。というか、俺の周りの女子は押しが強すぎるんだ。環境だ、環境がいけないんだ、俺が悪いんじゃない。

「それでは流しますね」

そうして、三枝さんは俺の頭からザバッと手桶にためた湯を三度ほどかけると、もう一度シャワーで髪についたトリートメントを丁寧に洗い流してから、本当に俺の髪を洗って背中を流しただけで、風呂場を出て行ってしまったのだった。本当に、何のためにここにやってきたのか分からないまま状況が終わってしまったではないか。何なんだ、本当に。俺を動揺させるのが目的なのか?

「あぁ…、ほんとに分からん……。何がしたかったのかだけでも教えて言ってくれればいいのに……」

それから俺は、自分で勝手にこんがらがったのだが、混乱した頭を抱えたままもう一度湯船につかり直し、一時間ほど、もういっそすべてがどうでもよくなってしまうまで、その場にとどまっていたのだった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ