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Prism Hearts  作者: 霧原真
第九章
117/222

いつも危機、今日も危機

~前回までのPrism Hearts~

 温泉に入ってたらいつの間にかピンチ。例によって例のごとく、いつも通りのピンチ。


―閑話休題―


 例によって例のごとく、日常茶飯事と言って差し支えないほどに、どうしてかピンチな状況に置かれてしまう俺だったが、今日の危機はそんじょそこらの危機とは比べ物にならないものだった。今回はいつも以上に、特にヤバい。なにせ俺の社会的な生死がかかっているのだ、これを未曽有の危機と呼ばず何と呼ぶか。

 そして今、俺は幸運にもその危機的状況から脱出するための方法を発見し、まさに今、それを実行に移さんとしているところなのである。さて、ということはつまり、この作戦が成功するかどうかに俺の社会的な生死がかかっているわけなのだが、おそらくこの作戦、八割から九割の確率で成功するに違いない。当初の想定通り完璧に事が進むのは難しいかもしれないが、少なくともとりあえずの成功はすると思われる。

だってとりあえずあそこに山と積み上がっている手桶のどこかしらに、ちょうどいま手に持っている手桶をぶつけるだけでいいのだ。これを、スイートスポットに直撃させて山を完璧に瓦解させることを最低条件の目標にしてしまっては、その難易度は跳ねあがるだろうが、俺にはそんな大成功は必要ないのだ。いうならば、ほんの小さな成功でいい。ボーリングで言うなら、「とにかくストライクを出せ」と言われるのと、「なんでもいいから一本倒せ」と言われるのとを比べるくらいに難易度に開きがあるのではないだろうか。

呼吸を整えて、意識を研ぎ澄ます。周囲の音が、徐々に消えていく。手の中にある手桶を確認、手の中で滑らせてしまわないように掴んでいる感覚を確かめる。

「集中だ……」

吸って吐いて、吸って吐いて。空気を吸い込み、そしてそれを循環させ吐きだす。その二つの行程を何度か繰り返し、緊張と弛緩のバランスを最高の地点まで持っていく。

吸って吐いて、吸って吐いて。目標地点までの距離は、おおよそで七メートルといったところ。この距離ならば外さない。投擲種目が特別得意ではない俺であってもそんな確信を持つことができるような、そう、これは簡単なミッションに他ならないのだ。

水音をさせてしまわないように気をつけながら振りかぶり、そして水面を乱してしまわないように気をつけながら腰を回転させる。下半身をそこまで動かすことができない今、何らか物を投げるとすると、そこで求められるのは腰より上、上半身の回転力である。この投げ方は野球で言うなら捕手から投手への返球を座ったまま行なう場合によく似ている。腰を回して肩を引き、そして腰を戻す勢いで肩、肘、手を引き、結果的に手の中にあるボールを押しだすような、そんな投げ方。今この瞬間、俺はその投げ方によって、手桶を投げることによって必然的に発生してしまう音を最小限に収めようとしているのである。

そして投擲距離はたったの七メートルほどなのだから、全力を手桶の速度と威力に込める必要はない。ここで求められるのは、ともかく手桶をあの山にぶつけることであり、ともかくあちらの方にあの人の注意を向けることなのだ。何はともあれ当てること、それが俺が今しなくてはならないことだ。

「せぇの……!」

そして、放つ。引き絞った弦を放すように、振りかぶった力を前方へと押し出していく。放たれた手桶は、まっすぐに目標点へと飛んでいく。だいじょうぶ、手が滑ったり、指が引っかかったりはしていない。そう、このまま何の問題も起こらず一直線に飛んでくれればいい。そうすればあの山が崩れる。そうすれば俺はここから脱出することができる。それで全て、万事解決だろう。

手桶がまっすぐに空を切っていた時間は、正味で一秒か二秒と言ったところだろう。ほんのわずかな間を置いて、手桶は俺の願いを乗せたまま山へと衝突。しかもかなりいい位置に当たったようで山は瞬く間に瓦解、それなりに大きな音を立てていくつもの手桶が浴室の床を叩く。これだけの音がすれば、どう考えたって注意を引かれてしまうに決まっているではないか。これで、あの人が崩れる手桶から俺の方に意識を向けるまでの時間を使ってこの場から脱出することができる。

俺は、急いで頭の上に乗せていたタオルを広げて腰に巻きつつ浴槽から出ると、体重をうまく移動させて足を滑らせることなく一歩目を踏み出す。湯船を出てから脱衣所にたどり着くまで、およそ五歩。女の人は驚いたように崩れゆく手桶の山へと目を取られてしまっている。おそらく俺の動きには気づいていない。いや、気付いているとしても、俺の動きなんかよりも手桶山の崩落の方が気になってしまって仕方ないはずだ。

二歩、三歩。急いで急いで足を進める。濡れた床に滑りそうになる脚を操作して、なんとか転ばずに進んでいく。そして四歩目、五歩目を踏もうとして、ゴールである脱衣所へと足の指がかからんとする五歩目を踏もうとした瞬間、どうしてか右手にスッ…、と手が添えられた。添えられた手は、まるで絡め取るように右の手、上腕、二の腕、肩まで一息で通って左の肩へと到達した。そしてその腕は俺の進行方向を遮り、それからまるで抱きすくめるようにもう片方の腕も回され、俺は見事に拘束された。

「三木様、もうお出になるのですか……?」

耳の間近で、その人は隣の女湯に聞こえてしまわないようにひそめられた声で、小さく囁いた。そう、その人は、俺はそちらの方をあまり見ないようにしていたから気付かなかったのだが、どうやら三枝さんだったらしいのである。

「まだ、湯につかっただけなのでしょう……? それならば、きちんと身体を洗うまでは、出てはいけないのではありませんか……?」

ここにいるのがこの旅館の従業員である三枝さんということは、それはつまり女の人が間違えて男湯に入ってきてしまったというわけではないのだ。だってそうだろう、従業員がそんな間違いをするなんて、そもそもからしてありえないことではないか。ということは、何か考えがあってここに入ってきたということになる。しかも俺が入っているということも把握しているということは、その疑惑はほぼ間違いない確信へと変わる。

「さぁ、こちらに座ってくださいませ。お背中を、お流しします」

「け、けけ、けっこうです……」

「そんな、遠慮などなさらないでください。言いましたでしょう? 私はこれから三日、三木様のお世話をさせていただきます、と。だからこれも、その一環だと思ってくださいませ」

「さ、サービス過剰、なのでは……?」

「サービスでしたら、過剰であってはいけないかもしれませんが、ご奉仕でしたら過剰はむしろ正しいでしょう? 私は三木様にご奉仕するためにここにいるのですから、これくらいのことは何の問題でもありません」

「ご、ご奉仕っていっても、仕事じゃないですか。仕事なんですから、そんなに無理をしなくてもいいんですよ……。俺、別にチクったりしませんから、別に無理してこんなことしなくてもいいんですよ……?」

「仕事では、ありません。仕事で、こんなことは出来ません。仕事としてやれと言われただけでは、このようなことは出来ませんもの。これは、私の意思、ですから。さぁ、こちらにお座りを」

「は…、はぃ……」

その場からの脱出に失敗して三枝さんの腕の中に捕えられてしまった俺は、その意思の力に気圧されるように、三枝さんの言うままについさっきまで三枝さん自身が座っていた丸椅子に座らさせられていた。いったい何の思いが、あるいは思惑があってこの人がこんなことをしているのか、そのことは俺にはまったくもって分からないわけなのだが、しかしとにかくこの状況がよろしくないということだけははっきりと分かっている。

しかし再びここから逃亡しようにも、この人、パッと見た感じではまったく分からなかったが、かなり鍛えているか、あるいは極めている。少なくとも、俺が力ずくで押し通ろうとしても上手くいかない程度には力か技か、何かを持っている。そういう人たちには、真正面から何をしても無駄である。俺はそのことを友人たちから嫌というほど学んでいるのだ。この人のことは、これから姐さんと同程度の力量を持っている人だと思うことにしよう。それくらいの使い手だと思ってかからないと、きっと簡単にやり込められてしまうだろうからな。

「ずいぶんと長くお湯につかってらっしゃったんですね…、身体がこんなに熱いです……」

「温泉…、好きなんで……」

「そうでしたか…、だからずっと入っていらっしゃったんですね……」

「温泉…、好きなんで……」

しかし、ここから抜け出すといって、いったい何をすればいいというのだろうか。今の状況を表現するとすれば、それはおそらく座っている後ろから抱きすくめられている、というのがもっとも的確なものに違いあるまい。果たしてこんな状況から、如何にして脱出するというのだろうか。ただでさえ温泉でのぼせかかっていて頭がはっきりしていないというのに、それに加えて今、背中の肩甲骨のあたりに彼女の豊かなバストが押しあてられて集中力がどっかに行ってしまっていると言うのに。

「それでは、まず頭からお流ししますね……」

「ぁ、あの、他のお客さんが」

「入ってきませんので、安心してください……。それよりも、あまり声をあげられると不審に思った隣のご友人方がこちらにやってきてしまいますよ……」

「ぅぐ…、それは、そうなんですけど……」

くそぉ…、あとは逃げるだけだからと、さっき手桶を投げるときに集中力を使いすぎた。ダメだ、頭が回らない。ただここから逃げることだけにすべてを費やしていればよかったさっきとは、状況があまりに激変している。マズい、何をどうすればいいのかが、だんだん分からなくなってきた。俺は、今、とりあえず、何をすればいい? ここから逃げることは大前提だけど、そのための前準備として、俺はなにをすればいいんだ?

うぅ…、考えなくちゃいけないのに、思考を止めちゃいけないっていうのに、温泉からわき上がり俺の全身を包んでくる熱気がしきりに思考停止を勧めてくる……。もうどうしようもない、現状は打開できない、状況に流されてしまえと、絶え間なく耳元でささやかれ続けているような、そんな気分だ。

とりあえず、立ち上げればいいのか、それとも横に転がればいいのか、あるいはなんとか口で丸めこむことをそれら以前にするべきなのか、もう何も分からない。考えがまとまってくれない。まるで丸太でできた簡素ないかだか、それとも小さなゴムボートのように、思考が意識の海原にもみくちゃにされている。思考の目的地は定まっている。出発点である現状も理解しているつもりだ。しかしそれでも、その間を埋める方法へと思考が届かない。いつもなら無意識的にやっている、取るべき方法のルートの取捨選択が、まったくもってうまくいかない。

「シャワーを、かけますね……」

いっそのこと、頭から大量の冷水でもぶっかけてくれれば、少しは今よりもまともに頭も回ることだろう。しかしかけられるのはちょうどいい温度に設定された温かいシャワーであり、それが俺の思考を研ぎ澄ます手助けをしてくれることはない。相変わらず、俺の意識はどこかぼやけたまま。今のままではいけないと、ただぼんやりと方法を持たない危機感だけが無限に、そして無為に生産されている。

「熱くは、ありませんか……」

「…、ちょうどいい、です……」

さっきまでちょうどいい塩梅に調整していた緊張と弛緩のバランスが、熱気と、温水と、それから優しい声音によって崩されていく。まるで、なんとか保っていた緊張が溶かされていくように、ただ全てを弛緩した感覚が支配していく。何も明確に捉えられず、徐々に唯一確かだった現状への危機感すらも薄らいできてしまう。

マズい…、このままでは現状に迎合してしまう……。受け入れてはならない状況を、諦めとともに受容してしまう。ヤバいヤバい……、どうにか、何かを展開させないと。このままだと、じきにあらゆる全てのことがどうでもよくなってきてしまうではないか。そうなったら、もうただ、これから訪れるであろう何らかの刺激に対して、ただ漠然とそれを受け入れるだけの不確かなスタンスしか取れない存在になってしまう。そうなってはいけない。それでは、俺の意思はどうなる。この状況を漠然と受け入れるなんていけないと考えている、俺自身の今この瞬間の意思はどこに溶けてしまうというのだ。

動かさなくては、思考と状況を。

諦めたら終わりだ。

思考停止してはいけない。

なんとかして抗わないと…、現状に、状況に……。

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