温泉戦線異状アリ
俺は、温泉からとめどなくもうもうと立ち上る湯気によって、まるで俺の生きている世界全てがポカポカの楽園に変わってしまったような、そんないい感じの気分になっていた。そう、温泉につかっているという事実だけでもう底なしにいい気分というか、他には何もいらないな、とか思っていたのである。
しかし今、俺の頭の中を支配しているのは、楽園のようなこの空間から如何にして、かつ迅速に退避するかということにほかならなかった。いや、別に、あっという間の心変わりで温泉が大嫌いになってしまった、というわけではないのだ。温泉は今でも変わらず大好きだし、何も問題がなかったらいつまでだって温泉につかっていたいという気持ちには、今だって偽りはない。何も、問題がなかったら、な。
「ふんふ~ん♪」
何を隠そう、今、俺にかつてない未曾有の危機が訪れているのである。これほどまでの危機は、当然今までに訪れたような危機では比肩するものなどあるはずがないのだが、おととし中学校を卒業するとき、十数人の不良グループから「卒業式が終わったら、校舎裏で待ってるぞ☆絶対きてね☆」というようなニュアンス(脳内改変済み)のラブレターみたいな呼び出し状をもらって以来のものではないかと思われる。ちなみにそのときは、霧子の涙に誓った不殺の約束に従って、呼び出し通りの時間に校舎裏へと赴き、そして一撃も喰らわず、一撃も喰らわせず、見事に逃げ切った。あのときの不良たちは今も元気にしているだろうか。それとも不良なんてバカなことは止めてしまったのだろうか。
…、現実逃避に過去回想を始めそうになってしまったではないか。危ない危ない、落ち着け、俺。今この瞬間の現実を見つめないといけないぞ。そう、問題が発生してしまっているのだ。よし、まずは落ち着いて状況を整理しよう。きちんと現状認識をしないと、現実を見つめることなんてできないからな、うん。
まず、俺は温泉に入っていた。しかも一人で。これは幸運だった。他の客が一人もいなかったんだからな。こういう偶然だったら、いつでも歓迎だ。俺は、風呂は一人で入りたい派だからな、うん。
それから、少しのぼせてきたから頭をすっきりさせるために水を手桶一杯かぶったんだったな。あれはよかった。温泉につかっていて火照った身体がスッとするようで、今までにない感覚だった。あれはこれからの温泉ライフをより快適にする発見であって、偶然にもそんな発見をすることができるなんてなかなか幸運だったと言っていいだろう。
それで、せっかくつかっていた温泉から出たというのに、俺は温泉が好きすぎてすぐに戻ってしまったんだ。しかし、それは仕方ない。やっぱり、温泉は俺の心を引きつけてならないのだ。それもこれも、火照った体を水で回復させてしまったのがいけなかったんだ。いや、確かにアレはいい発見だったけど、でもより一層温泉から抜け出すことを難しくする、開けてはならぬパンドラの箱だったのかもしれない。いい発見だったからこそ、使いどころを誤らないようにしなくてはいけないな。温泉はとても良いものだけど、しかし温泉の中で生きていくことは出来ないのだ。けじめというものを、きちんと持たなくてはいけないだろう。
そして、けっきょく俺は、せっかく一区切りつけて温泉からあがったというのに身体や頭を洗うことなく戻ってしまったんだよな。それから、いつかは洗いに出ないといけないんだけど、どうしようかと考えていたら、他の宿泊客が温泉に入ってきたんだ。だから俺は、その人が洗い場にいったら洗い場に、その人が温泉につかりに来たらもう少し温泉の中に、とその人がどう行動するかによって自分の身の振り様を考えよう、と決めたんだったな。そういう風に、たまには全然知らない人の行動に自分の決断を委ねてみようかなぁ、なんて思ったわけだ。まぁ、ちょっとしたギャンブル気分だったよ。なんというか、温泉につかってたわけだし、間違いなく気は抜いてたね。まさか、ねぇ、そんな、おかしなことが起こるなんて思わないじゃない? だって温泉だよ? こんな平和の象徴みたいな世界で、問題が生じるわけがないじゃない、ねぇ?
「…、早く、逃げないと……」
問題というのは、その入ってきた人にあった。そう、問題があったのはその人であって、俺には何の問題もなかったんだ。だから、ある意味で俺はこの状況に何も関わっていないと言うことができるかもしれない。そうだ、俺はなにも悪くないんだ、悪いのは俺じゃなくて状況なんだ。まぁ、そんなことを言ったからといって、何が解決されるわけでもないんだけどさ。
「ふんふ~ん♪」
問題というのは何かと言うと、その入ってきた人が、男ではなかったのだ。ニューハーフなお方だったというオチでも、けっしてない。男でなかった、つまり、より状況を正確かつ明確な言葉によって明白なものにするならば、女の人が、どうしてかはまったく分からないのだが、男湯であるところのこの空間にやってきたのである。ほら、異常事態だろ? そんなこと、常識的に考えてありえないだろ?
仮に、あくまでも仮に、女の人が何の疑問も持たずに男湯の入口にかけられている『男湯』と染め抜かれた青い暖簾をくぐって、女湯と寸分たがわぬ脱衣所(見たことはないが、脱衣所のデザインをわざわざ変えることはないんじゃないかと思う)で服を脱ぎ、タオル片手にそこの扉をくぐって来てしまったとして、…、あれ? 最初の暖簾をくぐっちゃえば、他にそこが男湯か女湯かを判断する材料が、ない……? ぃ、いや! そんなこと関係ない! そもそも女の人は男湯の暖簾をくぐらないんだから!
「と、とりあえず、俺が男湯と女湯を間違えてるって線は、ないんだよな……。だって向こうから志穂とか霧子とかの声が聞こえるし……。だいじょぶだ、落ち着け、俺。俺はなにも間違えてない。俺はなにも悪くないんだ。間違えてるのはあの女の人で、おかしいのはあの女の人なんだ。だ、だから、堂々とするんだ……」
無理だった。堂々とするのは、無理だった。こういう場面で、男って弱いよな。やっぱり、こういう場面を誰かに見られたら、男である俺の方が悪いってことになるだろうし、っていうかそもそも俺はきっとこの人のことをとっさにかばって悪者になろうとするんだろうな。晴子さんの調教は、それほどまでに俺の無意識の奥深くまで根を張っているのだから、おそらく逆らうことはできないんだろうと思う。
「それにしても、俺はどうしたらいいんだろう……。逃げるにしたって、あの人は引き戸のそばのシャワーのところに座ってるから絶対にばれずに抜けだすのは無理だし、ドア以外のところから抜けだすにしても、そんなことしたら絶対見つかるだろうし。なんでこんなに詰んでるだよ、俺が何か悪いことしたのかよ……!」
いや、こんなところで憤慨しても何も始まらないぞ、落ち着くんだ、俺。とにかく今はなにをするべきなのかと言えば、おそらくあの人は自分以外に誰かが入っていること自体には既に気付いているだろうけど、それがどんな人なのかまでは気付いていないだろう。きっと、俺が男だってことには気づいてないんだと思う。だってそうだろ。気付いてたらすぐさま脱衣所の方に逃げてくれるはずじゃないか。というか、そうだったら、自分が間違えて男湯の方に入ってきてしまったんだと気づいてくれるはずだし、そんなところで、鼻歌交じりの悠長さで艶やかな黒髪を洗っているはずがないのである。
俺が男だと気づいていないということは、つまり素知らぬ顔でスッとここから立ち去ってしまえば問題はないのではないか、と思われるだろうが、しかし物事はそう単純ではない。言っておくが、俺は女の人が裸になっている横を素知らぬ顔でスッと通り過ぎることが出来るほど肝が据わってはいないぞ。絶対挙動不審になる。これはまちがいない。断言する。しようと思っていなくても絶対に不審な動きをしてあの人の目を引いてしまい、それから俺が男だということがバレる。バレて大声を上げられて、そして隣の女湯で絶賛入浴中の姐さんがまず飛んできて、それから志穂がわざわざ壁を超えてやってきて、そして霧子とメイがやってきて、そうしてすったもんだのごたごたがあったあと、俺は温泉にどざえもんのように浮かべられる。俺にはその未来が、明確なビジョンとして見えているのだ。絶対だ、これは間違いなく起きる。だから「素知らぬ顔でスッと脱出大作戦」は、ダメ。絶対ダメ。やってはいけない。
となると、俺はどうするべき?
「ま、まだ、動くべき時じゃないってことだ、うん。いや、別に日和ってるわけじゃない。今は冷静になって、時が訪れるのを待つべきなんだ。俺だって、何も好き好んで姐さんにボコられたいわけじゃないんだからな、うんうん……」
そうだ、まずは冷静になろう。冷静になって、状況を見極めるんだ。そうすればおのずと突破口は見えてくるはずなんだ。
あっ、隣にいる姐さんたちに助けを求めるのはどうだ? そうすれば、ほら、状況が変わるじゃないか。どっちに向かってどんなふうに変わるかはさっぱり分からないけど、でもマズい状況で停滞してしまうよりは、たぶんずっとマシ、なはず。でもどうやって? というか、姐さんに状況を知られたらダメなんだって。それはつまり姐さんに事情を説明しないといけないってことで、ということは今の男湯の現状を知られるわけで、それじゃあの人に声を上げられたのと何も変わらないじゃないか。姐さんは、自供したからと情状酌量するような、そんな司法取引みたいなことには決して応じない。そういう人なんだ、姐さんは。
ということは、その作戦はダメ。それ以外に何か道を考えなくては……。
それじゃあ、何か投げて――たとえば手桶みたいなものだけど、明後日の方向で大きな音をさせて注意をそちらに向けておいて、そして俺がその隙に横を駆け抜ける、というのはどうだろうか。おっ? もしかして、それって名案なんじゃないか? ほら、人間って不意に大きな音がしたらそっちに注意を向けちゃう生き物だろ。そうだそうだ、そうしたら姐さんにこちらの状況を知らせる必要も別にないし、何か男湯で大きな音がした、くらいの認識しか与えないことができるではないか。
よし、しかも都合のいいことに、誰が片づけ忘れたのか、手桶が一つ湯船に浮いているじゃないか。それに、ドアとは対称の方向に手桶が山と積まれているところがあるじゃないか。あそこの、ちょうど重心のところにこの手桶を投げつければ、いい感じに全部崩れてかなりの音が発生するだろう。そうすれば間違いなくあの人はそちらに10秒くらい、いや、そんなケチなことを言わず分単位で注意を向けてくれることだろう。そうしたら俺はその隙に悠々と脱出することができるじゃないか。しかも足音は手桶の崩れる音が消してくれるだろうし、ばれてしまう可能性は極限まで削られることに違いない。
俺は、出来るだけ音をたてないように温泉の中を移動し、そして神様からの贈り物のように水面に浮かんでいる手桶を手中に収める。狙うのは、ピラミッド状に六段も積み上げられている手桶の山の中心よりも少し下。下から二段目と三段目の境目の、ちょうど真ん中のところ。おそらく、あのあたりにぶちかますことができれば、あたかもボーリングでストライクを取るときのように、スカッと全てが崩れ落ちることだろう。うん、そうに違いない。間違いなく全て崩れ落ちる。
問題は投擲点から目標点までの距離と、それから俺自身の命中精度である。俺は、ボールを投げるような競技が特別苦手ということはないが、しかし実は、こういう風に手桶を投げるのは初めてのことで、正直狙ったところに百発百中で当てることができると断言できるか、といえば断言できない。目標点にピタリと当たる確率は、よくて五分五分と言ったところだろう。
でもまぁ、おそらく少なくとも的外れな方向にすっぽ抜けることはないだろう。少なくとも、あの山のどこかしらには当たる、はずなのだ。そうすれば多少なりとも音がするだろうし、どうにかあの人の関心を引くことはできる、はずなのだ。だいじょぶだ、落ち着けば当てられる。あれだけ大きな的を、この程度の距離から狙うんだ、当てられないはずがない。
よし、いけるいける。この作戦ならいける。これならば何の波風もたてずに全てを穏便なままで片付けることができる。しっかり狙えよ…、二つ投げることができる余裕は、残弾的にも状況的にもないんだ。一発できっちりと山を崩して、そして一気に走り抜ける。それですべてが解決するはずなんだ。欲を言えばもう少し温泉につかっていたかったけど、なに、また後で、あの人が出たころにもう一回来ればいいだけだ。
とにかく、今はただ狙って崩すだけを考えろ…、頼むぞ、俺…、しっかり、きっちりだ……!