教会より脱出せよ!
「霧子、昼飯食うから姐さんたちと合流するぞ」
「にゅん」
「……、聞いてないな」
教会に入ってから30分と少しして、俺は姐さんからお土産の買い物が終わったから合流しよう、という電話を受けた。そして、時間的にもちょうどいいから昼飯にしようか、ということなのである。
そんなわけで俺たちは今から、まさに俺たちがいるところの教会から一歩を踏み出さなくてはならないのだが、しかしその第一歩を踏み出そうにも踏み出せずに手をこまねいている、いや、足をこまねいているのであった。
「霧子ちゃん、ご飯にしようと思うんだけど」
「にゅん」
「……、聞いてくれよ」
「ゆっきぃ、きりりん、どうしちゃったの?」
「霧子はどこかに行っちゃったんだよ」
「? きりりん、ここにいるよ?」
「魂だよ、魂がどこかに行っちゃったんだよ……」
「ほぇ、きりりんってば、どこかにいっちゃったんだなぁ?」
「お前、語尾にハテナつけながら、よく分かってないのに分かったみたいに返事するのはやめろよな。ったく…、俺の言ったことに対して適当に相槌打つのだけ、どんどん得意になっていくな、お前は」
「え~、そうかなぁ~、えへ~。にゃは~、ゆっきぃにほめられちゃった~」
「いや…、褒めてないんだよなぁ……」
そんなくねくねしながら喜ばれても、正直困ってしまうのである。というか、俺としては褒めているつもりは全くなくて、むしろ気をつけなさいよ、と注意しているつもりなのだが、まぁ、人間はそう易々と思いを言葉で伝えることはできないということなのではないだろうか。
まぁ、そもそも志穂に対して皮肉を込めて何かを言ったとしても、その皮肉の部分が理解されることは九割五分あり得ないわけで、俺の言葉選びも悪かったと言わざるを得ないだろう。志穂に何かを物申すときは真正面からまっすぐに、野球で言うならど真ん中ストレートで攻めないといけないわけで、基本的に変化球中心で低めに集めたい俺みたいな技巧派タイプが相手取るにはなかなか厳しい相手なのである。
「まぁ、いいんだけどさ、それは。それより霧子ちゃん、さっき姐さんから電話があってな、あっちは買い物終わったからこっちに合流したいんだってさ。それでな、時間的にもちょうどいいから一回ここから出て昼飯にしようかって話になったんだ。というわけで、霧子、ここからいったん退散する準備をしてくれ」
「にゅ~ん」
「おい、さっきよりも返事がぞんざいになってるぞ、霧子。もっとかまってくれないと、俺、泣くぞ」
しかしどうやら、この教会は霧子のハートをがっちりつかんで放さないらしかった。俺は霧子と違って教会とかの良し悪しみたいなものはよく分からないから、どこら辺のポイントが霧子のハートをクリティカルでぶちぬいたのかということは判断できないが、しかしどうも、この空間をいたくお気に入ってしまったということだけは確からしい。
まぁ、確かにこの場所がいい場所らしいということくらいだったら、俺にでも分かるというものだ。地元の人にはあまり人気がないのだろうか、あまりに静かすぎるがらんどうの聖堂は大きなステンドグラスを通して差し込んでくる陽光によってほのかに照らされ、キラキラとした色とりどりの光たちがキレイに磨き上げられたタイル張りの床を彩っている。
そして、無数の色ガラスを組み合わせて造られているそのステンドグラスには、幼子の姿をした神の子イエスとそれを抱く聖母マリアの姿がモザイク調で描かれている。信徒ではない俺にはそれがどういった宗教的意義を持っているのかは分からないが、その存在感には少なからず圧倒されるし、それに素直にキレイだと思う。
そしてなによりこの、ピンと張りつめたような、どうしてか少し寒気すら覚えるような空気の感じがいいのだろう。これは聖域と呼ばれる空間に特有のもので、神社なんかでも感じるのだが、きっと神様に見られてるのってこんな感じなんじゃないだろうか。
「霧子、そんなにここが気に入ったんならあとでもう一回来てもいいから、今はとりあえず出よう。さっき、姐さんにもすぐにそっちに行くって言っちゃったんだって。だから早くいかないと」
「にゅぅ……」
「霧子! 頼むから俺の話を聞いて! 俺、姐さんに遅い! って怒られるの嫌な! だから、お願いだから、いっしょにここを出て、姐さんたちのいるところにいこう! な!?」
「にゅ~ん……」
「…、もう聞く気ないんだなぁ、この娘ってば。それとも、昼飯いらないってことなのかなぁ……? 俺のことを無視することで遠まわしにそう言ってる、とか?」
「にゅ」
「ゆっきぃ、きりりんはここがだいすきなんだね。もうでたくないんだね」
「そうなのかもなぁ…、霧子って基本よわよわに見えるんだけど、微妙に頑固だったりもするんだよな。それに集中しちゃうと周りが見えなくなっちゃうし。まぁ、そういうところもかわいいんだけどな」
「あたしもがんこ?」
「志穂よりも姐さんの方が頑固だろ」
「え~、そうかなぁ~?」
「…、志穂、言っとくけど、頑固って別に褒め言葉じゃないからな? お前はきっと頑固って言葉の意味を分かってないだろうからいちおう言っとくけど、そんなに誉めてないからな?」
「そうなの? かわいいとおんなじようなことばじゃないの~?」
「え~…、いや、確かに俺は頑固な霧子もかわいいって言ったけど、それは頑固とかわいいが同じ意味ってことじゃねぇよ。お前は、もう少しいろいろと考えて生きていった方がいいと思うぞ、志穂……」
「にゃ~、ことばってむずかし~」
「そうか、言葉は難しいか……。俺にしたら、お前にとって難しくないこととしてどんなことが挙げられるのかが疑問でならないよ」
「むずかしくないのは、たいく?」
「体躯? …、あぁ、体育な。確かに体育は、お前に取っちゃ難しいことじゃないだろうな。でもな、志穂、身体を動かすだけじゃ生きていけないんだぞ。頭もいっぱい働かせないとダメなんだ。なんていうか、反射で生きてちゃいけないんだよ」
「はんしゃ?」
「そうだ、ちゃんと脳を通していかないと。脊髄で止めてちゃいけないんだよ」
「? わかった~?」
「あぁ…、分かってくれなかったか……。ちょっと難しいこと言いすぎたな……」
「ゆっきぃ、どんまい!」
「今、この瞬間、お前にだけは言われたくなかったな、その慰めの言葉」
しかし、さて、どうやら言葉だけで霧子をここから連れ出すのは無理っぽいと判断した俺は、とりあえず何としてでも昼飯に連れて行かないといけないわけで、仕方がないから何らか直接的手段を取ることによって霧子の魂をここに呼びもどすことにした。まぁ、別に直接的手段と言っても暴力的に危害を加えていったり、破廉恥なボディタッチによって強制的に意識を取り戻させるわけにもいかないわけで、取ることができる方法は非常に制限されてしまうわけなのだが。
「志穂、霧子の後ろに立って」
「? は~い」
「じゃあ、俺が合図したら手で目隠しするんだぞ。分かったか?」
「は~い」
「よし、やるぞ」
「うゅ? やるって、なにを?」
「ん? 霧子のことをここから連れ出すんだよ。これから昼飯だからな。志穂だっておなか減っただろ?」
「うん、おなかへった~」
「それじゃあ、さっさと霧子を連れて姐さんと合流するからな。志穂は何があっても霧子にしてる目隠しを外すんじゃないぞ」
「うん、がんばる!」
「よし、じゃあ目隠ししてくれ」
「は~い。えい!」
「…、にゅ? 暗い?」
「霧子、大変だ! 妖怪だ!」
「よ、妖怪!? きょ、教会に、妖怪はいないよ!?」
「それは霧子の思い込みだ! やつらはどこにだっているんだ! っていうか今、霧子の目の前が真っ暗なのはそいつのせいなんだぞ!」
「ふぇ…、ゆ、幸久君…、どうしよう~……」
「とりあえず、立ち上がったりするなよ。座ったままだ、座ったまま」
「ぅ、うん……」
実は、俺は長年の付き合いによって霧子の生態をよく理解しているから、さっきみたいに魂をどこかに飛ばしてしまった霧子がどういう風にしたら意識を取り戻すか分かっているのだ。それに意識を何とか取り戻させた後、どうしたら再びどこかに魂を飛ばさせてしまうことなくその場から霧子を連れだすことができるかも分かっているのである。
具体的にどうするかといえば、何はともあれ視界を奪うのだ。霧子がどこかに魂を飛ばしてしまうのは、基本的に何かキレイなものとかキレイな景色とか、そういう目で見る類のものであることが多い。だからそれを奪ってしまえば必然意識も帰ってくる。
しかし気をつけなくてはならないのは、意識が戻って来たからと視界を返してあげると、再び瞬く間に意識をどこかにやってしまうというやっかいな性質があるという点だ。だから絶対に視界を返してあげてはいけない。その点だけを守れば、霧子は意識を取り戻した状態をキープしてくれる。
しかし、最近霧子もとみに賢くなってきて、真っ暗になっている状況を解決するためには目をふさいでいる俺の手をどけてしまえばいい、ということに気づいてしまったのだ。それに気づかれてからというもの、目を覆っているものから俺の手の感触を感じ取るといそいそと外しにかかる、という困ったことになってしまうのである。だから霧子の目を覆うのは俺の手であってはならないわけで、第三者の協力を得なくては太刀打ちすることもできなくなってしまっている。
「久しぶりに出てきたな、妖怪『空目隠し鬼』」
「にゅぅ…、どど、どうしよぅ~……」
「とにかく、いつもと同じに対処するぞ」
「ぅ、うん! 妖怪『空目隠し鬼』は、立ち上がると目隠ししてる人を食べちゃうんだよね……」
「そうだ、だから立ち上がるなよ」
さて、どうやって霧子に目隠しをしたままその場から立ち去るかと言えば、そこで出てくるのが妖怪『目隠し鬼』なのだ。
視界を閉じたまま霧子に動きまわられると、その天性のドジスキルによってほぼ確実にコケる。コケられてしまうと、ほぼ間違いなく目隠しが外れる。『目隠し鬼』というのは、その手間を完全に取り去るべく中学生のころに俺が考えだした架空の存在である。
設定としては、『空目隠し鬼』は空に住んでいて、いつもは見えない。しかしぼぉっと座っているとその隙をついて目隠しをしてくる。びっくりしてその人が立ち上がると、待ってましたとばかりに頭をバリバリかじるという恐ろしい存在である。
それを導入することによって、霧子をビビらせることがより容易になり、また急に真っ暗になったことに驚いて暴れられて手が外れるということもなくなった。本当に、『空目隠し鬼』様様だ。
ちなみに、『空目隠し鬼』は霧子が座った状態でどこかに行ってしまった時用の妖怪で、そのほかには立ったままどこかに行ってしまった時用の、動いたら脚をバリバリとかじられてしまう『土目隠し鬼』などなど、いろいろなシチュエーションに対応したバリエーションを取りそろえております。
「よし、頭は上げるなよ。俺は霧子の前にかがむから、そのまま前に手を伸ばして背中におぶさるんだ」
「にゅ、にゅん!」
『空目隠し鬼』のご都合主義なところは、目隠しをされた本人が立ち上がったときはかじるくせに、その人が誰かにおんぶされて頭が上にあがったときはかじらないところだ。それは、なんというか、霧子が変に動いて手が外れてしまうことのないようにするために俺がおんぶして移動するための設定なのだが、まぁ、妖怪だし、これくらいのご都合主義は許されるべきだろう。
というわけで、俺は霧子の前にかがんで、おんぶの体勢に入るのだった。あとは、このまま霧子をおんぶしてこの場から逃走してしまえばいいだけだ。おんぶという軽度のスキンシップを伴うやり方だが、まぁ、仕方ないだろ、うん。
「ゆっきぃ、きりりんのことおんぶするの?」
「仕方ないだろ、そういうルールなんだから」
「あたしはどうすればいいの?」
「え? 引き続きがんばってくれれば…、ん?」
俺が霧子をおんぶして立ち上がるってことは、それはつまり霧子の頭は俺の頭と同じ高さに来るわけで、それって志穂の手は届くのか、っていうことにならないか?
「うん、がんばる~」
しかしそれに気づいたからといって、立ち上がり始めてしまった体を止めることはできないわけで、つまりこのままでは志穂の手は霧子の目から離れてしまうってことに。
「ん~…、にゃっ!!」
「っく……!!」
「ゆ、幸久君!? な、なにか背中に乗ってきたよ!? 今まではこんなことなかったのに、なんか変だよ!?」
「し、心配するな…、今回のはちょっとレベル高いやつだってだけで、基本的に対処は変わらないから……」
「だ、だいじょぶ……? 頭から食べられちゃわない……?」
「心配するな、そんなことはないから……」
志穂は、どうやら俺が想像していた以上にがんばってくれたらしく、どうやら俺が霧子をおぶって立ち上がるのに合わせて跳び上がり、俺におんぶされた霧子の上から器用に覆いかぶさったようだ。言うなら二人まとめておんぶした状態という感じだ。
まず、二人分の重みが、合わせて80キロもないくらいだろうが、のしかかってきて思ったよりも重い。いつものように一人ずつおんぶする分には大した重みではないのだが、しかし二人の重さが合わさると流石にけっこうクるものがあるな……。
そして、志穂の脚が脇腹に激しく食いこんできて若干痛い。まぁ、脚が脇腹に食い込んでくるのは、本来なら首に巻き付けているはずの両手を霧子の目を隠すので使ってしまっている志穂ががんばっている結果なので仕方ないのかもしれないが。というか、両足で俺の胴をクリップのように挟んで体勢を維持するなんて、どんな筋力してるんだ、って感じである。
「ゆ、幸久君、平気? なんだか苦しそうだけど……」
「平気だ…、平気だから動かないで……」
「ぅ、うん……」
そして俺は、よろよろと聖堂の中から、霧子と志穂を二人まとめておぶった状態のまま脱出することに成功したのだった。重かったのと痛かったのは予想外だったが、まぁ、状況を打開するための必要経費みたいなものだろう。
しかし、あと何回この手が霧子に通用するというのだろうか。今はまだすっかり俺のオリジナル妖怪の存在を信じ込んでいるから大丈夫だろうけど、でもしばらくしたらそんなものは本当はいないって気づいてしまうのだろうか。
…、それは少しさみしいなぁ……。でもまぁ、今回は何とかなったし、別に気にしなくていいっちゃいいんだけどな。